7. 明日


 教師に急な出張はほぼないのだが、この日は例外だった。
 行くはずだった教諭の生徒が部活で怪我をして、急遽病院に付き添うことになった。代理として、部活顧問をしていない俺が行くことになるのはやむを得なかった。
 出張に必要な書類を書き、事前資料を短時間で読み込み、そうして慌てて講習会の会場に駆けつけた先では代理人であることを相手に飲み込ませるのにまた手間取り、講習の前に精魂尽き果てるところだった。
 なんとか終えて報告書を作るために職場に戻り、すべてが終わったころにはもう終電も怪しい時刻になっていた。


 坂田に連絡していないことに気づいたのはその時だった。
 講習会中に例の女子生徒から電話があっては困るので、会場に着く前に着信音を切った。そのままケータイの存在ごと忘れていたのだ。いつも帰宅時間が読めたらショートメールを入れているし、出張があるときは前もって伝えてある。今日の俺は、いわば行方不明状態だ。
 恐る恐るケータイの画面を見る。

 着信は例の生徒だけだった。

 終電に飛び乗って、なんとか家に辿り着いたがすでに零時を回っていた。寝室は暗く、坂田は眠っているらしい。
 食卓の椅子にスーツのジャケットを投げたら、もうなんだかどうでも良くなってきた。そう言えば昼にコンビニ飯を食って以来何も食べていないが、空腹を通り越して腹も減らない。
 とにかく疲れた。
 睡眠時間が削られると疲労が倍増する。若いときは二徹くらい平気だったのに。
 意識が遠のく。今寝たら風呂に入り損ねる……

「だから言っただろ。今日こそベッドで寝ろよ」

 乱暴に肩を揺すられて初めて、自分がテーブルに突っ伏して寝ていたことに気づいた。

「ふろ……」
「明日入れ」
「……さかた?」
「寝ろ」

 腕を取られ、勢いよく立ち上がらされた。そのまま腕は肩に担がれ、腰に手が回って身体ごと運ばれていく。

「これは仕事に口出してるんじゃねえ。アンタのカラダに口出してるんだ」

 顔が見えない。声しか聞こえないから余計に、坂田が怒っているのが肌でわかる。

「そのカラダはアンタだけのモンじゃねえ。俺のモンでもあるだろうが」

 ベッドに放り投げられるかと身構えたが意に反して、坂田は慎重に丁寧に、俺をそこへ下ろした。

「酷え顔してる」

 坂田の手が俺の頭に置かれ、そこからゆるりと滑って指が目の下を撫でる。起き上がろうとしたが身体に力が入らない。

「かばん……」
「いいから。あとでこっち持って来とくから。中は見ねえよ、大丈夫」
「でも、」
「寝ろよ。明日まだ仕事あんだぞ」
「めざまし」
「もうしゃべんな」

 目がまともに開かない。
 諦めて目を閉じると、唇に柔らかなものが触れた。

「知ってたらもっと………」

 その後は記憶にない。


 目覚ましの音で意識が浮上する。
 朝だ。
 飛び起きて時計を見ると、いつも起きる時間より一時間早かった。

「なんでわかった……?」
「いつもそうだろ」

 隣で坂田が大欠伸しながらもごもごと答える。

「出張? の翌日は、なんか早く行くんだろ」

 なんだか知らねえけどいつも三十分くれえ早起きしてっけど、昨日風呂入り損ねてたからもう三十分早めといた、と言いながら坂田はたちまち二度寝の態勢に入る。
 熱めのシャワーを浴びたらやっと目が覚めてきた。冷蔵庫を開けるとポテトサラダがマヨ多めで作り置かれていた。適当にコップに水を汲んでポテサラを機械的に口に運ぶ。ひと心地ついた。
 慌ただしく着替えて家を出た。いつもより早い電車だったので幸い座席は空いていた。座るほどの距離ではない。普段なら。
 だが今朝は身体がいつもより重い。思考だけが変に冴えて、身体の怠さと噛み合わない。ああ、今日の授業の準備が途中だった。職場に着いたらまず昨日の報告をして、職員会議の後に五分なら取れるが、せめて十五分欲しい。ホームルームを遅らせるわけにはいかない。どうする。どこを削る。どうすれば……、
 こういう時に考えた段取りが上手くいった試しがない。無理矢理目を閉じて、今朝の朝食を思い出す。マヨネーズをたっぷり吸ったマッシュポテト。ハムの塩分が程よく絡まっていた。そこにきゅうりの食感。塩揉みしないほうが好きだと言ったのを覚えていたのだろう、しんなりし過ぎず、ぱりっとした感覚が心地よかった。
 昨日坂田は寝ずに待っていたのだろうか。連絡もしない俺に、どうしたと聞くこともせずに。一昨日の翌日だ、腹も立てていただろうに。腹が立っていたからこそ、坂田からはメッセージのひとつも送ってこなかったのだ。それでも好物を用意して。きっと不甲斐ない年上のパートナーに呆れながら、そのパートナーの翌日のために一人キッチンに立っていたのだ。
 不意に涙が出そうになった。
 不味い、だいぶ疲れている。
 ケータイが鳴る。マナーモードにするのを忘れていた。肝心なときには音が出ず、こんなときには鳴り響く間の悪さ。周りを伺いながら画面を見ると、例の生徒からショートメールが入っていた。昨日メッセ送ったけど見てくれた?あと既読つかないと不安だからLINEのID教えて。
 言われて初めて未読のショートメールがあることに気づいた。『今日電話繋がらなかったから、明日また教えてね』という文にかわいらしいアイコンが添えられていた。
 送信時間を見る。ああ、終電に向かってダッシュしてたときだな。昨日最後に学校でケータイをチェックして今まで見ていないから、気づくはずもない。それにしても夜更かしだな。
 教師にメールする時間ではない。少し図に乗り過ぎだろうから注意しておこう。いつしよう。今日は特に忙しい。どこなら空けられるだろう。昼休みをもう少し削って、書類は食べながら作るとして――
 思考がまた空回りし始める。気分がどんよりと重くなってきた。


 坂田の補習をしていたとき、同じように時間が押して焦ったことがある。
 もうひと息なのに、あと一時間あればこの生徒は理解できるのに、と気が逸って、つい口調も荒くなり坂田を急かした。そうすると坂田は眠たげな目を問題用紙から離して俺を見た。

『次にしない? 俺、今日ンとこまでで頭パンクしそう』

 この問題次までに一人でよく考えてくるからさ、という言葉を、俺は坂田が帰りたい一心で適当に誤魔化したのだろうと思っていた。そう思った上で、渡に船とばかりにその言葉に乗り、職員会議に駆け戻ったりもした。
 あれは、サボりたい生徒の苦し紛れの言葉ではなかった。
 『モノが浮かんで初めて腹に落ちる』と後に坂田は言ったが、この時俺はそれを知らなかった。教科書の内容をどうにか言い方を変えて、出来の悪い生徒に飲み込ませようと躍起になっていた。
 坂田は坂田なりに、『モノ』に結びつけようとあれこれ考えを巡らせていたに違いない。そして俺の補習の時間内ではそれが出来ないとわかったから、『次までによく考えてくる』と言ったのだろう。
 それだけではない。
 きっと坂田は気づいたのだ。俺が何かに焦っていることに。だから、互いのために今日は止めよう、次にしようと提案したのだ。
 次、と坂田は言った。
 『明日また教えて』というときの『明日』は生徒にとってさほど大きな意味合いはない。昨日と同じ明日は必ずやってくるという確信。そこに基づいた、『来るに決まっている未来』を漠然と『明日』と呼ぶ。
 だが俺たち社会人にとって明日とは、スケジュールを思い浮かべるべきものだ。喩えるなら玩具のブロックが積み重なったできた明確なカタチだ。イレギュラーなパーツを組み込むには、出来上がったカタチをいったん崩して再構築しなければならない。
 生徒に悪気はない。教師も自分たちも必ず学校にいるであろう『明日』。昨日と同じように明日も教師から教わるのが当然で、望みさえすれば時間を取ってもらう権利があると信じている。そして大筋でそれは正しい。
 しかし俺たち教師にも都合がある。生徒に相対するだけが俺たちの仕事ではない。『明日』の指導時間を、生徒があると信じて疑わないだろうが、実はすでにびっちりと予定が詰まっている。職員会議、翌日の授業の準備、プリントの作成、小テストの採点……思い浮かべるだけでもうんざりする。『明日』と指定されても、時間が取れるとは限らない。生徒に教えるのが仕事であるはずの教師なのに、生徒のために自由に時間を確保することが約束できない。
 坂田は『明日』とは言わなかった。『次』とは俺が指定する時間だ。俺の裁量で用意する時間だ。だから俺は坂田の補習を続けられた。三度目の補習で、やっと坂田が理解したときの爽快感。教師の本懐だった。そのときも坂田は生気のない目でプリントを見下ろしていた。


 あの眠たげな目。
 口を出すなと切り捨てた夜、坂田はあの目で俺の何を見たのだろう。

「土方センセ、メッセ見てくれた?」
「今日は空いてねえ。ところでお前、」

 屈託なく駆け寄って来た女子生徒の顔を見るのに、平静を保つ努力が必要だった。

「先週の小テスト、まだ返してねえが」
「うん、どうだった?」
「わかってんだろうが」
「うん……えへっ」
「もう補習はいらねえな?」
「バレたか! ごめーん」

 あっけらかんと彼女は笑って舌を出した。

「先生と二人っきりって楽しかったんだもん! まあいいや、またわかんないとこあったら教えてねー! あとLINE教えて」
「教えねーよ」


 坂田のあの眼に、俺は何を見抜かれているだろう。


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