5. 休暇


 同居したてのころ、俺が連日出勤するのを見て坂田が呆れたように言ったことがある。

『先生って休み長くねえどころか休みねえんだな』

 同僚も似たようなものだと答えると、坂田は首をゆるゆると横に振った。

『先生って、教師全般のこと』

 そして、ふいにくす、と笑ったのだった。

『十四郎だけじゃないよ』

 思えば、このとき初めて坂田は俺のことを名前で呼んだのだったかもしれない。



 そんな坂田だから、俺が連休を取ったと言ったときはまず体調不良を疑った。

「そうじゃねえ。普通に休みが取れただけだ」
「ほんとに?」
「体調不良なら平日に取るだろう、病院行くんだし」
「先生……土日は休み『取る』って言わねえと思うけど、普通なら」

 坂田は知らないだろうが、これでも俺は週に一回は休みが取れているのだ。部活の顧問をしている同僚など週一の休みすらままならない。
 実は昨年度末に、部活の顧問を打診されたことがある。返事を保留しているうちに有耶無耶になって結局他の職員が担当することになった。
 なぜ即決できなかったのか。
 生徒からの依頼だったならともかく、同僚からの打診には気が乗らなかった。休みは減るし手当も出ないと聞く。
 坂田の顔が浮かばなかった訳ではない。休みが減れば坂田と顔を合わせる時間も減る。そのことに思いが至らなかったと言えば嘘だ。だが公私は分けたつもりだ。休みが取れないのは困る、それは授業の準備に割く時間も減ることを意味するからだ。決して坂田と会える時間が減るからではない。

「先生って――あ、教師って職業のほうね」

 坂田はゆっくりとコーヒーを淹れている。自分はコーヒー牛乳でいいんだと言うくせに、同居するときわざわざコーヒーメーカーを買って持ってきた。職員室で良く飲んでたよね、などと言いながら。インスタントだと言ったのに。

「俺が学生だったころはさ、先生って夏休み一ヶ月あっていいよなぁと思ってたけど、ほとんどねえじゃん休み」
「そうだな」
「帰ってきても親から電話あるし、生徒に呼び出されるし」
「そうだな」
「いっつも仕事してるよね」
「……なんだ。不満か」
「そうじゃねえよ。大丈夫なのかってこと」

 坂田は珍しく険しい顔をした。

「身体、辛くねえ?」

 もう慣れた、と答えると坂田は黙り込み、そっとマグカップを差し出した。コーヒーの香りが染み入って、自然と目を閉じた。

「……こんなに忙しいって知ってたら飲みになんて連れ出すんじゃなかった」

 目を開いて坂田の顔を見ようとしたが、坂田は背を向けていた。表情が見えないせいで、意図が読めない。最近坂田と外で飲んだだろうか。思い返してみたが心当たりはなく、内心首を傾げていると坂田が振り返った。唇は笑みの形に弧を描いているのに、その目は痛々しそうに歪んでいた。

「どっか連れ出そうかと思ったけど寝たほうが良さそうだな。美味いもん作るよ。何がいい?」
「マヨネ、」
「却下。も少しこう……身体労ってくれよホント。やっぱり俺が決めるわ。なんも考えなくていいから、とりあえず寝てな。出来たら起こすから」

 寝室に追いやられ、不満ながらもベッドで目を閉じたらそのまま眠ってしまったらしい。気づいたら朝だった。

「起こすって言わなかったか」
「腹減った? 朝飯にしよ」
「おまえ、夜は」
「俺はテキトーにできっから。俺のことより自分の心配しろよホント」
「……」

 情けない。年下に気を遣われるなんて。
 顔に出したつもりはなかったのに、坂田は困った顔になってベッドの縁に腰を下ろし、そっと俺の髪に手を置いた。

「俺はテメーが納得できねえことはしねえ奴だって、先生はよく知ってるだろ」
「……」
「先生が忙しいのはわかったし、それが仕事なんだ。仕事の仕方にまで口出すのは違うと思ってるよ、一緒に住むときそう約束したし」
「……」
「けど、家にいるときは俺の好きにする。昨日は疲れてそうだから寝かしときてえって、俺が思っただけ。食わせてえと思ったら遠慮なく叩き起こしてるよ」
「……」
「腹減ってた? 朝からガッツリいきてえ気分?」
「……その後は?」
「まったりしようぜ今日は」

 本当はどこかに行きたかったのではないのか。若者らしく遠出をしたかったのでは。
 お前に本音を言い出せないように仕向けているのは、この俺ではないのか。

『条件がある』

 と俺はあのとき切り出したのだ。
 同居してもいい、と答えたときだ。俺の部屋に来ればいい、と言っておきながら、俺は狡くも条件を出した。
 仕事の邪魔はするな、と。
 元とはいえ生徒である坂田に釘を刺す必要があると思ったのだ。毎日を共にするなら、今までのように甘い顔ばかりはできない。忙しくて気が回らないときもある。イライラを隠しきれないときも少なくない。
 それでも、俺は自分の仕事を片付けなければならない。だからその邪魔になるようなことはするな、と。
 あのとき俺は、自分が条件を出せる立場にいると思っていた。同居を受け入れれば坂田は喜ぶだろうと単純に思っていた。思いの外喜ばなかったことに狼狽え、それを隠すために尤もらしく『条件』などと言っただけだ。
 放っておけば坂田を甘やかしてしまいそうな自分への戒めだったのではないかと、後日俺は思い返した。
 だが違う。
 俺が坂田に甘えてしまいそうなのだ。
 だから殊更に仕事を理由にして、坂田に踏み込ませないための口実を作っただけだ。
 若者らしく休日は恋人と遠出をしたいだろうに。若い性欲を発散させたいこともあるだろうに。

 坂田の顔を見る。目が合う。柔らかく細められる深紅の瞳、緩む口元。

「……マヨ」
「やっぱり?」
「ねえのか」
「うーん、こんなにヨレヨレの時くらい控えてほしいんだけどなぁ。まあしゃーねえ」

 やっと坂田が破顔した。
 この顔の輝かしさ。
 ずっとこんな顔をさせてやれたらいいのに。
 教師なのに、歳上なのに、俺は一体何をしているのだろう。

 坂田に手を引かれるようにして食卓につき、トーストにマヨを山盛りかけて頬張っていると、坂田がデザートだと言って黄色いプルプルを出してきた。

「なんだこれ」
「プリン」
「それはわかる。何で朝飯にこれだ」
「いや大事だろ。糖分」
「……」
「大丈夫だって! そっちは甘さ控えめにしてあるから! 砂糖ほとんど入れてねえ、冷てえ茶碗蒸しじゃねーかってくらい甘くねえから!」
「……」
「疲れてるときくらい糖分摂れよ、コーヒーはブラックにしといたから」

 昨夜一人ですることもなく、暇を持て余したあまり作ったのだろうと思えば断れるはずもない。ひと匙掬って口に運んでみれば、俺にとって程よい甘さが身体に沁み渡る。
 甘党の坂田にとっては足りないのかもしれないけれど、ブラック派の俺には過ぎた甘さ。
 俺に足りないもの。

「……美味い」

 途端に弾けるような満面の笑顔を浮かべた坂田の顔は本当に眩しくて、俺はそっと目を伏せた。



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