4. 引っ越し


 坂田は大学生を卒業したてのころ、一人でアパートに住んでいた。その部屋が、万事屋の事務所兼坂田の住居だった。

『確か、親御さんは』
『親っつーか養父な。今は日本にいねえよ』

 研究職で、海外の大学から招聘されているのを断り続けている、というのが高校のころのデータだった。

『大学卒業するまではな』

 坂田は言ったのだ。

『卒業したからにはもう、アイツは好きに生きたほうがいいだろ』

 今、坂田に最も近い年長者は俺ということだ。
 それなら俺は、養父に対する坂田の冷めた言葉を聞き咎め、真意を聞き質すべき存在だったはずだ。元担任であるならばなおさら。
 だが俺がそのとき真っ先に思い浮かべたのは、『同居するのに面倒な説明をしなくて済む』だった。坂田の養父の顔すら思い出せなかった。担任として数回は会ったことがあるはずだというのに。


 坂田の周りには常に人がいた。仕事を手伝う志村と神楽のほかにも、志村の姉や神楽の兄、高校の同級生たち、高校の前からの友人たち、常連の依頼人――坂田は一人で生活していたが一人ではなかった。
 身体を重ねるような関係になってからしばらくして、同居を提案してきたのは坂田だった。

『一緒に住んだらさ、もう待ち合わせしなくていいし。仕事の都合で会えないってこともなくなるじゃん』

 多くの友人たちに囲まれながら、坂田が同居人に選んだのは俺だった。何が良かったのか、俺には今でもわからない。
 そして俺は断らなかった。断る理由はいくらでもあったはずだ。元とはいえ生徒というのが最大の理由だったはずだ。
 なのに俺は坂田に押し切られた。ろくに反対する理由も言えなかった。いや、言わなかったのだ。
 坂田の誘いを断っても、そのあと二度と会わなくなるわけではない。それは明白だった。『先生の都合もあるだろうから、無理にとは言わないけど』と坂田は譲歩さえしていたのだから。
 けれど、きっとこれを境に会う頻度は少しずつ、坂田すら気づかないほどほんのわずかずつ減っていって、最後には会わなくなる。そんな未来が俺の頭の中ではっきりと見えたのだ。そしてあろうことか、俺はそうなりたくないと思ってしまったのだ。ただ身体の関係があるからというだけの理由で。

 同居してもいいと答えたとき、坂田は驚いたような顔をした。もっと喜ぶのではないかと予想していた俺は大いに狼狽え、それを隠すために必要以上に不機嫌な顔になったに違いない。

『え、ほんとにいいの? 無理してねえ?』
『してねえ。嫌なら別に』
『嫌じゃねえよ、俺が言い出したことだろ。一緒に住みたいよ、俺は』

 坂田はいつもの眠たげな顔ではなく、眉を寄せてそっと俺の顔を覗き込んだ。

『俺と一緒に暮らすんだよ。わかってる?』

 早く話を済ませたくて俺は頷いた。坂田は少しの間黙っていたが、やがて笑ってみせた。

『じゃあ部屋探すよ。いくつか候補挙げとくから、内見は一緒に……』
『俺の部屋に来ればいい。部屋は余ってる』
『……わかった。じゃあそうする』

 そうして坂田は俺の部屋に引っ越してきた。元の部屋は事務所として残し、坂田は毎日そこへ出勤していく。今までとあまり変わりはなかった。ただ、坂田が俺の部屋の鍵を持ち、毎日俺の部屋に帰ってきて俺と共に眠る。それだけの違いだった。
 一度、坂田の知り合いだという女が坂田に届け物をしに来たことがあった。坂田は急な仕事に呼ばれていて、俺が応対に出た。

『銀さんに……お留守なのは知ってます。土方さんにお渡ししとくようにと』

 仕事のギャラだという封筒を預かっただけで済めば良かったのだが、『よろしくお伝えください』と言ったその顔が意味深に微笑んでいるように見えてならず、俺は社会人として褒められない態度でそれを受け取って玄関を閉めた。物腰の柔らかな女だったが、芯の強そうなその瞳に俺の無礼な態度への驚きと呆れが見て取れた。その目が俺の脳裏に焼き付いて離れない。

『あ、ごめん。先生に言っとくの忘れてたわ』

 帰ってきた坂田に封筒を渡すと、坂田は苦笑した。

『急な子守を頼まれてさ。支払いどころの騒ぎじゃなかったから、後でいいって言ったんだけど引っ越したって言うの忘れてて。何度か夜に事務所のほうに来てたみたいで』

 子守と聞いて胸の奥につかえていたものが軽くなった。既婚者ということだ。ならば彼女には決まった相手がいるはずだ……と考えた自分に愕然とし、再び胸は重くなる。
 女の呆れ顔がしばらく目の前にちらついて、そのたびに胸の辺りが重く痛んだ。


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