吐露


 ぼんやり総悟の後に着いて行ったら、見知った通りに出たことに気づいた。もっと早くに気づいて然るべきだったのに、俺は相当ぼんやりしていたようだ。

「総悟、」
「……」
「おいどこ行くんだ」
「……」
「総悟」

 総悟はくるりと振り返った。そして平坦な目で俺を見つめながら、くいと顎で先を示した。

「わかるでしょう。旦那のバイト先でさ」
「……行かねえぞ俺は」
「るせーな行くったら行くんでさァ。言っただろィチャイナに借りなんぞ作ったらロクなことにならねえ」
「知るか、ッ離せ」

 一人帰ろうとすると、力任せに腕を掴まれた。通りすがりの人々が怪訝な顔で俺たちを見ては、目を逸らしていく。普通の人は厄介ごとに巻き込まれたくないと思うものだというのに、このバカときたら涼しい顔でぐいぐいと俺を引っ張っていく。抗いきれなくて、一歩、二歩と前に進んでしまう。

「あー俺。近くまでは連れてきたぜ。今しょーもねえ抵抗してらァ」

 いつの間にか俺を捕らえた手の反対側でケータイを耳に当て、総悟が誰かと話している。予想通りすぐにチャイナがこちらに向かって走ってきてたちまち俺の前に立ち、大きな目で俺を睨む。

「早くしろヨ。どんだけ待たせるネ」
「いつ俺が待てなんぞと、」
「私たちじゃない。銀ちゃんネ」
「ッ、離せ」
「別れてェならそう言いなせェ。『しばらく会わない』なんて中途半端な言い方しねえで、二度と会わねえって言ってくりゃァいいでしょう」

 総悟が後ろに回って俺を押す。チャイナは腕が抜けそうになるほど俺を前へと引っ張る。

「古今東西別れ話ってのァ、面と向かってするのが礼儀ですぜ」

 嫌だ。
 それをしたら永久に会えなくなってしまう。
 いや、それでいいはずだ。
 二度と会わないのが正しいのはわかっている。
 でも曖昧に終わらせたいんだ。
 いつか、死ぬまでの長い時間の中でいつか、また会えるかもしれない可能性くらい、残してもいいじゃないか。

「銀ちゃんの顔くらい見ろヨ。お前の目でガン見してみろヨ。そんでも別れたいならちゃんとそう言えヨ」

 チラリと振り返ったチャイナの目は、俺への敵意に満ち溢れていた。

「強がってるけど銀ちゃん、このまんまじゃ死んじゃうネ」



 前に来たときと店内の印象が違うのは、赤と緑の飾りつけのせいだろうか。
 よそ行きで、どことなく一線を引かれているような気がするのは俺の後ろめたさのせいかもしれない。
 カラカラとドアベルを鳴らし、俺はテーブル席に押し込まれた。思わず目を伏せてしまう。あのひとを、視界に入れないように。
 でも出てきたのはメガネのウェイトレスだった。

「あら、あなただったの」
「お待たせヨー。私ピラフお代わりネ」
「とりあえず肉食わせろメスブタ」
「黙りなさいヒヨッコの分際で、銀さん以外の男に蔑まれても気持ちヨくないのよ」
「テメーの肉は硬そうだし、肉叩きでブチのめしてやらァ」
「叩きなさいよッ……じゃないやさっさと座りなさいよ、あなたも」

 さっちゃんとかいう名前だったと思う。
 そのウェイトレスは冷ややかな目を俺に向けて言い放った。

「そしてさっさと注文なさい」
「あ、いや俺は帰」
「そうはいかないわ! 銀さんが私に嫉妬させるためにこんな男とあんなコトやこんなコトを……興奮するじゃないの!」
「へっ?ええ……」
「いいから早く決めなさいってば、銀さんたらこんな男のどこが……きゃっ」

「退けメスブタ、そいつに触るな」

 さっちゃんがよろめいて、黄色い歓声を上げた。銀さんが、銀さんが私を邪険に押しのけてくれたわ。いいのよ、もっと冷たくしなさい。
 そのひとは煩そうに彼女を店の奥へと追いやりながら、その目は真っ直ぐ俺を捉えて離れない。
 居心地が悪いことこの上ない。その目から逃れるように、俺は俯く。が、許されなかった。その手が下を向こうとする俺の顔を強引に押し留めた。

「ちょっと出てくる……マダオに言っといて」

 誰に向けた言葉なのか。視線の強さに反比例するような、弱々しい声がそう告げた。なぜか総悟とチャイナが請け合って、俺はまた腕を引かれてよろめきながらその背中を追うことになった。

 一か月ぶりくらいだろうか。久しぶりに姿を見た。後ろ髪が伸びたような気がする。この手にまた触れてもらえた。喜んではいけないのに、心が浮き立つ。きっと、喜んでいいような気持ちで触れてはいないとわかっているのに。

「どういうつもりにしてもよ。黙って居なくなンのだけは、やめてくんない」

 そのひとは俺を引きずりながら低く呻いた。

「どこ行ったのかと……そりゃ、家に行きゃとっ捕まえられンのはわかってるけどよ」
「……」
「でも、それはヤなんだろ」
「……」
「今日だって無理やり連れてこられたみてえだし」
「……」
「終わりにする? もう会いたくねえ?」
「……」
「答えろよ」


 その通りだ。もう会わない。
 足が止まった。振り返るのがわかる。俺は顔を上げられなくなる。
 もう会わないと答えれば済む。それで終わる。
 二度とこのひとの傍には、いられなくなってしまう。
 傍にいればみっともない自分を晒すだろう。綺麗なこのひとに似合わない自分を思い知ることになる。そんな俺ではなくこのひとには、もっと優しくて可愛らしい恋人がいればいい。
 さっちゃんとか。月詠さん、とか。
 そう言おうと決意して、俺は口を開く。

「も……会え、」

 けれど言葉は喉に無様に張り付いて、出ていかない。本当にいいのか、音にして後悔しないのかと俺を問い詰める。銀の髪のそのひとは、じっと俺の様子に目を注ぐばかりで、助けてはくれない。
 怒ってるよな。嫌われて当然だ。
 本当に好きだった。
 最後にもう一度だけ、間近で顔が見たい。
 これで最後にするから。
 恐る恐る顔を上げると、そこには怒りに燃えた目が俺を睨みつけているはずだった。
 なのに、俺の目に入ったのは、

「…………なんで、」

 真っ赤に腫らした瞼。くっきりと目の縁に浮き出た隈。痩せて見えるのは髪が伸びたせいだろうか。

「なんで、お前が……泣いてんだ」

 総悟とチャイナが顔を見ろと言ったわけがわかった。顔色は白に近く、手入れのされていない髪は跳ね散らかって、痩けた頬をひくつかせながら、そのひとは俺を見つめていた。

「なんで、そんな……泣くことなんて、なんも」

 いつものように俺を忘れて、友人たちの輪に戻り、そしてすぐに次の恋をするのではなかったのか。
 今までの女のように俺を通過して、常と変わらぬ日々を過ごしていくのではなかったのか。

「ないと思うの。俺をなんだと思ってんの」
「……だって、」
「俺だってなァ! 惚れた奴によくわかんねえ理由でフラれそうになったらッ、泣きたくもなンだろ! どうしていいかわかんなくなるだろ!? おかしいかよ!」

 店近くの公園に連れ込まれ、未だかつてないような乱暴さでベンチに放り出された。自分は座らずに俺を見下ろし、俺の襟を掴み上げるひと。

「理由はなんだ。女のことは言ったよな。なんもなかったって」
「あ……それは、」
「詳しく聞きてえか? つーか高杉と話したんだろ、どこまで知ってんだ」
「その……たぶん、ぜんぶ」
「そう。あんまり間抜けで嫌になった?」
「そうじゃない」
「じゃあ何だ」

 腫れ上がった瞼を精一杯見開くと、その中から恐怖に歪んだ視線が、俺以外を目に入れるものかとばかりに注がれていた。

「わかんねえんだよ。教えてくれよ頼むからッ、もうどうしていいかわかんねえんだよ……!」

 吠えるそのひとの頬にまた涙が落ちる。それを拭おうと手を上げると、はたき落とされた。そしてまた襟を掴まれて揺すぶられる。
 そういえばいつも大切に扱われていたな。
 友達とは殴ったり殴られたり、結構酷いこと言ったりしてたのに、俺にはいつも甘やかで、優しい手しか与えられなかった。
 こんなに乱暴に扱われたことなど、一度もなかった。

「それでいいと思う」

 知らず、声に出ていた。
 そう、こうして乱雑に扱われるのが、俺には似つかわしい。

「なんだよそれ」

 ずるりと体を引きずり上げられた。紅い目が近くなった。

「俺なんざ何にも知らねえまんまで充分ってか……?」

 混乱した。そして気づいた。俺の言葉は、会話の流れに即していなかった。
 そういう意味ではないと言おうとした途端、目の前がクラクラと揺れた。頬が鈍く引きつり、ズシリと痛みがのしかかってきた。
 殴られたのだと、遅ればせながら気づいた。

「もっと早く言えよ………!」

 両手が離れていく。近かった顔も、声も、離れていく。

「そこかよ。そこが間違ってンのかよ」
「なに、」
「俺は、お前に好かれンのが当たり前になり過ぎて。俺がお前にどんだけ惚れてるかって、それさえ伝わりゃ大丈夫なんだと思ってた」
「……」
「そうだよな。お前が未来永劫俺のこと好きとは限んねえよな」
「!」
「そりゃそうだ。当たりめーだけど、言えよ。もう好きじゃねえって」
「違う」
「違わねーだろ。会いたくねえってのはそういうことだ」
「違う!」
「違うなら説明してみろよ! どう違うんだッ会いたくねえってのは! そうとしか思えねえだろうが……ッ」
「違う。そうじゃねえんだ」

 ああ、どうしてそんなに泣くんだ。どうしてお前が泣かなきゃいけないんだ。
 俺か。
 俺が間違っていたのか。

「俺は……もっと、マシな人間だと思ってた。自分のこと」

 間違っていたんだろう。最後の最後に逃げ道を作って、もう一度会いたいなどと腑抜けた望みを抱いておきながら俺は、俺の醜さを隠したまま消えようとした。

「お前のそばにいると、なんか……上手くいかねえんだ。自分がイヤな人間になってく気がして」

 白状しよう。それで二度と会いたくないと言われても、俺はそういう人間なんだから仕方ないのだ。
 離れかかっていた足が、もう一度俺のほうに向く。顔はもう見られない。足元しか見られない。

「それじゃ、お前に似合わない……って、」

 それがすべてだ。
 嫉妬して、縛って、俺だけを見てほしいなんて思い上がって。
 そんな男は、お前に相応しくないから。


「……それだけ?」


 頭の上から、掠れて小さくなった声が降る。

「そんなことのために?」
「そんなこと……って!」
「たったそれだけ? ほんとに?」
「だけ、ってそんな」
「それっぽっちのことで別れようと思ったの?」
「それっぽっち、ってッ違う、俺は」
「なんでおめーが決めんの。俺にフサワシイってナニ基準だよ。勝手に決めんなよ」
「……でも」
「何でもいいけどそれってよ、」

 震える手が視界に入ったかと思ったら顎を捉えられ、また乱暴に上を向かされた。強制的に見せられたそのひとの顔は、涙に汚れ酷く歪んでいた。

「俺が決めることじゃねーか」

 ほろほろと涙は落ちる。男らしくそれを片腕で拭って、そのひとは奥歯を噛みしめる。ひくひくと喉は嗚咽に痙攣する。その隙間から、絞り出すようにそのひとは呻く。

「俺はお前がいい。この世でいちばんヤな奴だとしても、お前がいい――それじゃダメなの?」

 最後の言葉は震えて、うっかりすれば聞き取り損ねそうに乱れていたけれど、俺にしか聞こえない声だった。俺のためだけに絞り出された悲鳴だった。
 俺が受け取らなければ、消えてなくなる言葉だった。


「ごめん……ごめんな、おれっもっとマシなやつになるから……! きらいにはッ、なんねえでほし、」


 大きな手が頬を撫でてくれて、それから髪を撫でて、
 気づけば腕の中に埋もれていた。夢中で抱き返した。よく知ったはずの体は冷え切って、少し痩せていた。


「銀時……っ、ぎんとき、ぎんっ……」


 本当はずっと呼びたかった。
 会いたかった。
 触れたかったんだ。


「バカなのキミは。バカでも好き、だけど」


 耳元で涙声がひっそりと笑った。
 許されたと、その声で知った。




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