07






「やあやあやあ、ミズヒラくん! 退院おめでとう!!!」

 やっぱりついていくと言ってきかなかった日下部さんを引きつれて。芳春先輩と共に理事長室のドアをくぐった俺に真っ先に投げ掛けられたのは、そんな無駄に陽気な声だった。
 声の主こと凰堂学園理事長は、無駄に高そうな執務机からカツカツと靴音を響かせながらドア前までやってくる。その顔に浮かぶ眩しいほどの笑顔に、俺は内心うわぁと顔をしかめた。

「清水ですって、理事長」

 表情を取り繕いながら、「今はその名前で呼ばないでください」と冷たく突っ返す。視界の端で日下部さんが「ミズヒラ? 誰だそれは?」と言わんばかりに首をかしげていたけれど、そこら辺の説明はあとにさせてほしい。
 なんせ、芳春先輩にプラスしてこの人まで一緒になったら俺は扱いきれる自信がない。

「清水くんだろうとミズヒラくんだろうと、君が君であることは変わり無いだろう? 名前なんて些細なものだよ」
「はあ……まあ、そうですけど」
「それに、私のことは名前で呼んでほしいと何度も言っているよね? さあほら、悠史(ゆうし)と」
「オイコラオッサン」

 さっきあんたが言ったことと完全に矛盾してんじゃねぇか。呆れる俺の代わりに、芳春先輩が理事長に噛み付いた。

「ふざけてねェでさっさと本題に入れっつーんだよ」
「おや菅原くん、居たのかい」
「てめぇが呼んだんだろうが、クソボケジジィ」
「ああ、悪いが私が呼んだのはミズヒラくんただ一人だよ。伝言役御苦労様、お帰りはあちらだよ。早く寮に帰って次の作品を仕上げて、学園の知名度アップに是非とも貢献してくれたまえ」

 あくまでにこやかにスラスラと言葉を続ける理事長――大鳥悠史。優雅な仕草でたった今入ってきたばかりの扉を示す彼だが、口にする内容はひどいの一言に尽きる。
 ……ああ、いや、訂正。むかつくとかうざいとか、そういうのも含まれてるかもしれない。
 全く。いい大人が、一回り以上も年下の高校生相手に恥ずかしくないのだろうか。こんな男が理事長だなんてと頭痛がし始めるのを感じながら、俺はこめかみに青筋を立てている芳春先輩を宥めるように間に割って入った。

「まあまあ、先輩。こんな人、まともに相手にするだけ時間の無駄ですよ」
「…………」
「ここは一つ、こんな下らない挑発を華麗にスルーできる俺のほうが精神的に大人だなと思うことで理事長を見下して、ことなきを得ましょう」
「――清水くん。それ、なにもことなくなってないです」
「え?」

 困惑したような日下部さんの声。理事長が、と呟かれた言葉に導かれ理事長を振り返れば、なぜか彼は部屋の隅っこで壁と向かい合っていた。それも、絨毯の敷かれた床に体育座りをして。

「いいんだ、どうせ……どうせ私なんて、ミズヒラくんと比べればミジンコのようなものなのだから。ああ、ああ! 事実なのだから構わないさ、例え彼へのこの熱い思いが叶わなくとも……!」

 三十半ばの、高級そうなスーツをびしっと着こなした大人の男が、部屋の隅で体育座り。しかもなにやらブツブツ呟いている。あまりに気色の悪すぎる光景に、俺は思わず一歩後退した。
 必死に芳春先輩を説得している間に一体何があったのだろう。すがるように日下部さんを見遣るも、何も聞いてくれるなとばかりにただ首を横に振られる。
 困惑、困惑、困惑。そんな俺と日下部さんに挟まれて、なぜか芳春先輩だけが愉快そうに「ざまあみろ」と笑っていた。

 いやだから、一体どういう状況だ。













「えーっと、まず、俺の専攻についてなんですけど」

 理事長がどんよりとしたムードを纏っている間、俺はとりあえず日下部さんに俺の専攻と「ミズヒラ」という呼び名について話すことにした。
 有能な秘書さんが淹れてくれたおいしい紅茶を右手に、応接セットでテーブルを挟んで日下部さんと向かい合う。ちなみに、その秘書さんの上司は「大丈夫大丈夫、ミズヒラくんのあれは無自覚だから」「天然なのが彼のいいところだから」「天然万歳」とかなんとかとか、一人ブツブツ呟いていた。意味不明にもほどがある。

「ざっくり言うと、写真です」
「写真、ですか」
「写真です」

 一旦ティーカップを置き、空中でカメラを構える真似て無いシャッターをパシャパシャと押して見せる。

「写真を撮って、それを他の写真とコラージュしたりして、作品作りをしてます」
「コラージュ……」
「簡単に言うと、切ったり貼ったり重ねたりですね」

 ざっくりすぎる俺の説明に、俺の隣に腰かけた芳春先輩は「テキトーすぎんだろ」なんて呆れたように紅茶を啜っている。いや、だって、詳しく説明したって大して面白い話でもないし。いいだろう、別に。

「それで、まあ、雑誌や本に作品を使って貰ったり、たまに個展を開かせてもらっていたりします」
「んで、そこでウジウジしてるオッサンは、コイツのファン」

 それもかなり熱狂的な信者だ、と芳春先輩は付け足すが、そんな余計なことは言わなくてもいいだろうに。ちょっと微妙そうな顔をした日下部さんに、俺は芳春先輩を睨みつける。なんでも無い顔で無視を貫いてくるあたり芳春先輩は可愛くない。日下部さんとは大違いだ。
 けれど、正直言って先輩の言うことはほとんど事実だから、否定しようにもしきれないのが痛いところである。
 こほんと咳払いをひとつして、俺は話を続ける。

「ミズヒラヤスシ、というのが、写真家としての俺の名前です」
「あ、それで、さっき理事長は清水くんのことを『ミズヒラくん』と?」
「はい。そうなんです」

 ほんと、正直ミズヒラヤスシだなんて呼ばれるのはむず痒くて仕方ないので勘弁して欲しいんだけど。それでも何度言っても聞かないのだ、あの人は。

「アナグラムですか?」
「え?」
「名前です」

 清水恭平とミズヒラヤスシ、と日下部さんが言うが――アナグラム?

「すいません、アナグラムってなんですか……?」

 初めて耳にした言葉に脳が混乱する。恐る恐る問いかければ、日下部さんは一瞬きょとんとしたのち「あれ」と首を傾げた。

「ミズヒラヤスシってお名前、清水くんが考えたんじゃないんですか?」
「あー、えーと。師匠というか、が……」

 考えてくれ、まし、た。と若干語尾を濁しつつ答える。あれを師匠と呼べるのかどうかはいまいち微妙だけれど、まあいいか。あの人のお陰でカメラを始めたのには変わりない。

「お師匠さん、ですか」
「お師匠さん、なんです」
「なら、お師匠さんが狙ってやったんですかね」

 偶然ってことはないですもんね、と日下部さんはぼそり呟く。一体なにがだろう。さっき言ってた「アナグラム」のことだろうか? と首を傾げていると、それに気付いたらしい日下部さんが「えっとですね」と説明してくれた。

「アナグラムっていうのは言葉遊びの一種みたいなものなんですけど……ええと、文字を入れ替えて別の意味にする? みたいな感じ、ですかね」
「あー……」

 なるほど。しみずやすひら、だから、みずひらやすし、と。アナグラムの意味を理解した途端、日下部さんが言っていたことの内容も一気に解った。それと同時に、いつだったか師匠に「ミズヒラヤスシ」の名前を貰った時のことを思い出す。

『よし決めた。お前、今日からミズヒラヤスシな。いいか、ミズヒラ!』

 師匠はそんな風に、いかにも三秒で考えましたといった感じで俺にその名前を押し付けたわけだったりするのだけれど。案外ちゃんと考えてたのか、あの人も。なんだか意外だ。
 ……ていうか、ミズヒラヤスシの名前が本名をもじったものだってことに今日まで気付かなかった俺ってどうなんだ。かれこれ三年は使ってるっつーのに。自分の鈍感さに呆れる。

「なら、清水くんにとっては写真は、ほんとうに全部、お師匠さんから貰ったものなんですね」
「そう……なります、かね」

 日下部さんの言葉に内心首を傾げる。正直俺はカメラのことも写真のこともそんな風に考えたことはなかったから、その言葉はあまりしっくり来なかったのだ。
 だって、カメラの使い方も写真の撮り方も心惹かれるシーンの探し方も、あの人はまるで、食事の仕方でも教えるかのようにごく当たり前のものとして教えてきたから。だから、それが特別なものだという認識はあまりないのだ。

 何度個展をやっても、作品を大きな写真展に出展させてもらっても、写真集を出させてもらっても。今も部屋の隅でどんよりとしたオーラを放ち続けている理事長みたいに、俺のファンだって言ってくれる人がいても、あんまりピンと来ない。
 更に言うと今だって、この学園に「写真家」として美術特待を貰っていることすらいまだに信じられないのだ。

――けれど、

「そう、なんじゃないですかね」

 にっこり微笑んだ日下部さんがそう言った途端。なんだか不思議と、ずっと前からそうであったような気がしてきた。

「……そう、かもしれません」

 不思議な人だなあ、と思う。具体的にどこら辺がかはわからないけれど、日下部さんと話していると不思議な気持ちになる。
 やっぱり撮りたいなあという欲求に駆られて、俺そこで初めて、左手を怪我したことを心の底から後悔した。





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