07


「あんた、手の怪我も順調に治ってきてるんでしょ?」
「はい」
「スプーンもフォークもナイフも使えるようになって、着替えも、不自由なく自分一人でできるようになったんでしょ?」
「……はい」
「だったらなんで、そんな、ぶすくれた顔してんのよ!」

 辛気臭い! と叫んで、真生先輩はバアンとテーブルを叩いた。並んでいたカトラリーが跳ねてぶつかり、カチャカチャと金属質な音を立てる。いつもなら耳障りに思えるそれも、今の俺には届かない。
 なぜなら、今の俺の意識はぜんぶ、とある一人の人に支配されてるから。

「……いくらなんでも見過ぎじゃないですか、清水先輩」
「ナンノコトカナ、辻クン」
「ああ、見過ぎだって自覚はあるんですね、一応」

 そりゃありますよ、一応。唇を尖らせてそういえば、だめだこりゃと言わんばかりに額に手を当てて、真生先輩と辻くんは大きな溜息をついた。
 多くの学生で溢れる学園食堂の一角。正方形のテーブルのうち三辺は、もはやすっかり顔なじみとなったこのメンバーで埋まっている。ただし、残りの一辺――俺の左隣の辺だけが、不自然に寂しく空いていた。
 つい先日までその席に座っていた人は、いま、俺の視線の先にいる。

 久しぶりのウェイター服姿の日下部さんは、いろんな料理や食器の乗ったシルバートレーを片手に食堂内をあっちへ行ったりこっちへ行ったり、せわしなく動き回っていた。しかも、なぜだかよくわからないけれどその行く先々で生徒たちにキャーキャー言われては、キラキラした笑顔を振りまいている。
 日下部さんが本業に半分復帰して以来、一人で食堂に行くのも味気ないと怪我をする前にそうしていたように、俺は購買を利用してひとり教室で昼食を済ませていた。だから、真生先輩たちに誘われて数日ぶりに来てみたら、こうだったのだ。意味がわからない。
 あちらこちらで振りまかれる日下部さんの笑顔が営業用だってことくらい、ここしばらく一番近くで日下部さんのことを見てきた俺にはすぐにわかったけれど、やっぱりなんとなく、面白くない。それで真生さんに「ぶすくれた顔して」るとか言われてしまった、わけ、なんだけれど。

「なんなんですか、あれ」

 不機嫌さを隠しもしないで聞けば、ああ、と真生先輩は案外親切におしえてくれた。

「日下部さん、ここのところあんたとずっと一緒だったでしょ? それでいろんな人の目に止まって、あのかっこい人はだれなんだって噂になってたみたい。それが最近、食堂に行けばあの人に会えるっていうので、ずっとこんな感じみたい」
「はぁ……そうですか」

 日下部さん、完全に食堂のアイドルと化してるなあと、頬を赤らめたチワワ相手ににこやかに接している日下部さんを見つつ、複雑な気持ちになる。
 だいたい、あの人は「かっこいい」よりも「かわいい」だろうに、なんて、よくわからない対抗心を抱いたりして。

「はぁ……撮りたい……」

 日下部さんを、早く撮りたい。ファインダーに収めて、シャッターを切って。誰もよりも優しくてかわいいその笑顔を、一番近くから切り取りたい。
 自分の手で現像して、でも誰にも見せないで、綺麗にファイリングして、俺のものだけにしてしまいたい。
 こんなに一つのものに固執するのも、それだけをこんな風に強く「撮りたい」と思うのも、生まれて初めてだ。未だかつて経験したことのない感情に、正直言って、自分でもちょっと戸惑っている。

(師匠は、こんなときどうしたらいいかは教えてくれなかったなぁ……)

 師匠にも、こんな風に悶々とすることがあったのだろうか。

「ていうかそもそも、師匠、今どこにいるんだろ……」

 その後、注文した料理を持ってきたのが日下部さんではない、全く知らないウェイターさんで。さらにぶすくれた俺と真生先輩との間に一悶着あったのは、また別の話だったりして。









 噂をすれば影、とはよく言ったものだ。

 日下部さん食堂アイドル化事件(命名:俺)の翌日夕方、それはやってきた。
 たまには部屋でご飯にしませんか、と。ここ数日の日下部さん不足ぶりから思わず提案した俺に、笑顔を返してくれた日下部さんがご飯を作ってくれている最中のことだった。

 俺はそれを待つ間、日下部さんと暮らし始めてから買った広めのテーブルいっぱいに写真を広げていた。L版サイズに現像されたそれらはどれも、前回の個展後から今日までに撮ってきたものだ。左手が完治に近づいてきたということで、延期になっていた個展の準備に取り掛かり始めたのである。

 街並み、空、草花、人。様々な「きれいなもの」が写されたそれを矯めつ眇めつしつつ、選別していく。会場はどんな雰囲気にしようかとか、照明はとか、そもそもテーマはどうしようかとか、そんなことを考えながら。
 延期にしてしまっていた分、いつもよりも準備にかけられる時間は圧倒的に少なかった。それでも、妥協なんて絶対にしたくないし、今の自分でできる一番いいものを集めた個展にしたい。われながら、欲張りだとは思うけれど。

「清水くん」

 静けさの向こうから、それでも俺の集中を途切れさせないようにそうっと声をかけられる。気遣いに満ちたそれに顔をあげれば、カウンターキッチンの向こうから日下部さんが笑いかけてきた。
 いつの間にやら、部屋の中は良い匂いで満たされている。

「もうすぐできるので、そろそろ机を――」

 片付けてください、とでも続くはずだったのだろう日下部さんの言葉は、ピンポーンというインターホンの音で遮られてしまった。

「こんな時間に、誰ですかね。俺、ちょっと出てきます」
「お願いしま、」

 す、と言い終えるよりも早く、ピンポンピンポンピンポーンとインターホンが連打される。止まることなく、しかも徐々に変なリズムを刻みながらしつこいくらいに鳴らされ続けるそれに、俺はいやでも訪問者が誰なのかを把握してしまった。

「日下部さん、待ってください」
「え?」

 コンロの火を止めて、慌てて玄関に向かおうとしていた日下部さんに制止をかける。

「俺が出ます」

 というか、日下部さんに出させるわけにはいかない。でも、と困惑した様子の日下部さんをそのままに早足で玄関へと向かう。
 廊下にいるその人に悟られないよう、音を立てずに鍵を開けた。そうして、できるだけドアから距離をとってから、一思いにドアを開けた、瞬間。

――パンッ!

 銃声にも似た破裂音とともに、ぶわりと真っ白な紙吹雪が猛吹雪のようにあたりへ舞い散る。

「ハッピーバースデー、恭平!」

 紙吹雪の嵐がようやく落ち着いてきたころ、底抜けに明るいそんな声が俺に投げかけられる。クラッカー片手に満面の笑顔を浮かべたその声の主に、俺はやっぱり、と思い切り顔をしかめてしまう。

 伸びっぱなしでぼさぼさの黒髪を手ぐしでなでつけただけの頭に、手入れのされていない無精髭。リネンのシャツにジーンズというシンプルな格好とは対照的に、肩からは重たそうな機材バッグを提げて、足元はごつい革のブーツで固めて、その男はそこに立っていた。
 徹夜での撮影あけみたいな顔してるくせして、こんな辺鄙な山奥まで一体なにしに来たんだか。

「……俺の誕生日は今日じゃないってことと、いくらなんでも紙吹雪の量が多すぎるってことと、そもそもインターホンは連打するなってことと、どこから突っ込むべきですかね――師匠」

 俺が最後に付け足した言葉に、背後から日下部さんの「えっ!?」という驚きの声が上がる。どうやら、結局心配で玄関まで様子を見に来てくれていたらしい。
 いつもならその心配性気味なところもかわいいなあなんて思ったりするところだけれど、残念ながら、いまはそれどころじゃなかった。

「清水くんのお師匠さん……なんですか……?」
「あー、残念ながら?」

 そう。この、服装によってはホームレスにも見えそうなこの男こそが、俺の写真の師匠にあたる人だった。名前は織笠帷。綺麗なものしか撮らないのがモットーで、とくに人物写真に関しては気に入った人しか撮らないとかいう、いろいろぶっ飛んだ堅物である。

 あっけにとられたようにぽかんと口を開けた日下部さんから「その薄汚い人が?」という心の声が聞こえてくるようで、苦笑しかできない。
 まあ、そう思いますよね。でも、この薄汚い人が、ほんとうに俺の師匠なんです。しかも、業界じゃなかなか有名な写真家なのだから、人は見かけによらないというかなんというか。
 と、そこでようやく、師匠は俺の後ろに立つ日下部さんの存在に気づいたらしい。

「あ? 誰だお前。学生、じゃあなさそうだよな」

 よほど慌てて来たのだろう。エプロン姿に片手には菜箸を持ったままの日下部さんのことを、師匠は物珍しそうに上から下までしげしげと観察してから

「ま、いいか」

 とあっさり視線を外した。たぶん、日下部さんの容姿がとりあえず師匠の及第点だったのだろう。俺の面食いなところは、十中八九師匠のせいだ。

「ちょっくら上がらせてもらうぞ、恭平。茶の一杯や二杯や三杯くらい出せよな」
「飲み過ぎ。お茶飲み過ぎですから、師匠」
「いやー、本当は酒でもあったらいいんだけどなぁ」
「未成年に無茶言わないでくださいよ」

 学生寮の部屋に酒瓶なんてあったら大問題だ。いくら俺が理事長のお気に入りだからって退学は免れないだろう。
 ああ、もう。覚悟はしていたものの、完全に師匠のペースだ。乱雑にショートブーツを脱いでずかずかと部屋に上がり込む師匠に、なんだかもう何も言えなくなる。

「っつーかよぉ、お前、相変わらず堅っ苦しいなあ、その喋り方。あと、師匠はやめろよ、師匠は」

 むず痒いし、老けた気分になると聞いてもいないのにベラベラと喋りながら、師匠は勝手にリビングへと上がっていく。

「はぁ……わかりましたよ、帷さん」
「おう。それでいいんだよ、それで」

 満足そうな声を聞きながら、紙吹雪で散らかった玄関を見て肩を落とす。まあ、前回いきなり顔面パイ投げされたとこに比べたら、まだマシなほうかもしれない。

「あー……すいません。日下部さん」

 ちょっと、というか、かなりうるさくなります。申し訳なさでいっぱいになりながらそう言うと、しばらくポカンとしていた日下部さんは、ようやく正気に戻ったらしい。ぱちくりと二、三度瞬きしたのちに、ふにゃりと相好を崩した。

「清水くんと一緒だと、飽きることがなくていいですね」
「ハハハ。そう言っていただけると助かります」

 本当、噂をすれば影、なんて、誰が言い出したのやら。

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