05
それから、三日後。
「……うん、大丈夫そうだね。ざっくりスパッといってたから、逆に傷口も綺麗に治りそうだし。今日からは水につけたり、お風呂に入ったりしてもいいよ」
抜糸後の経過観察に再び病院を訪れた俺は、あのサンタクロースに似た医者からそんなお達しをもらった。傷口もそう目立たなそうだという言葉に、日下部さんは俺よりもよっぽど喜んでいた。
「よかったですね、清水くん」
学園へと帰る道中、信号が変わるのを待ちながら日下部さんはにこやかに言う。鼻歌でも歌いだしそうなその軽やかな口調に、なんでそんなに嬉しそうなんだろう、と俺は内心首をかしげた。
「お医者さんがああ言っていたなら安心ですね。俺、清水くんの手に傷跡が残ってしまったらどうしようかと、もう心配で心配で……」
「そんな心配するほどのことですかね? 別に女の子じゃないんですから」
顔とかならともかくてのひらだし、傷跡くらい別に残ったって構わないのに。何の気なしにそうつぶやいたら、ものすごい勢いで「だめですよ!」と否定された。
「女の子とか関係ないですよ。傷跡なんて、残らないのが一番に決まっています」
「はあ」
異論は許さないとばかりの強い語気に、迂闊にそうですかとも言えなくなってしまう。
じっと真正面を睨みつけていると、フロントガラスの向こうで赤信号が青へと変わった。それにあわせて、日下部さんが「動きますよ」と一言告げてゆっくりとアクセルを踏み込む。
この前の雨模様から一転、今日は澄み切った青空が遠くまで広がっていた。いい天気だなぁ、と大きなあくびをひとつ。車の中は適度な気温が保たれてるし、ぽかぽかと日差しがあったかいし、ほんとうにお昼寝日和だ。
ついうとうととしてしまいそうになる。瞼が重くなってきたところで、ぼそり、と隣の運転席から声が聞こえてきた。
「……それに、清水くんの手は綺麗なものを生み出す手ですから。俺のエゴだけど、その手も綺麗であって欲しいんです」
祈るようなその声のどこか切実な響きに、ぐ、と胸のあたりが締め付けられる。反射的に視線を落とせば、包帯の巻かれた自分の左手が目に入った。真新しい包帯の白さが眩しくて、それと同時にじわじわと耳や頬のあたりが熱を持ち始める。
「……日下部さん、時々ものすごく恥ずかしいこと言いますよね」
「やめてください言わないでくださいよ、俺だって恥ずかしくて仕方ないんですから!!」
チラリ、横目で隣を見る。ぎゅっと眉間に力を入れて道の先を見据える日下部さんは、俺よりもずっと、もっと真っ赤になっていた。眉間に寄った皺はへにゃりと情けなく垂れそうな眉をきりりと釣り上げさせているからなのかな、と考えたら、たまらなくかわいくて仕方なかった。
「そっ、それに、清水くんもよく言いますよ! 聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなこと」
「……え」
まじでか、うっそーん。全然自覚がなかっただけに、ちょっとショックだ。
……うん、なにもなかったことにしよう。日下部さんも恥ずかしいこと言ったし、俺も恥ずかしいこと言ってたらしいならお互い様だ。相手をからかえば同じだけ自分が恥ずかしくなることを悟って、俺はそっと心に蓋をした。
「でも、話は変わりますけど、お風呂入れるようになったのが俺的には一番嬉しいですね」
「清水くん、結局お風呂入るのは手伝わせてくれませんでしたもんね」
「いやいや、いくらなんでも無理ですって」
お風呂はさすがに無理だろう、お風呂は。
ウンウンと一人頷く俺を乗せて、車は学園の敷地内へと入っていった。
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それからさらに半月が経つ頃には、徐々に手を閉じたり開いたりすることまでできるようになった。保険医の指導の下リハビリをするうちに、簡単な文章なら書けるようになった。箸はまだ使えないけど、スプーンとフォークでならご飯も一人で食べられる。
そして、ついに今日。
「見てください真生さん! ようやく包帯外れたんですよ、ほら!」
昼間のざわついた食堂で、注文した料理をまつあいだ、ん! と俺は真生さんに向かって手を突き出した。包帯が外れ、簡単なガーゼだけになった俺の左手を目にして、同じテーブルについていた真生さんと辻くんが「おおーっ!」と声をあげる。
俺の隣にちょこんと腰掛けた日下部さんも、その様子をどこか自慢げににこにこと見守っていた。
「ついに包帯外れたんだ!」
「はい、おかげさまで! これでようやく一人で着替えられるようになります」
「……え?」
「喜ばしいことですけど、なんだか寂しいですね。どんどん手伝うことが減ってしまって」
「え?」
「俺はふつうに嬉しいですけどねぇ。なんでもかんでも日下部さんに手伝ってもらうの、正直申し訳なかったので」
「――いやいやいや、あんたたちさ、あのさあ」
ちょっと待って? と真生さんが、俺と日下部さんにストップをかける。いったいなにかとそちらを向いて首を傾げれば、真生さんは頭痛を堪えるように額に手を当てていた。
「……あんた、まさかとは思うけど、着替えまで手伝ってもらってたの?」
「え? はい」
だって片手しか使えないとシャツのボタンとかとめれないし。ネクタイとか、ベルトとか、ねえ? 無理だろう、ふつうに。片手だけで一人で着替えるとか。
怪我してなかったころは全然わからなかったけど、いざこうなってみると、制服ってすごく着替えづらい服なんだなってしみじみと思う。
うん、まあだから、なんだかんだ日下部さんに手伝ってもらっていました。それがどうかしたのかと瞬きすれば、はあーっと長いため息をつかれる。
「あのねぇ! あんた、いくらなんでも危機管理能力なさすぎでしょ!」
「え」
「この学園の特性、ちゃんとわかってる?! このウェイターがそんなことするとはさすがに思えないけど、男の前で服脱ぐとか男に着替えさせてもらうとか、それがどういう意味を持つか、もっとちゃんと考えなさい!」
「え、えー……」
そう言われましても……。いやだって日下部さんだし、と思ってしまう俺がおかしいのだろうか。反論しようとするも、それを遮るようにちょうど料理が運ばれてきてしまう。
結局、真生さんからの注意に対するモヤモヤはそのままになって、どこか不完全燃焼となってしまった。
『……って言われたんですけど、どう思います?』
このモヤモヤをどこかに吐き出したくて、この間連絡先を交換した螢さんにメールをしてみた。元々はガラケーユーザーだったのを、左手の怪我をきっかけに機種変更したスマートフォンをちまちまと操作して、なんとかメールを送ったその数分後。螢さんからは、こんな短い返事がきた。
『それはお前が悪い』
「……なんでだ」
きっぱりはっきり、完全にバッサリと切り捨てられて、スマフォ片手に頭を抱える。なんということでしょう。昼間、辻くんも「うんうん」と真生さんに同調していたことだし、これじゃ完全に俺の味方がいないじゃないか。
「……まあ、いっか」
そんなに気にすることでもない。まあ、どうでもいいだろう。他から見たら危機感のない行動でも、俺と日下部さんのあいだでは特に問題ないんだから、それでいい、はずだ。
よそはよそ、うちはうち、と切り替えて、スマートフォンをソファの隅へ放る。代わりに、ここのところ埃をかぶってばかりだったノートパソコンを引き寄せた。そろそろ、溜まりに溜まりまくった仕事関連のメールを片付けなければいけない。
カタカタ、カタカタ……。誰もいない一人ぼっちの部屋にのろのろとしたタイピング音だけが静かに響く。いつも一緒の日下部さんは、なにやら呼び出しをくらったらしく席を外していた。
部屋を出て行く間際、
「何かあったらすぐに電話してくださいね!? いいですか、すぐですよ、すぐ!!」
と、すごく念をおしていったのがちょっと面白かったのは、ここだけの話だ。
(ほんと、日下部さんもなかなかの心配性だよなぁ……)
そんなに俺のことなんか気にしなくていいのに、と思いつつ、送信ボタンをクリックする。
「とりあえず、このへんで一旦終わりにしとこうかなぁ」
久々にパソコンをしたら肩が凝った。液晶部分を閉じて、ぐぐっと大きく伸びをする。お茶でも淹れようかなと思ったとき、がちゃり、と玄関のほうから物音が聞こえてきた。
ソファから身を乗り出して様子を伺えば、ひょっこりと日下部さんが顔をのぞかせた。おお、思いの外はやいお帰りだ。
「お帰りなさい、日下部さん」
「ただいま帰りました」
羽織っていたカーディガンを脱ぎながら、日下部さんはふとテーブルに置かれていたパソコンに目をとめる。
「お仕事ですか? 清水くん」
「はい。意外と早く治りそうなので、延期にしていた個展の予定とか立て直さなきゃならないんです」
本当なら今頃ラストスパート真っ只中だったのだろうけど、延期になってしまった今、まだまだこれからやらなければならないことはたくさんある。予定が変わってしまった分、まずはギャラリーを探すところから始めなければならないことを考えると、ちょっと頭が痛い。
でも、ようやく準備に取りかかれることを考えたら、とにかく楽しみで仕方なかった。
「日下部さんも、招待しますね」
個展、と、ずっと前から考えていたことを言ってみる。すると日下部さんは「こてん」と繰り返しつぶやいた後、えっと大声をあげて目を見開いた。
「いいんですか?」
「え、はい。もちろんです」
とは言っても、日下部さんが嫌じゃなければ、だけれど。慌てて付け足せば、とんでもないとばかりにぶんぶんと激しく首を横に振られる。
「嬉しいです! ……楽しみに、してますね」
ふわり。やわらかく微笑んで、日下部さんはそう言った。心の底からそう思ってくれているのだということがひしひしと伝わって来る。どこまでもまっすぐな日下部さんの感情に、俺は、じわじわと胸のあたりが温まっていくのを感じた。
(個展、俄然楽しみになってきたなぁ)
この人がこんなに楽しみにしてくれるのなら、これほど嬉しいことはない。今なら、煩雑な事務作業でもなんでも、文句ひとつ言わずにこなせる気がした。
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