02






「じゃあ、また三日後に見せにきてね」

 そんな言葉で見送られて、俺と日下部さんは病院を後にした。

「意外と早く済みましたね、抜糸」
「今日はいつもより患者さんが少ないみたいです。雨だからですかね」

「そうかもしれないですね」
 抜糸は本当にすぐに終わった。さっき、ちょっとこっぱずかしいことを言ってしまった日下部さんのところへすぐに戻るのは気まずかったけれど、いざ待合室のソファへ戻ってみると、日下部さんはなにもなかったみたいな涼しい顔をしていた。
 にこやかな笑顔で「おかえりなさい」と出迎えてくれた日下部さんに、俺は「大人ってズルいな」とガラになく思ったりして。

 併設している薬局で化膿止めの薬を受け取ったあと、ふたりでとぼとぼと雨のなかを駐車場に向かって歩いていく。日下部さんの車まであと少しだ。しとしとと雨に濡れるチョコレート色のその車をぼんやりと眺めていると、日下部さんが思いついたのように「あ」と声をあげた。

「清水くん」
「はい」
「良かったら、どこかでご飯でも食べていきませんか」

 今日は、学校のほうは午前中いっぱい休みということになっている。診察が早く終わったこともあって、午後一番の授業まで、時間はまだ山ほどあった。迷う必要なんてどこにもない。
 いいですね、と頷き返せば、たちまち日下部さんは嬉しそうな笑顔になる。

「それじゃあ、車回してきますね! 清水くん、ちょっとここで待っていてください」
「はい、わかりました」

 たたたっと日下部さんは早足に駆けていく。その背後にぶんぶんと揺れる尻尾が見えるようで、思わず吹き出しそうになった。
 ほどなく日下部さんが車を回してくる。何の気なしに助手席に乗り込んでみたら、ちょっと驚いたようなまんまるの瞳を向けられた。

「どうかしましたか、清水くん」
「いえ、どうというわけじゃないんですが」
「はあ」
「後部座席と運転席じゃあ距離が遠いな、と思いまして」

 言ってる途中になんだか気恥ずかしくなってきて、ついと視線を逸らす。ぽつぽつと雨粒がぶつかってはすべり落ちていくフロントガラスの向こうをじっと睨みつけていると、やや間を置いてから「そうですか」と呟く声が聞こえてきた。そうですよ、と心のなかで返したのとほぼ同時に、ゆっくりと車が走り出した。
 駐車場を出ると、来たときとは違う道を迷いなく進んでいく。

「フレンチはお嫌いじゃないですか?」

 どうやら、日下部さんには明確な目的地があるようだ。

「大丈夫です、好き嫌いないので」
「なら良かったです」

 横目でアイコンタクトを送られる。日下部さんは慣れた様子でハンドルを切りながら、スイスイと車を走らせた。
 視界が良いとは言えない窓の外を、見知らぬ景色がひゅんひゅんと流れていく。日下部さんは黙って車を走らせ、俺は黙って窓の外を見つめて。そんな時間が十数分ほどしただろうか。それまで、黙って正面を見つめていた日下部さんが口を開いた。

「友人の店なんです」

 今向かっているところ、と付け足しながら、車を右折させる。

「口は悪いけど、料理の腕は確かなんですよ」
「それは、楽しみですね」
「はい。期待していいと思いますよ」

 ふふふ、と日下部さんがちいさく笑むのが右隣から聞こえてくる。その言葉と笑みに『友人』だというその人への絶対的な信頼が現れているようで、まだ見ぬ日下部さんの友人に、ちょっとだけ嫉妬してしまいそうだ。

「車、止めますね」

 気遣いの一言とともに、ゆっくりとブレーキがかけられる。車の速度が落ちていく。外を見れば、目の前に小洒落たレストランがあった。
 白いレンガの壁と、ぬくもりのあるダークブラウンの木のドアとのバランスに、思わず見入ってしまう。外に出たブラックボードには本日のランチメニューと今月の店休日が記されていた。
 ドアに掛けられたスチールの看板には、「La Luciole」と店名が書かれている。

「……ラ・リュシオール……?」

 どこかで聞いたことのある言葉だ。確か、フランス語で――

「清水くん」

 ガチャリ、と助手席のドアが開いた。断ち切られた思考は投げ出したまま、そちらを見遣る。

「どうぞ、清水くん」

 俺に傘を差し出して、自分は少しだけ雨に濡れながら、日下部さんは微笑んだ。



 カランカラン、と鳴り響くドアベルの音を聞きながら、日下部さんと一緒にドアをくぐる。

 店内は、外壁の白さとは対照的に薄暗かった。ほのかに緑がかった黄色の照明が、ぼんやりとした明かりで店のなかを照らし出している。店内に四つしかない四人掛けのテーブル上にはちいさなキャンドルが置かれていた。遠くから見ているだけでその温度が伝わってくるようなひかりに、心のなかまで温かくなる。
 あまりの薄暗さに、一瞬まだ準備中なのではと不安になるが、それはすぐに拭われた。ドアベルを聞きつけたように、店の奥から一人の青年が出てきたのだ。

 モザイクタイルの床をかつかつと踏みしめてやってきたその人は、店員とするにはすこし若かった。まだ学生なんじゃないだろうか。
 コック服でもウェイター服でもなく、普通の私服姿をしている。腕まくりしたシャツとカーディガンにパンツというシンプルな格好ながら、どこか洗練された空気を纏っていた。学園の有名生徒と似た匂いがする。
 そう……例えば、生徒会長とか。うちの会長とは随分タイプが違うけれど、彼にはそういう役職が似合うような気がした。

 そんな彼は、日下部さんの顔を見るとぱあっと顔を輝かせた。どうやら日下部さんの知り合いらしい。

「日下部さん! こんにちは」
「どうも、松原くん。ひさしぶり」
「雪永、呼びましょうか?」
「いや、いいよ。ただ食事しにきただけだから……」

 松原さんというらしいその人の申し出を、日下部さんが笑顔で断ろうとしたそのとき。店の奥、厨房らしき場所の方から、また新たな人物がのそりと姿を表した。

 今度こそ、この店の店員なのだろう。コック服をみにまとった人だった。赤茶色の長めの髪をヘアバンドでまとめた、大柄な、がっしりとした男だ。
 その人もまた、なんだなんだというふうにこちらへ目を向ける。そして、日下部さんの姿を認めるとおっと目を見開いた。

「おお、日下部じゃねえか」
「浅井さん……別に出てこなくてよかったのに」
「つれねェなぁ。久しぶりだっつうのに」

 言いながらも、カカカ、と気を害した風もなく笑い飛ばすこの人が、たぶん、日下部さんの友人なんだろう。言っていた通り、確かにちょっと口が悪いかもしれない。

(日下部さん、こういう感じの人と友達なんだ)

 どちらかというとガラの悪そうな外見も相まって、ちょっとだけ意外だった。

(どこで知り合ったひとなんだろう。この人のほうが、日下部さんより年上っぽいけど……学校の先輩とかかな)

 想像を膨らませながら「雪永」さん、もしくは「浅井」さんと呼ばれたをじいっと見つめていると、不意にその視線が日下部さんからスイと横にスライドする。そして、隣に立つ俺を捉えた。

「お? こちらさんは? お前の新しいオンナか?」
「違う。失礼なこというな」
「なんだ、違うのか?」

 「オンナ」というのが、性別のことを言っているわけじゃないのはすぐにわかった。けれど、どちらにしても不躾なそれにもやっとしたものを抱く。
 むっと顔をしかめた。が、間髪入れずに日下部さんが鋭く否定する。その口調はいつもより砕けたものだった。それがなんだか新鮮で、一瞬前の不快感なんてすぐに忘れてしまう。

(当たり前だけど、俺、まだ全然日下部さんのこと知らないんだよなぁ……)

 ここのところずっと一緒だったから、つい、日下部さんのぜんぶを知っているような気になってしまった。だけど、よく考えたら、よく考えなくても、俺は日下部さんのことをなにもしらない。
 どんな友達がいて、あの学園で働くまでにどんな人生を送ってきたのか。そういった、そのひとの多くを作り上げる要素のひとつひとつを、なにひとつ知らなかったのだ。
 ただそれだけのことに、どうしようもなく気分が落ち込んでしまう。それを、たぶん「浅井雪永」さんというのだろうコック服のその人は、俺が「オンナ」発言を気にしていると誤解したらしい。慌てたように「悪い、悪い」と日下部さんに謝るのが聞こえた。

「まあ、座れよ」

 紹介してくれるんだろ? とにっかり笑って、「浅井雪永」さんは店内を手のひらで示したのだった。

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