01







 俺と日下部さんの共同生活が始まってから、半月が経った。徐々に秋めいてきた肌寒い気候のある日、しとしとと雨が降りしきるなか、俺は街の病院へと来ていた。縫った手の傷の抜糸をするために、だ。

 もちろん、やっぱりというか、自分も行くと言ってきかなかった日下部さんも一緒にである。どうしても保健室をあけることができなかった保健医の代わりに、今日は日下部さんが車を出してくれた。
 ふだん俺のお手伝いみたいなことばかりしてくれていたから、はじめは「日下部さんが車を運転する」っていうのが全く想像がつかなかったけど、いざ目の当たりにしてみると、予想外にも日下部さんがハンドルを握ったその様子はさまになっていた。思わず随分運転しなれてるんですね、と聞いたら、学園に通うには車が必須ですから、と苦笑と一緒に返ってきた。
 ……なるほど。あんな辺鄙なところに学園があるんだから、よく考えてみたらそれもそうか。生徒向けの送迎バスとかはしょっちゅう出てるけど、教職員用にはそういうのはなかったもんな。言われてみれば。

「でも、実は今日はちょっとだけ緊張していたりするんですよ」
「慣れてるのに、ですか」
「慣れてても、です」

 はて、なぜだろう。後部座席で首を傾げてみせたら、バックミラー越しに日下部さんと目が合った。にっこりと微笑まれる。

「清水くんをのせているから、ですよ」
「俺ですか?」
「ええ」

 大事な清水くんに、万一のことがあったら大変ですから。

 歌うような口調でそう言って、日下部さんはハンドルを切った。日下部さんが乗るにしてはちょっとかわいらしい、丸いフォルムのチョコレートの色の車が、病院の駐車場へスムーズに入っていく。まばらに車が止められたなかから空いたスペースを目聡く見つけるなり、日下部さんはさっと一発でそこへ車体を滑りこませた。その一連の流れに、緊張なんてものは影すら見えない。すごい。スムーズすぎて、ちょっと怖い。

「ちょっと待っていてくださいね、清水くん」

 先に運転席から降りた日下部さんが、ぐるっと車の周りをまわって後部座席のドアを開けてくれる。そして、ウェイターというよりかは執事のような雰囲気を身にまとって、恭しくドアを開けてくれた。

「さあ、着きましたよ。どうぞ、清水くん」

 車のキーを片手に、俺に向かって傘を差し出した日下部さんのことを、俺は初めて「かっこいい」と思ったのだった。





「俺は外で待っていますね」

 そう言って、日下部さんは診療室のドアを開けてくれた。本当に、なにからなにまで日下部さんに頼りっぱなしだな、俺。これじゃ、逆に手が治ったときになにもできなくなってしまいそうだ。
 そんなことを思いながら、待合室に残る日下部さんに頷き返す。そう間を置かずにカラリと音がしてドアが閉まると、完全に俺と日下部さんとのあいだに隔たりができた。

 診療室のなかは、ごくふつうの病院といった感じだ。全体的に白くて、ちょっとだけ消毒液のツンとしたにおいがして、照明が明るい。そんな感じ。ここ毎日保健室に通っていた身としてはなんら目新しいものはない。
 けど、隣に日下部さんがいないっていうただそれだけで、どうにもそわそわしてしまっている俺がいた。

(ここのところ毎日、ほんとにずっと日下部さんと一緒だったからなぁ)

 ごく当たり前に傍にあったものがなくなるのって、なんとも言えない寂しさがある。ちょっとだけ心細いとすら思った。無意識のうちに、右手で制服のシャツの上から左腕を擦る。
 もしもこの左手の怪我がもっとひどくて、そう簡単には治らないようなものだったら、そのときもこういう喪失感を味わうことになったのだろうか――なんて。

「やあ、清水くん。久しぶりだね。どうだい、経過は」
「さあ、どうでしょう」

 それを診るのがあなたの仕事なんじゃないですかと返せば、それもそうだねと、俺の担当医は朗らかに笑った。それじゃあ傷をみようかと、顎髭を撫でつけながら言う。
 この人、白衣脱いで赤い服着て帽子かぶって、白いでっかい袋を担いだら完全にサンタクロースだよな。ということは、前回ここにきて傷口を縫ってもらった時にも思ったことだ。

(うん、やっぱりサンタクロースっぽいよ)

 ウンウンとひとり心のなかで頷く俺をよそに、看護師さんがクルクルと俺の左手から包帯を外していってくれる。さすがプロ、手際が良い。俺が風呂上りにうっかり自分で包帯を巻きなおそうとしたらぐっしゃぐっしゃになったときのひどい出来とは比べものにならない。

「ちょっと失礼」

 サンタクロース、もとい担当医が俺の左手を持ち上げて顔を近付ける。と、その傷口の様子を目にするなり「おっ」と医師は顔をほころばせた。

「意外と治りはやいねぇ。これは、思ったより早く治るかもしれないね……腫れたり、熱を持ったりしたことはあるかい?」
「ないです」
「うん、なら大丈夫だね。よし、予定通り今日抜糸しようか」

 俺の左手を下ろすと、デスクに転がっていたペンを持ち上げて、担当医は電子カルテになにやら書きこみ始める。その一方で、ドアの向こうを指差した。

「準備が出来たら呼ぶから」
「それでは、待合室でお待ちください」

 担当医の言葉を引き継いだ看護師に促されて、キャスター付のチェアから立ち上がる。今度は、日下部さんの代わりに看護師さんがドアを開けてくれた。
 明るくて真っ白な清潔な空間から一歩外へ出る。「診療室へどうぞ」と呼びかけられるまで座っていたソファの、さっきと全く変わらない位置に、日下部さんがひとり、うなだれるようにして腰かけていた。
 日下部さんの背中が、ゆるくカーブを描くようにして丸まっていることを珍しく思う。と同時に、ほんのわずかな時間のこととはいえ、離れていた日下部さんの姿に俺はひどくほっとした。

「日下部さん」
「っ、清水くん!」

 前に立って声をかければ、おかえりなさい、と日下部さんは勢いよく立ち上がる。別に座ったままでもよかったのに、と思わず苦笑してしまう。
 日下部さんの肩を押してソファへ逆戻りさせ、その隣に座る。ふんわりと柔らかくクッションが沈み込んだ。

「どうでしたか? 先生は、なんて?」
「意外と治りが早いね、って言われました。思ったより早く完治するかもしれないそうです」

 予定通り抜糸もします、と続ければ、みるみるうちに日下部さんの表情が明るくなっていく。

「そうですか! 良かったですね」
「ありがとうございます」
「ほんとに……本当に、良かった」

 喉の奥から絞り出すみたいな声で、日下部さんは言う。ずっと止めていた息をようやく吐き出したみたいな、そんな、苦しそうな声だった。

 その声色に、胸が苦しくなる。日下部さんには本当に心配をかけていたのだなと、改めて思い知らされた。
 そりゃそうか。日下部さんからしたら、自分のせいで俺が怪我したようなもんなんだから。しかもそれが俺の利き手で、俺がカメラマンだっていうのも、余計に日下部さんの罪悪感を募らせていたんだろう。

(俺が好きで助けただけだし、日下部さんが気にすることなんて何もないのにな)

 まあ、それはいくら俺が気にしないでくださいと言っても仕方のないことなんだろう。そう思う一方で「でも」と言葉を紡いでしまう。
 そんな俺の気まぐれな呟きを、日下部さんは俊敏に拾い上げて「でも、なんですか?」と聞き返してくれた。聞き返してくれてしまうから、俺は、ついうっかり思ってしまったことをそのまま口にしてしまうのだ。

「治っちゃったら、日下部さんと一緒に居られなくなっちゃうんですよね」

 俺に怪我をさせてしまったと罪悪感を抱いている日下部さんの心境を思えば、こんなことを考えるのは不謹慎かもしれない。けど、それでもどうしても、さみしいなと思ってしまう。
 日下部さんと一緒にいられるなら、もう少しの間、怪我が治らなくても良いのに、なんて思ってしまうのだ。
 手を伸ばす。包帯も傷もない右手で、隣に座る日下部さんの服の裾を、ぎゅっと握り締める。俺の傍に居てほしい、っていうそんな気持ちを込めて。
 それに、日下部さんがなにか言いたげな気配を見せた、そのとき。

「清水さーん! 清水恭平さーん!」

 第三処置室へどうぞ、という看護師さんの声が待合室に響き渡った。パッと日下部さんの服から手を離して、座り心地の良いソファとさよならする。

「え、し、清水くん……?」
「それじゃあ、ちょっと行ってきますね」

 あっけにとられたような表情の日下部さんをソファに置き去りにしたまま、俺は、三番の札が掲げられたドアへと早足で向かう。

 日下部さんの服の、ほんのはじっこ。ただそこを握っただけなのに、俺の右手はやけどしたみたいに熱い。
 心臓が、少しだけ騒がしかった。

- 19 -
[*前] | [次#]


topmainmokujinow
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -