06






「ミズヒラくん大丈夫? ケガとかしてない?? 大丈夫???」

 日下部さんとともに理事長室に入ったとたん、理事長が素早く駆け寄ってくる。かと思うと、弾丸のようなスピードで俺に質問を浴びせかけてきた。

「大丈夫です、何ともないです」
「そうだよね、傷ついたよね。ごめんね私が至らない理事長なばっかりに!」
「……いやあの、理事長」
「大丈夫、すぐに解決してみせるからね」
「理事長、」
「まあまずはお茶でも飲んでリラックスしていいからね」
「いやだから、話聞いてください……」

 どこまでもマイペースというか、自分勝手な理事長に呆れの溜め息をつく。この人を相手にしていると、それだけでかなり気力と体力を削がれていくのは俺だけだろうか。芳春先輩あたりなら同意してくれると思うけども。

「清水くん、日下部さんも。こちらへどうぞ」
「すみません、ありがとうございます」

 やっぱり有能な秘書さんに促されて応接セットのソファへと腰を下ろした。柔らかく沈み込んだクッションに、ちょっとだけ肩の力が抜けていく。

「柚子はちみつティーです」
「ありがとうございます、いただきます」

 さっと湯気の立つティーカップを差し出されて、一礼してから口を付ける。優しく自然な甘みと、ふんわりとした柚子の香りが口いっぱいに広がった。
 こんなにおいしいお茶を淹れられるとか、いっそこの人の秘書なんて辞めてしまって喫茶店でも開けばいいのに、なんて思ってしまう。

「……さて。じゃあ、さっそくで悪いけれども、なにをされたのか説明してもらってもいいかな?」

 かちゃりとカップをソーサーに戻して、理事長がそう切りした。それを受けて目配せすれば、日下部さんが持参した紙袋からサッとさっきの写真集と手紙を取り出す。

「今朝清水くんが登校したところ、教室の机の中にこれが入れられていまして……」
「……」
「手紙のほうには、生徒会長に近付くなという警告のようなことが書いてありました」

 理事長は、無言のまま日下部さんの手から制裁の証拠を受け取った。カミソリは抜き取り済みの手紙と、ズタズタなままの写真集を握り締める手は微かに震えている。
 よく見れば、高級そうなスーツに包まれた肩も小刻みに揺れている。

「み、」
「……み?」
「ミズヒラくんの作品に、なんてことを……!」

 えっと思う間もなく、手紙を握りつぶした理事長の拳がダンッとローテーブルに叩きつけられた。

 あっ、お茶。大丈夫かな、零れてないかな。
 不安になって見れば、三人分のティーカップは既に秘書さんの手によって避難させられたあとだった。いつの間に。本当に秘書さん有能過ぎる。

「大丈夫だからね、ミズヒラくん!」
「清水です」
「私が明日にも犯人を見つけ出して、すぐさま退学にするからね」
「いやべつに、なにもそこまでしなくても」

 結果的に怪我もしてないし。まあ、自分が恋い慕う相手にぽっとでのやつが近付くのが気に食わないって気持ちも、がんばればちょっとくらいはわからなくもないし。
 だからそんな大袈裟なことをしないでほしい。ちょっとげんなりする俺だったけれど、それに対する反論は予想外のところから飛んできた。

「そういう問題じゃないですよっ!」
「くさかべ、さん……?」
「確かに、今回は清水くんは怪我はしませんでした。けれど、もしかしたらしてたかもしれないんですよ。この左手よりも、深い怪我を」

 日下部さんの目は、まっすぐに俺の左手を見つめていた。包帯でぐるぐる巻きにされた俺の手を。

 確かに、あのとき何の警戒心も無く手紙を開けようとした俺に、なにか入っているかもしれない、って注意を促したのは日下部さんだった。
 それで俺はちょっと慎重になって、封筒の中に手を突っ込んで便箋を引っ張り出すんじゃなくて、封筒そのものをさかさまにすることで、そこにカミソリの刃が仕込まれてたってことに気付けたわけだし。

 もしかしたらどころか、日下部さんがいなかったら俺は十中八九カミソリで指を切っていたことになる。日下部さんの言うことはもっともだ。

「……それに、」
「え?」
「どうして、普通でいられるんですか?」

 どうしてって、なにが「どうして」なんだ? 純粋に疑問に思う俺を説き伏せるように、日下部さんは震える声で続けた。

「自分の作ったものをあんな風にされて、悔しくないんですか」
「それは、だから、」
「価値観が違ってただけだから、ですか? さっき清水くんはそう言いましたが、それでも、自分の作ったものが認められなかったことに対して、悔しさとかはないんですか……っ?」

――一瞬。
 なにを言われたのかが分からなかった。

 ぱちくりとまばたきする。認められなかったから、悔しい? いやだって、認められないものはしょうがないじゃないか。認めてくれない人相手にこっちがアレコレ思ったってなにが変わるわけでもないし、とか。

 咄嗟にそんなことをグルグルと考え始めた俺だったけれど、すぐにそうじゃないと気付く。
 そういうんじゃなくて、きっと「きもち」の問題なんだろうなと。そのことに気付いたのは、日下部さんがひどく苦しそうな顔をしていたから、だった。

「……ごめん、なさい」

 日下部さんに、こんな顔はさせたくないのになぁ。ぎゅっと胸が締め付けられる思いがする。
 たぶん日下部さんは、ズタズタになった写真集を見て俺が一瞬眉をひそめた以上の感情についての話をしているんだろう、と思う。俺には上手く呑み込めないけれど。

「ごめんなさい、日下部さん」

 やさしいあなたを、そんな風に苦しませてしまってごめんなさい。心を痛ませてしまって、ごめんなさい。

 日下部さんと痛覚の話をしたときにも思ったけれど、自分の心の欠陥と鈍感さが今更歯がゆくなった。
 膝の上できゅっと両手を握りしめる。伸びてきた爪が掌に食い込んだけれど、やっぱり痛みというのはあまり感じられなかった。

「ミズヒラくん」
「はい」

 もう、「清水です」と訂正するのも億劫で素直に応答する。

「ちょっと日下部くんとふたりで話がしたいから、席を外してもらってもいいかな?」
「……はい」
「清水くん、こちらへ」

 理事長から合図を受けた秘書さんが、自然な動作で手を差し出して、俺が立ち上がるのをサポートしてくれる。掴んだ手は暖かかったけれど、日下部さんの手じゃないって、ただそれだけなのに違和感がひどかった。

(なんなんだろ、このきもち)

 今までこんなことで悩んだことないのに、と。正体不明のもやもやに下唇を噛みしめながら、俺は、秘書さんに連れられて隣の部屋へと移った。













「……どう思う?」

 ぱたりと隣の部屋と続く扉が閉まった途端、清水くんの背中を目で追っていた理事長が俺に問いかける。

「どう、って……許せるわけがありません」

 相手は、なんと言ってもこの学園の理事長だ。俺の雇い主でもある。あまり強い言葉を使うのは躊躇われたけれど、そこだけはきっぱりと言い切った。

「清水くんはああ言いましたが、やはりだからと言ってあんなこと、見逃すわけにはいきません。早急に犯人を見つけ出してしかるべき措置をとるべきだと――」
「ああ、いや、違うよ。そうじゃなくって」
「……は?」

 早口にまくしたてたところで、どこかきょとんとした顔の理事長に半笑いで否定される。

「それに関しては私も同意だけれどね。今聞いているのはそのことじゃなくて、ミズヒラくん自身のこと、だよ」
「え……清水くん、ですか?」

 まさかの思い違いに顔が熱くなった。
 けれど、それも一瞬のこと。ふっと口元の笑みを消して妙に真剣な表情へと変わった理事長に、自然と背筋が伸びる。

「さっきの彼を見ていて、なにか奇妙に思うところはなかった? ううん、今だけじゃなくていい。今日と、今までとで。ミズヒラくんと一緒に過ごすようになってから、なにかおかしなところやひっかかるところはなかった?」
「あ……」

 ひっかかるところ、と言われて真っ先に思いついたのは、少し前に聞いた「痛みに鈍い」という清水くんのあの言葉だった。

「そういえば以前、清水くんが自分は痛みに鈍い、と。そう言っていました」
「へぇ。そんなこと言ったんだ、あの子。自分から話すなんて珍しい」

 妬けるね、なんて言って理事長はティーカップに手を伸ばした。
 じらすようなゆったりとした動きでカップを持ち上げて、唇をつける。その一連の動きは、清水くんのその言葉が「なにか」に繋がっていることを示唆しているようだった。

「なにか、あるんですか」

 疑問の形を作っておきながらも、それはほとんど確信に近かった。
 ミズヒラヤスシフリークなこの理事長が、清水くんのことで嘘をつくわけがない。だったらこの勿体つけるような言動も、きちんとした「なにか」に基づいてのもののはずだ。そう思った。

 だとしたら、一体彼になにがあるというのか。彼に悪いところなんてひとつもないというのに、「ごめんなさい」と消え入りそうな声で呟いて両手を握りしめていた清水くんの、思いつめたような横顔を思い出す。

(――清水くんにあんな表情をさせてしまったのは、俺だ)

 あんなかおをさせたいわけじゃない。清水くんには、幸せそうに笑っていてほしいはずなのに。
 自分の軽率すぎる行動に、後悔ばかりが募る。
 そんな俺の焦りなんてお見通しなのだろう。理事長は、カップを手にしたままにんまりとチェシャ猫のような笑みを浮かべた。

「それは、私からは言えないよ。知りたかったら本人に聞かなくっちゃ」
「……けど、」

 まだ出会ったばかりの自分に、そんな資格があるのだろうか。清水くんは俺なんかに打ち明けてくれるのだろうか。
 正直言って、自信なんてカケラもない。

「それも含めて、言うか言わないかを決めるのはミズヒラくんだよ」
「それもそう、ですね」
「さぁ、話は終わりだよ。もちろん、私も制裁の件をそのままにしておくつもりはないからね。そっちのほうは任せてくれたまえ」

 静かにカップをソーサーに戻して、理事長はソファからゆっくりと立ち上がった。そして室内奥にある執務デスクにつく。キャスター付のチェアをくるりと回しながら、理事長はデスクに肘をつき両手を組む。

「だから君は、ミズヒラくんが快適に過ごせるように、それだけを考えていてくれればいいよ」

 デスクの向こうから投げかけられた言葉は、仮にも学校の理事長なんてものをやっている男が言ったとは思えない嘘みたいな内容で。でもその声は嘘みたいに真剣そのものだった。
 どこまでも清水くん中心に回っているらしい理事長の思考回路に多少の呆れを覚える。一方で、そんな理事長を頼もしく思ってしまっている自分も居た。

「それでは、失礼します」

 ソファから立ち上がり、一礼してから隣室へのドアに向かう。重厚な木製の扉をコンコンと数回ノックして。

「清水くん、お待たせしました」

 帰りましょう、と続ける間もなく勢いよく目の前の扉が開く。先程のあの張り詰めたような表情はどこへやら。ひどくほっとしたような顔の清水くんが、そこには立っていた。

「……話、終わりましたか」
「ええ。ですから、帰りましょう」

 誘うように手を差し伸べたのは、なんとなくそうしなければならないような気がしたから、だった。けれどその直感は正しかったのだということを、俺はすぐに身を持って知ることとなる。

「はい、帰りましょう。日下部さん」

 一緒に、と囁いて、清水くんの手が俺の手に重なる。きゅっと俺の手を握った清水くんの顔には、いつの間にやら満面の笑みが浮かんでいた。

 やわらかくてあたたかく、やさしい笑顔。この笑顔でこんな風に見つめられたら、なんだかすべてが許されてしまうような錯覚すら抱く。
 この学園の特性を考えると、清水くんのこの表情は危なっかしいことこの上ないだろう。それでも俺は、この笑顔を守りたいと、いつでもこんな風に笑顔で居て欲しいと思った。

 思ってしまった、のだった。





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