02






「確か注射を打つんでしたっけ?」
「はい、化膿止めの注射を。たぶん大丈夫だとは思うんですけど、傷口からバイ菌が入ってるかもしれないからーって言われました」
「……保健室で注射なんて打ってくれるんですか?」
「打ってくれるみたいです」

 すごいですよね、と言えば、隣を歩いていた日下部さんはそうですねと同意してくれた。

 チャーハンを食べ終わった俺たちは、寮内のごみ置き場にゴミ袋の山を置いたあと、学生寮を出て校舎一階にある保健室を目指していた。その理由は前述の通り。寮内にも医務室はあるけれど、注射を打てる設備は校内にしかないらしい。
 便利なんだか不便なんだか、と。わざわざ休みの日に登校しなければならないことにほんのわずかでも不満を抱いてしまうあたり、俺は案外この学園に染まってしまっているみたいだ。

 今日は土曜日だから、学校自体は休みである。けれど、校舎のグラウンドでは熱心な部が活動をしていた。たぶん体育科の生徒だろう。芸術特待の生徒たちもきっと、アトリエやら美術室やら寮の自室やらで、作品制作に取り組んでいるはずだ。


――俺だって、この怪我がなければそうしていたはずだろうし。

 包帯でぐるぐる巻きにされた左手を見つめる。日下部さんを手伝ったことは後悔してないし、真生さんのことだって恨んでなんかいない。けどやっぱり、個展が延期になってしまったのは寂しいなぁ、なんて。
 妙に感傷的な気分になってしまうのは、窓から差し込む夕日の赤色がきれいなせいだろうか。

「……清水くん?」

 ぼんやりと廊下に反射する茜色を眺めていたところで声をかけられてハッとする。声の主を探してすぐ隣へ視線をやるも、そこに日下部さんの姿はなかった。

「清水くん? どうかしましたか」

 もう一度、今度はやや背後から投げかけられた声。振り返れば、不思議そうな表情を浮かべた日下部さんが「保健室」とプレートの下がった扉の前にたって、こちらを見つめていた。どうやら、保健室に到着したのにも気づかず行き過ぎてしまったらしい。

「……ああ、すみません」

 ちょっとぼうっとしていました。そんな間の抜けた俺の答えに、日下部さんは優しく微笑んで「そうですか」とだけ言う。

「入りましょうか、保健室」
「はい」

 数歩戻って日下部さんの隣に並び、右手でドアをノックする。

「失礼します、2年F組の清水です」

 ガラリと日下部さんが開けてくれたドアをくぐる頃には、不思議とさっきまでの感傷的な気持ちはきれいさっぱり消えていた。













「はい、終わり」

 最後に包帯の端をテープで留めてから、保険医はそういって俺の肩をポンポンと叩いた。

「いやぁ、しっかしこの前も思ったけど、清水くん全然痛がらないね。注射針みても顔色一つ変えないし、針刺しても抜いても反応無しだし」
「はぁ、まあ」

 別に注射は苦手じゃないからなあと生返事をすれば、あはははと保険医はおかしそうに笑った。

「まあ、しばらくは毎日ここに来てね。化膿止めの注射打って、包帯変えなきゃならないから」
「毎日、ですか」
「そう、毎日」
「うわぁ」

 めんどくさい。
 そう思ったのが顔に出たのだろう。

「ちゃんと来ないと、理事長に言いつけるからね」

 なんて、保険医はにっこり笑顔を浮かべながら脅しをかけてきた。怖い。

「大丈夫です。私が責任を持って連れてきますので」

 そして、まるで俺の保護者みたいになってる日下部さんも怖い。これはどうやら、当分おとなしく言うことを聞いていたほうがよさそうだ。

「それじゃ、ちょっとお茶でも淹れてくるね。待ってて」

 白衣の裾を翻して、保険医は保健室奥にあるパーテーションの向こうへと姿を消した。なにやらカチャカチャという物音が聞こえてくる。
 宣言通りお茶を淹れているのだろうけど、なんていうか、こんな風に注射を打てる上にお茶を淹れることまでできるなんて、ここは本当に一学校の保健室なんだろうか。あの理事長はどうも「保健室」という言葉の意味を取り違えているような気がする。

 それにしても、毎日注射、か。本当、面倒な上に日下部さんを付き合わせてしまう用事が増えて申し訳ない限りである。
 注射が苦手じゃないということが唯一の救いだろうか。これで注射そのものが苦手だったりしたら憂鬱なことこの上ないだろうし。

 そんなことをつらつらと考えていると、不意に日下部さんの手が伸びてきた。壊れ物でも扱うような優しい手つきで、そっと、包帯ぐるぐる巻きの左手を持ち上げられる。

「……日下部さん?」
「まだ……ますか?」
「え?」

 なんですか? と聞き返す。自然な茶に染められた日下部さんの前髪の向こう側には、先ほどまでとは一転、迷子になった子供のような弱々しい瞳があった。

「まだ、痛みますか?」

 微かに震えた声にドキリとする。

「ええ、まあ、多少は。……あっでも、そんなに痛くないですよ」

 更に沈んだ表情に慌てて付け足せば、気を遣われたと思ったのか日下部さんは眉間に皺を寄せた。きれいな顔が台無しである。
 俺はそれに「ああ、そうじゃないのに」と歯噛みした。本当のことなのに、どうしてこうもうまく伝わらないのだろう。
 焦燥感に駆られるまま、俺は矢継ぎ早に口を開いた。

「あの、本当です。嘘じゃないですよ」
「でも……」
「っ、俺!」

 気を遣わなくていいですよとでも言いたげな日下部さんの言葉を無理矢理に遮る。こんなこと、日下部さんに言ってもいいものか。迷ったのは一瞬だった。

「……俺、割と痛みには鈍感なんです」

 保険医にも聞こえてしまうかもしれない。そんな可能性が脳裏を掠めたせいで、普通に出したつもりの声は予想外に低いトーンで紡がれた。

「自分で言うのはちょっと恥ずかしいんですけど、俺、写真家なんだって言いましたよね。だから、きれいなものとか景色とか、そういうのにはすごく敏感なんです」

 逆に、醜いものにも。
 俺だけじゃない。芸術科の人間はみんな美醜には敏感だと思う。けれど、俺はそれだけじゃない。

「でも、俺の場合、その分それ以外のことにはすごく鈍いんです」
「……」
「悲しいとか、つらいとか、痛いとか。好きとか嫌いとか」
「……恋とか、愛とかもですか」
「はい。それもそうですね」

 沈黙を保ち続けていた日下部さんの相槌のような問いに頷いて、だから、と続ける。

「だから、大丈夫です。日下部さんが思うほど、そんなに痛くはないんですよ。傷自体も、注射も」

 だからそんな顔をしないでほしい。へらりと笑顔を浮かべれば、けれど、予想とは裏腹に日下部さんはくしゃりと顔を歪めた。

「――痛い、ですよ」

 俺の左手を包む日下部さんの手にきゅっと力が入る。両手を合わせたそのポーズは、まるで神に祈っているかのようだった。

「たとえ感じてなくても、わからなくても。本当はきっと、痛いですよ」

 だから、そんなことを言わないでくださいと日下部さんは言う。熱い吐息とともに吐き出されたそれは、まさしく祈りの言葉のようだった。
 ぎゅっと、胸が締め付けられるような錯覚。

「……はい、そうですね。痛いです」

――胸のこの辺が、とても。



「ねえねえねえ、お茶菓子なんだけど、お団子と……っと、」

 日下部さんの手の上に右手を重ねたとき、パタパタとスリッパの音を立てながら保険医が戻ってきた。お茶菓子まであるのか。そんな感想が浮かぶのと同時に、パッと慌てたように日下部さんの手が離される。

「……ごめん。僕、邪魔しちゃったかな」
「はい?」
「いえ、そんなことはありませんよ」

 なんのことかと聞き返す俺の声と、軽く否定する日下部さんの声が重なった。保険医は「あ、そう?」なんて言いながらお茶のお盆を手にすすすっとこちらに戻ってくる。
 コトリと音を立ててデスクの上に三つの湯飲みを置いてから、保険医はにんまりと意味深な笑みを口元に浮かべて、言った。

「まあ、でも、保健室でいちゃついちゃだめだよ〜。誰が見てるかもわからないしね!」

 ……いや、だから、なんのことですか?





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