09
理事長室を後にして教職員棟から寮まで戻る道中、芳春先輩は、俺に左手を負傷するまでの詳しい経緯を語らせた。
まず日下部さんを手伝おうとしたことに先輩は顔をしかめ、次に転校生の理解不能な行動の数々に苦言を呈し。最終的に、真生さんや航平くんと仲良くなった話をしたときには呆れたように笑ってみせた。
食堂で航平くんも一緒にご飯を食べようという流れになったときに、「本当は問題あるけど、まあいいや」みたいなことを言っていた時の真生さんとちょっと表情が似ている。なんだか、最近の俺は誰かに呆れられてばかりいるような気がした。
「なんにしても、もっと大事にしろよな」
「手」と、包帯が巻かれた俺の左手を指差して芳春先輩がそう言ったのは、寮のエレベーターホールまで来たときのことだった。
「はぁ、気を付けます」
「テキトーな返事しやがって、お前なぁ……」
生返事をした俺に対し、わざとらしく溜息をついてみせると、芳春先輩はデコピンをくらわせてくる。ビシッと弾かれた指先は見かけによらず重たい。
「先輩、痛いです」
「本当に解ってんのかよ。お前の左手は特別なんだからな」
「……って、言われましてもね」
言い聞かせるような口調で先輩は言う。が、特別って。なんだそれ。変な笑いがこみあげてきそうなくらいだった。
「特別」だなんて芳春先輩は言うが、俺の左手はただ単にカメラを支えるだけのものだ。シャッターを切るのは右の人差し指だし、場合によっては三脚さえあれば左手を使わなくたって写真を撮ることはできる。
更に言えば、俺の写真の特徴だとも言われる加工を画像データに施すためにマウスを動かすのも右手である。つまり、俺にとってのメインは右手で、左手は補助的な役割しか担っていない。
――なのに、「トクベツ」だなんて。
「確かに利き手ではありますけど、だからってべつに、芳春先輩ほど大事なわけじゃないですし」
そんな大袈裟なと続ければ、今度は「アホ!」という怒声とともに拳骨が頭上に降ってきた。
「それでも商売道具なことには違ぇねーだろ。他と比べての価値の大小なんて問題じゃねェんだよ。お前にとって大事なものであるのには変わりねぇだろーが」
「……」
「お前は、左手もどうだけどもっと自分のことを大事にしろ。いつでも客観視できるそのクールさもいいけどな、自分自身に対する評価、もっと大目に見積もってもいいと思うぞ」
どこか苦しそうな口調で一気に吐き出すと、芳春先輩は俺の頭上に置いていた拳を解く。そしてそのままぐしゃりと俺の髪をかきまぜた。作品を生み出すときには迷いのない大胆な動きで筆を操るその指先が、今は僅かなためらいを含んだ繊細な動きで俺の髪に触れている。
俺に関することだと過剰とも言えるくらい心配するところとか、こういうところとか。なんだかんだ、芳春先輩って面倒くさがりに見えて世話焼きだ。オカン気質とも言う。
なんだか嬉しくなって、ついついにんまりと口元が緩んでしまいそうになった、その時。パシンと乾いた音がして、頭上から芳春先輩の手の温かさが消えた。
不審に思って見れば、いつの間にやら日下部さんが俺と先輩の間に割り込むように立っている。
「……なるほど。忠犬とみせかけてその実、獰猛な番犬ってワケか」
「さて、なんの話ですかね」
右手の甲を押さえた芳春先輩の意味深長な言葉を、日下部さんは僅かに小首を傾げてみせつつさらりと受け流した。それに、芳春先輩は「へぇ?」と好戦的な目つきでニヤリと笑う。
こちらに背を向けているせいで、日下部さんの表情は解らなかった。なんだかやけにピリピリとしたオーラを発している。どうしたのだろう。
「んじゃ、邪魔者はここらで退散するとしますかね」
警戒心剥き出しと言った風な日下部さんに対し肩をすくめると、芳春先輩は右手をひらひらと振って見せた。この話はこれで終わりにしよう。そんな風に。
先輩の右手の甲はほんの少しだけ赤くなっていた。それを見て、俺はようやく先程の「パシン」の正体がなんなのかを理解する。
「恭平。お前、ちゃんと安静にしとけよ」
俺がとてもじゃないがじっとしていられるような気分じゃないことを見抜いていたのだろう。芳春先輩は最後にそう釘を刺すと、来た道を逆戻りしてエントランスから出て行った。
きっと、芸術科の生徒用に作られたアトリエへと向かったんだろう。確か先輩、今次の展覧会用の作品を作っているって言ってたし。
忙しいのにわざわざ俺の様子を見に来てくれたのだろうか。そうだとしたら、ちょっと嬉しいかもしれない。
なんだかんだ俺って周りの人に恵まれているよなぁと、スムーズな動きで閉じる自動ドアをぼんやり眺めながら、そんなことを思った。
「日下部さん」
微動だにしない日下部さんの背中に呼びかければ、日下部さんは俊敏な動きでくるりとこちらを振り返る。なんでしょう、と微笑むその顔からは先程までの妙な緊張感はもうすっかり消え去っていた。
笑顔の仮面で感情を隠すのは、ウェイターという職業故なのだろうか。きっとそれも、生きる上では必要な技術なのだろう。けれど、できれば、俺だけはいつもその「仮面」の下を見ていたいなぁ、……なんて。
そんな、微かな欲望がどこからともなくそろりと顔を覗かせた。
「……それじゃあ、行きましょっか」
瞬き一つするのと同時に、俺も日下部さんをならって醜い欲望を笑顔で隠す。まるでその言葉を待っていたかのようなタイミングで、背後でエレベーターの到着を告げる音が鳴った。
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芸術科生のフロアは、他のフロアとは趣を異にしている。
エレベーターホールから左右に伸びる白塗りの壁には様々な絵や写真、書の作品などが、廊下に等間隔に置かれた小さなテーブルには色とりどりの花が盛られた花器がそれぞれ飾られていた。そのどれもが、独特な形をしたライトのほんのりとした灯りによって照らされている。
言わずもがな、飾られているのはどれもこれも芸術科の生徒たちの作品だった。理事長が「せっかくの作品たちをアトリエに仕舞い込んでおくなんて勿体ない!」と言って一流の空間デザイナーを呼んで設置させたらしい。
極め付けには、BGM代わりにあちこちの部屋から色んな楽器の音色が漏れてきている。一応「芸術活動に集中できるように」と防音加工はされているけれど、音楽専攻の生徒たちにとってはそれは完璧じゃないらしい。
なんにしても、さすが芸術科、というのが一目でわかるフロアだった。俺はもうとっくに慣れたけれど、日下部さんは一つ一つにいちいち驚いている。まあ無理もない。
全部在校生の作品だということを教えてあげると、日下部さんは更に驚いていた。目を見開き口を数回ぱくぱくと開閉させてから「びっくりしました」と呟いたその様子を、ちょっと可愛いだなんて思ってしまったことはヒミツだ。
「ところで、これ、清水くんの作品はないんですか?」
壁に掛けられた作品たちのすぐ下にある、作家名の入ったプレートを全てチェックしていたらしい。今まで俺の名前がなかったことから、反対側にあるんですか? なんて日下部さんは問うてくる。
なんというか、観察眼が鋭いというかよく目が行き届いているというか。
「あー、それが、俺のはここには飾ってないんです」
「え、そうなんですか? どうしてです?」
「えー……と、」
理事長が「ミズヒラくんの作品は私が独り占めするんだ!」と子どもみたいな主張をしたからここにはないんだ、とか。そんなこと、説明できるはずもない。
俺は「あはははは」と乾いた笑いで日下部さんを誤魔化すことにした。
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