02




 かたん、と篤志は椅子を引いた。自分の所属する二年D組の、何の変哲も無い自分の席の木の椅子を。
 中身の少ない薄っぺらな鞄を床に置いて席につく。恐る恐る引き出し部分に手を突っ込んで、昨日置いて帰ったテキスト類を引き出した。数学をはじめとした数冊の教科書、ノートに問題集。どれも昨日と変わった様子はない。いくつかペラペラとページをめくってみたが、中身にも異常はなかった。
 そこまで確認したところで篤志は、はあ、と深く息をつく。幸せが裸足で逃げ出しそうなそれには、多大な安堵とともに幾ばくかの落胆が混じっていた。

(下駄箱にはなんもなし、机にもなんにもなし……か)

 はーっ、ともう一度大きなため息。全身の力を抜いてぐったりと椅子にもたりかかり、篤志は天井を仰いだ。

「ここまで来てまだ『ネタばらし』がないとか、逆にどこであんだよ……」

 篤志が加賀と「おつきあい」することになってから、一晩。昨夜帰宅してから今まで、篤志はひたすらに悩み続けた。いったい加賀はどのタイミングで、あの告白に対する「ネタばらし」をしてくるのだろうか、と。

 交換したばかりの連絡先に「うそだよ」と送られてでも来るのかと思いきや、トークアプリの緑のアイコンはうんともすんとも言わないし。下駄箱に「うそだぴょーん」とびっくり箱的な仕掛けがされているのかと思いきや、びくびくしながら開けた自分の下駄箱にはただ「今井」と書かれた上履きが入っているだけだったし。それなら机に大きくマジックで「うそだ!」とでも書かれているかと思いきや、ご覧の通り、机の天板にも椅子にも引き出しのなかみにも何の変化もない。
 ほとんど寝ることもできずに一晩中考えた「ネタばらし」のありとあらゆる可能性をことごとく潰されて、篤志は、もういっそ

「昨日は本当は四月一日だったんじゃないか?」

 なんてトンチンカンなことさえ考えてしまいそうだった。

「ここまできたら、いっそ直接フりにでもくんのかぁ?」

 昨日告白されて、付き合い始めて、今日にはもうフラれる。告白してきた相手から。しかも、男同士で。上げて落とすのが狙いならそれもあり得るなと遠い目になってしまう。
 よく考えてみれば、加賀は「うそだぴょーん」とか言うような性格でもないし、机に落書きするような問題児でもない。直接篤志の元にやってくるという方が現実的と言えるかもしれない。

(じゃあ、まだまだこれからが本番ってことかよ)

 勘弁してくれ、と叫びだしたくなる衝動をぐっとこらえて、篤志は顔を覆う。

「あっくん、どしたん、あれ」
「さあ? 知らね」
「女にフラれでもしたんじゃねーの」

 好き勝手なことを言う友人たちの、ぎゃはははという下卑た笑い声はしっかり聞こえていた。けれど、今の篤志にはそれに言い返す気力さえなかった。



 加賀の来訪を恐れているあいだに一時間が過ぎ、二時間が過ぎ、いつの間にやら午前中の授業が終わっていた。昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴って、それまで授業をしていた数学教師が半ば追い出されるような形で教室を出て行く。
 ざわつく教室のなかで、篤志はぐうぐうと鳴く腹を抑えた。加賀の来訪への恐怖は、完全に空腹に負けていた。

(今日も焼きそばパンにするか、それとも……)

 財布の中身を思い浮かべながら、購買のメニューの価格と空腹具合とを比較する。腹は減っているが、金はない。そして今日の午後には体育の授業はない。ならまあ、いつも通り焼きそばパンにするのが無難だろうか。なんていったって、焼きそばパンは購買メニューの惣菜パンのなかで一番安い。
 よし、と本日の昼食メニューを決めたところで席を立つ。一連の流れを見ていたのか、教室に残っていた友人のひとりが篤志に近寄ってきた。

「おっ、あっくん復活した?」
「復活したってなんだよ、復活したって」
「だってあっくん、午前中ずっと死んでたじゃん」
「死んではねぇって。勝手に殺すなよ」

 まあ確かに死にそうではあったけれど、と思いつつ、なんとはなしに二人並んで購買へ向かう。友人は、いかに朝からの篤志の様子がおかしかったかをオーバーリアクションに語り始めた。ケラケラと友人が笑うたびに、チラリと赤い舌先がのぞき見える。赤いなかに不自然にきらりとなにかが光るのが見えて、あれ、と篤志は問うた。

「よーくん、それ、ピアスあけたの」
「おー、そうそう。先週末」
「まじか」

 べろり、と出された舌には、ミラーボールのような銀色のピアスがついている。「よーくん」は耳にもいくつもピアスを開けていた。シンプルなスタッドピアスから、見ているだけでちょっと痛そうな攻撃的な形のものまで多種多様だ。

「昨日までまじで痛くて死ぬかと思ったわ」
「そういやよーくん、昨日休んでたっけ」
「そういやって、なにそのいまさら感。あっくん俺がいなくて寂しかったんじゃねーの?」
「いや、全然」

 正直加賀のせいでそれどころじゃなかった、という言葉はすんでのところで飲み込んだ。
 それにしてもと、篤志は隣を歩く友人をまじまじと眺める。金髪に、耳にはじゃらじゃらとピアス、おまけに舌にもピアス。ネクタイはまともにしていないし、スラックスも腰履き。どこからどう見ても不良系だ。よく言ってヤンチャ系。篤志の友人たちは、よーくんはじめみな大なり小なりこのような感じである。

 篤志自身も、ここまであからさまではないものの、どちらかというとはっちゃけている方に属する人間だ。ピアスこそあけていないものの、表向きにはパーマ・染髪禁止の学校でゆるくパーマのかかった茶髪をして、制服まで着崩しているとくれば、十分ヤンチャ系と言っていいだろう。そうじゃなくとも、隣にいるのがこのよーくんであれば周りがそういう風に見ることはわかりきっている。

 一方、昨日篤志に告白してきたあの加賀は、篤志たちのタイプと比べれば正反対。月とスッポン。不良と優等生。……そう、優等生。うそつきだというその点に関してだけは生活指導の先生をも困らせるほどの問題児だとしても、逆にその一点を除いてしまえば、加賀はびっくりするほどの優等生なのである。

 前述したとおり、加賀はこの高校に入学してからずっと学年トップの成績をキープし続けている。弓道部では全国大会常連になるほどの成績をおさめて、次期部長との噂も立っているほどだ。
 シャツのボタンはしっかり一番上まで留めるし、学校指定のネクタイを締め、やはり学校指定のセーターを着ている。髪は痛みなんて知ることのない漆黒のどストレートで、もちろんピアスもあいていない。なかみが優等生なら、そとみも優等生なのである。

 そんな加賀が、いったい全体どうして篤志のような人間に興味を持ったのか。自分のことながら篤志には理解できなかった。

(ま、加賀みたいな人間の考えることなんて、俺なんかにわかるわけねぇんだけど……っと、なんだ?)

 廊下の先がなにやら騒がしい。ただの昼休みのざわめきにしては少々過剰なくらいに。この角を曲がった先にあるのは、たしかA組やB組の教室ではなかっただろうか。と考えて、A組、という部分が篤志の足を止めた。

「あっくん? どーした」

 数歩先で同様に立ち止まったよーくんが、不思議そうに振り返る。ピアスをいくつもつけた不良のくせに、きょとんとした顔だけは年相応に幼いのがちょっとだけおかしかった。

(たしか、A組って……)

 加賀のクラスじゃなかっただろうか。思い当たったとき、噂をすれば影とばかりに加賀がひょっこりと曲がり角から顔をのぞかせた。と同時に、篤志の空腹がみるみる引っ込んでいく。

「あ、今井」

 きゃあっと上がる歓声をバックに、ちょうどよかった、と加賀は微笑む。やわらかく細められた目を見た途端、忘れかけていた「ネタばらし」への恐怖心が再び顔をのぞかせた。さっきまであれだけうるさかった篤志の腹の虫は、すっかり静かになっていた。

「加賀くんだぁ! こっちの廊下で見るの珍しいね」
「A組とB組、隔離されてるもんね」
「こんなに近くで見れるなんてラッキー!」

 突然の加賀の登場に、女子達は色めき立っている。

「げっ、加賀だぞ」
「あいつ、今度はどんな嘘つきに来たんだ?」
「知ってるか? あいつがこないだついたって嘘。相当えげつなかったらしいぞ」

 一方男子達は、関わりたくないとばかりに声を潜め距離を取り始める。
 篤志も、昨日までなら「珍しいなぁ」とか他人事のような感想を抱きつつ加賀の隣をすり抜けて、その他大勢の人混みにまぎれて、そのまま購買へ向かっていたことだろう。けれど今は、篤志を真正面に捉えた加賀の瞳が、篤志が通りすがりのその他大勢に加わることを阻んでいる。

 周囲のざわめきがひときわ大きくなるなかで、加賀がゆっくりと口を動かす。これだけあたりがうるさいにもかかわらず、篤志の耳には加賀の声がいやにはっきりと届いた。

「今井、購買いくの? だったら一緒に行かない?」

 えっと声をあげたのは篤志じゃない。斜め前にいたよーくんだ。よーくんは加賀を振り返って、篤志をもう一度振り返って、さらに加賀を振り返ってから、篤志のもとへと慌てたように寄ってきた。

「えっ、ちょっ、あっくん?! あっくん、アイツと仲良かったっけ!?」

 「アイツ」の部分で思いっきり加賀を指差してしまうあたりが、よーくんがヤンチャ系である所以だろう。本人以上にわたわたとしているよーくんに、篤志は、ふるふると首を横に振って否定の意を示すことしかできなかった。
 だって、たぶん、この廊下にいる誰よりも一番、篤志自身が加賀からの誘いに驚いていた。



 そのあと、よーくんに「いつ知り合ったのか」「どこで知り合ったのか」「いつの間に仲良くなったのか」などと加賀との関係についてアレコレ聞かれたことは覚えている。けれどそれらの質問になんて答えたのかはあやふやなままに、篤志はなぜか購買に来ていた。それも加賀とふたりで、である。

(……視線が、痛い)

 ただ黄色いばんじゅうにどっさり積まれた惣菜パンを見ているだけだというのに、篤志の体には、四方八方からさまざまな視線が突き刺さっていた。隣に学校一の有名人・加賀がいるからというのも、無論大きな理由だろう。けれどそれ以上に、加賀の隣にいるのが篤志だからというのがその原因だろうと篤志は思っていた。
 事実として、購買に来る途中にすれ違った同学年の女子生徒たちは、軒並みふしぎそうな顔をしていた。

「なんで加賀くんとあいつが一緒にいるの?」

 と、きっとそんなところだろう。
 不良と優等生。クラスも部活も、委員会も違う。出身中学も違えば共通の友人もいない。それなのに加賀の隣に立っているということがあまりにも奇妙すぎて、篤志には踏みしめた床がなんだかぐにゃぐにゃしているように感じられた。

「……い、今井?」
「えっ」

 はっと我に返る。隣を見れば、カツサンドのパックを右手に持った加賀が、篤志の前でひらひらと左手を振っている。

「今井、いまぼーっとしてたデショ」
「あ、うん」
「おれと居るのにぼーっとしてるなんて、なかなかいい度胸してるじゃん」
「へ」

 それって、どういう意味だ。問うよりも先に、加賀はふっと小さく笑むと、カウンターの向こうにいるエプロンをしたおばちゃんにカツサンドを手渡した。

「これ、お願いします」
「はいはい、いつもありがとうね。二三〇円です」

 おばちゃんの声を受けて、加賀は財布を漁る。小銭を探す横顏を、篤志は、加賀がぴったり二三〇円を探し出すまで見つめ続けていた。

(……あ。加賀、泣きぼくろがある)

 加賀の左の目尻、向かって右の目尻の下にはちょんと小さなほくろがあった。加賀みたいに切れ長な目の下に泣きぼくろだなんて、ずるい。なにがずるいのかなんてわからないけれど、篤志はそう思った。

「はい、ちょうどね。じゃあこれ、カツサンド」
「――え? カツサンド?」

 突然、加賀が怪訝そうな声をあげる。カツサンドのパックを差し出していたおばちゃんも、ぴたりと笑顔を固まらせた。

「おれ、コロッケパン出しませんでしたっけ」

 どこまでもまじめくさった声と顔で、おばちゃんを疑うように目を眇める加賀。おばちゃんはわずかな焦りを表情ににじませたが、すぐに加賀の口元に浮かぶ緩やかなカーブに気付いたらしい。弱ったような呆れたような当惑したような、なんとも言えない苦笑を噛み殺した。

(――ダウト、)

 篤志が心のなかでつぶやくのと、おばちゃんがぷっと吹き出すのとはほぼ同時だった。

「やあね、加賀くんったら。おばさんをからかうのはやめてって、もう何回も言ってるじゃない」
「あーあ、なんだ、ばれちゃった?」
「そりゃあね、いい加減、物覚えの悪いおばさんにだってわかるわよ。いままであなたに何回嘘つかれてきたと思ってるの? はい、じゃあこれ、カツサンドね」

 おばちゃんは今度こそ加賀にカツサンドを手渡した。加賀も今度はすんなりと受け取る。

(加賀って、ほんとに嘘つきなんだな……)

 加賀の嘘にまつわる噂は、これまでにいくつも聞いてきた。けれど、本当に加賀が嘘をついているところを、篤志が直接リアルタイムで見るのはこれが初めてだ。呼吸をするかのようなそのなめらかさに、さっきカツサンドを持っているのをちゃんと見ていたはずなのに、一瞬本気で「あれ、コロッケパンだったっけ?」と自分の記憶を疑ってしまいそうになった。これじゃあ本当に、いつどんなタイミングでネタばらしをされるかわかったものじゃない。
 篤志が無意識のうちに背筋を伸ばしたとき、ふっとおばちゃんの目がこちらを向いた。

「きみは? 今日も焼きそばパン?」
「えっ、あ、ハイ」
「はい。それじゃあ一一〇円ね」

 慌ててスラックスのポケットに手をつっこみ、直に放り込まれじゃらじゃら音を立てている小銭を引っ掴む。数枚まとめて鷲掴みにしたてのひらを開けば、ちょうど百円玉と十円玉がそれぞれ混ざっている。それを一つずつつまんで差し出せば、おばちゃんは「はい、ちょうどね」とにっこり満面の笑顔をくれた。
 テストで百点を取った子を「いい子ね」と褒める小学校の先生とのそれと似た、あたたかくてやさしい笑顔に、篤志はなんだかいたたまれなくなる。こういうのはきっと、篤志のような人間よりも、加賀のような人間のほうが似合うだろうから。

 どう反応したらいいかわからないままに、篤志はばんじゅうのなかから焼きそばパンをひとつ掴み上げる。
 ぺこりと頭を下げて、そわそわした感情に急かされるがままに踵を返した。ぺたぺたと、踵を踏んだ上履きが間抜けな音を立てる。その後ろを、すたすたという小気味の良い加賀の足音が追いかけてきていた。

「今井、いつもそれなの?」

 篤志の手のなかの焼きそばパンを指差して、加賀は好きなのかと問うてくる。

「まあ、なんとなく。安いし」
「確かに、安いね」

 好きなのも嘘ではないが、わざわざそう口に出すのは今の篤志にはすこし憚られた。

「……加賀、は?」
「おれ?」
「加賀は、なにが好きなんだ?」

 聞くつもりなんてなかったことを聞いてしまったのは、ついうっかり以外のなにものでもなかった。
 相手は、購買のおばちゃん相手でもさらりと嘘をついていたような加賀だ。こんなことを聞いたところで、本当のことを答えてくれるかなんてわかりやしない。それどころか、嘘の答えを返される可能性のほうが高いだろう。だというのに、どうして聞いてしまったのだろう。

 どくん、どくん。篤志の心臓がどんどんとうるさくなっていく。いったいなんと返されるのか。どんな嘘が返ってくるのか。体を強張らせ、篤志は全神経を耳に集中させる。それをよそに、加賀は

「うーん、そうだなぁ」

 と、呑気にも顎に手を当てて考えている様子だった。答えを探すように、涼しげな視線が右へ左へ二転三転する。

「おれはやっぱりこれかな」

 思案の末に、加賀は「これ」と手にしていたカツサンドを持ち上げて見せた。さきほど嘘をついていたときの意地の悪いものとはちがう穏やかな横顔からは、それが嘘なのかどうかはわからなかった。

「それも、嘘なのか?」

 懲りずに追及してしまうあたり、篤志には学習能力というやつがない。

「さあ?」

 切れ長の目をいっそう細く鋭くさせた加賀が、わざとらしく首を傾げてみせる。にかかっていた毛束がさらりと流れて、白いうなじがあらわになった。演技がかったそんな一連の仕草で、たちまち、狐の面で顔を覆い隠したかのように加賀の考えが読めなくなる。本心を悟らせたくないのか、そんな深いところまでは関わるなという拒絶を示しているのか。どうなのだろう。

「今井はどっちだと思う? 嘘か、本当か」
「俺は……」

 どちらだと思っているのだろう。嘘と本当、どちらならいいと篤志は願っているのだろう。
 考えあぐねているうちに、二人は二年の教室がある階まで戻ってきていた。この角を左に進めば加賀の教室のほうへ、右へ進めば篤志の教室のほうへと出る。いわゆる分かれ道だ。

「残念、時間切れだね」

 篤志の答えを聞かぬうちに、加賀は、迷いのない足取りで左側の道へと踏み出した。肩越しに篤志を振り返って、買ったばかりのカツサンドを持ったままにひらひらと手を振ってみせる。

「それじゃあ、またね、今井」
「あ、ああ……またな」

 つられて篤志も手を振り返した。あまりにもあっさりとした別れかたに、あっけに取られてしまう。
 完全に、加賀に振り回されている。わかっていても、あの意味深な笑みと緩やかなカーブを描く唇、涼やかな目元を見ていたら、それも悪くないななんて篤志は思い始めていた。ベタ惚れだ。そんな自分が情けなくなって、意味もなく耳の裏を掻く。

 教室に戻ったら、またよーくんからの事情聴取が始まるのだろうか。答えられない問いをいくつも投げかけられることを思うと憂鬱だが、いつまでもここに突っ立っているわけにもいかない。このままでは貴重な昼休みが終わってしまう。重い足を引きずるようにして、篤志は廊下の右側のほうへ歩き出した。一歩、二歩、三歩。四歩目を踏み出したところで、妙な違和感に足を止める。

「……『またね』ってなんだよ、『またね』って」

 また、というのはたぶん、次があるから出てくる言葉だろう。ということは、加賀のなかではまだ次があるということなのだろうか。特に深く考えることもなく同じ言葉を返してしまった数分前の自分を、篤志は思い切り殴りつけたくなった。
 そういえば「うそだよ」のネタばらしがなかったなと気づいたのは、教室に戻って焼きそばパンを食べ終え、空になった包みをゴミ箱に捨てるときのことだった。



 加賀が言った「またね」の意味はすぐにわかった。
 放課後、空が黄昏色を深め始めたころ。委員会の仕事を終えた篤志が靴を履きかえて外に出ると、そこに加賀がいたのである。
 昇降口のすぐ目の前に設置された花壇には紫陽花の花が咲いている。淡い紫色をした八重咲きの額紫陽花だ。まだ満開にはすこし早い梅雨の名物の傍らで、制服のすそが土で汚れるのを気にする様子もなく、加賀は煉瓦の花壇に腰掛けていた。

 ぼんやりとコンバースのつま先を眺めている加賀を、あえて無視して通り過ぎるのもどうかと思い、篤志は渋々ながらも歩み寄った。

「加賀」

 ぱっと加賀が顔をあげる。自分にかかった影の主を見とめると、ふわりと、花のように笑顔がこぼれた。

「なにやってんの、お前」
「べつに。ちょうど部活終わったとこなだけだケド」

 ダウト、と篤志は心のなかですばやく唱える。
 今日、加賀の属する弓道部は道場に清掃業者が入る関係でもっと早い時間に終わったはずだ。それ以前に、こんな風に花壇に座っていて「ちょうど終わったところ」なんてわざとらしすぎる。
 疑念の視線を投げかけるも、加賀がそれを気に止めることはない。すくっと立ち上がると、足元に置いていたリュックをひょいと持ち上げた。

「今井、電車通学だっけ」
「そうだけど」
「じゃあ、駅まで一緒に行こ」

 おれもそっちなんだ、と平坦な声で篤志を誘う加賀だが。

(それも、ダウト)

 加賀はいつも徒歩通学のはずだ。加賀ファンの女子達が、いつだったか、加賀の通学手段について得意げに話しているのを聞いたことがある。事実として篤志は、この高校の唯一の最寄駅で一度も加賀の姿を見たことがない。

(そんなうそついてどうすんだろ、加賀)

 すぐに嘘だとばれてしまうような嘘をついたところで、一体なにになるのだろう。篤志にはわからなかった。代わりに、昼間の出来事といまのことと。今日一日を通して、加賀が間違いなくうそつきなのだということだけははっきりわかった。

(なら、やっぱり昨日の告白だってうそに決まってる)

 期待するだけ無駄だと言い聞かせるように、ダウト、と篤志は繰り返す。一方で、加賀の誘いに対し「いいけど」と条件反射のように頷き返してしまうのどうしてだろうか。
 やった、と少しも嬉しくなさそうな声でつぶやいて、リュックを背負った加賀が歩き出す。

(うそでも、べつに、一緒に駅まで帰るくらい)

 それくらいならいいんじゃないだろうか。誰が困るわけでも、傷つくわけでもないのだから。徐々に自分のなかで大きくなる「ダウト」の声に言い訳しながら、篤志はその隣を歩き始めた。

 篤志よりもやや背の高い加賀は、その分だけ手足も長い。足を繰り出すテンポは篤志と同じはずなのに、一歩一歩が大きいせいで、篤志はいつもよりもすこし大股で早足に歩かなければならなかった。
 駅までの道中は静かの一言に尽きた。一緒に帰ろうと誘ったのは加賀だったが、当の本人はとくに篤志に話しかけたりはしてこなかったからだ。時々、目に入ったものについて一言二言意見をかわしたり、思い出したように何事か問うてきたり。せいぜい、その程度の会話しかしなかった。

 けれどそのなかでも、篤志は加賀の姿勢が存外きれいなこととか、弓道部は毎週月曜が休みらしいこととか、加賀のリュックにかわいいひよこのキーホルダーがついていることとか、そのひよこが駅前のドラッグストアのマスコットキャラだということとか、加賀が猫よりも犬派で、とくに小型犬には弱いらしいことなんかを知った。

 反対に、篤志は加賀に、一年の春先によーくんの気まぐれで美化委員にさせられたことや、美化委員の担当教師がひどく人使いが荒いこと、自分は犬よりも猫派なことなどを話した。
 とはいえ、所詮は学校から駅までのほんの短い距離だ。十分するかしないうちに終わりがきてしまう。急に人の増えた夕方の駅前で、篤志と加賀は、どちらからともなく「それじゃあ」と手をあげた。

「また明日、加賀」
「……おう」
「昼に教室迎えに行くから。明日は、一緒に昼ご飯食べよう」

 さりげなく次の約束を取り付けてから、加賀は結局、改札を越えることなく手前でUターンしていった。だんだんと遠ざかり、人混みにかき消されていくまっすぐに伸びた背中を見送りながら、やっぱりうそじゃん、と篤志は唇を尖らせる。
 けれど、たった今加賀がくれた「また明日」という言葉だけは、簡単にダウトすることができなかった。どうせまた嘘なのだろうと思う一方で、本当であったらいのにと期待してしまう自分が、篤志の心のなかの、ほんとうに隅っこのほうに、確かにいたから。

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