03




「今井、お昼食べよ」

 有言実行とでも言うべきだろうか。篤志にとっては予想外なことに、翌日、加賀は本当に篤志を迎えに来た。またもやざわめきを連れてD組の教室まで。それも昼休みに入るなりすぐに、だ。
 篤志が逃げるとでも思っていたのか、ドアのところから教室を覗き込んで篤志の姿を見つけるなり、加賀はほっと安心したような顔をしていた。

(……なんだよ、その顔)

 イケメンのくせにかわいいじゃねえかと、篤志は唇を尖らせる。かたわらでは、相変わらずピアスをじゃらつかせたよーくんが、野次馬根性丸出しににまにまといやらしい笑みを浮かべている。興味津々といったそのオーラは無視して、仕方ないなとばかりにドアのもとまで歩いていく。

「ほんとに来たんだな、加賀」
「ナニ、今井、おれがうそついたと思ってたの?」
「そりゃ、お前、思うだろ」

 むしろ思わないほうがおかしい、加賀相手に。なにを言っているんだと呆れの眼差しをなげかける篤志に、今井は、きれいな眉をさみしげに八の字にした。なにか言いたげに唇をうすく開いて、けれど、すぐに諦めたように下唇を噛む。篤志はあれと違和感を覚えるも、微細なとっかかりはすぐに加賀の狐の笑みに塗りつぶされた。

「今井は今日も購買?」

 篤志は頷く。とっさに尻のポケットを叩いて、そこに財布があることを確認した。

「それじゃ、購買寄ってから行こうか」
「行くって、どこに」

 加賀の口ぶり的に、どこか明確な目的地があるらしい。

「いいところがあるんだ」

 加賀は、「秘密」というように人差し指を唇にあてて篤志を誘った。加賀のなかにはきっと、すでに篤志とどこで昼食を食べるかの明確なビジョンがあるのだろう。
 いいところって、どこだよ。教室じゃだめなのか? ていうか、ほんとに一緒に昼飯食うのかよ。
 恋愛ゲームのルート分岐点のように、篤志の脳内に複数のコマンドが浮かぶ。が、さほど迷うこともなく、篤志は教室から一歩踏み出した。

(こいつ、ほんとに姿勢いいな)

 弓道をやっていると、そういうところも自然と身につくのだろうか。ピンと伸びた今井の背筋をじっと見つめながら篤志は考える。ランウェイを歩くモデルのように廊下を大股で歩く加賀と、その二歩後ろを、周囲の視線に背中を丸めて俯き加減に歩く篤志と。きっと、はたから見ると奇妙な二人組だったろうと思う。
 昨日と同様に、疑念と困惑の視線に串刺しにされながら篤志は焼きそばパンを、加賀はカツサンドを買った。そうして自販機コーナーに寄ったのちに加賀が篤志を連れてきたのは、屋上だった。

「屋上って、入れないよな」

 たしかそうだったはず、と篤志は扉を見る。案の定、重厚そうな鉄扉には「立ち入り禁止」の看板がかかっていた。試しにドアを引いてみても、ガチャガチャとやかましい音がするだけだった。

「そう、入れないんだケドね。みんな入れないって知ってるからここまで来ないし、教室からちょっと離れてるしで、静かでいいデショ」

 どさりと床に座り込んで、加賀は慣れた様子で鉄の扉に背を預ける。カツサンドをひざに乗せて、ぽんぽんと自分の隣を叩いた。隣に座れということらしい。躊躇するも、わざと離れて座るのもどうかと思い、篤志はおとなしく隣に並んだ。

 鉄の扉にぴったりと背をつければ、遠くからかすかに雨音がしていた。ここ数日のお天気具合が嘘のように、今日は朝からずっとしとしとと雨が降り続いている。校舎のなかも、全体的にじめっとした空気に包まれていた。
 しかしそれとは対照的に、リノリウムの床はひんやりとしている。背もたれ、もとい扉も鉄なだけあって冷たい。加賀の言う通り昼休み特有の喧騒もやや遠く、どことなく落ち着ける空気がそこにはあった。

「いただきます」

 ひとり手を合わせると、加賀はさっさとカツサンドのパッケージを開け始める。それじゃあ食べようかとか、そういうのはないのか。拍子抜けしつつ、篤志もそれに倣って手を合わせる。

「いただきます」

 いつも誰かしらに囲まれているイメージのある加賀も、静かなところでひとりになりたい時があるのだろうか。そんなことを考えながら食べた焼きそばパンは、いつもよりもソースの味が濃い気がした。

「それじゃ、また」

 お互い黙々とパンを食べたのち、ふたりはどちらともなく立ち上がって教室の階に戻り、昨日と同じ角で「また」と別れた。



 その日の放課後も、「また」という曖昧な約束を守る形で、加賀はまた放課後に篤志を待っていた。あの額紫陽花の花壇の前で、止まない雨のなかをひとり傘をさして。今度は本当に、ちょうど部活が終わったところだったらしい。「帰ろう」の言葉もなにもなく、ごく当たり前のように一緒に帰ろうとする加賀に、篤志はひそかに動揺した。

 ふたりは、駅までの道をあたりさわりのない話をしながら辿った。すっかり日の暮れた道にはぽつりぽつりとしか電灯がなく、あいにくの天気なせいもあり薄暗かった。そのせいか、幸いにも、微妙な距離感を保ちつつ並んで歩く男子高校生二人組をあやしむ人はいなかった。
 加賀はまたもや改札の前でUターンをして、さりげなく「また」と翌日の約束を取り付けて帰って行く。篤志はそれに複雑な気持ちになりながら改札をすり抜けて、ひとり電車に揺られて帰る。がたんごとんという音のなかに混じって、加賀の「またね」の声がリフレインするようだった。

 翌日も、さらにその翌日も、加賀は飽きることなく昼休みと放課後に篤志の元にやってきた。その度に加賀はしつこいくらいに「また」と言って、その言葉を必ず守った。
 屋上へ続く扉の前で加賀と購買のパンを食べ、放課後はぽつぽつと話しながらふたりで帰り、改札の前で加賀と別れる。加賀が改札を通り抜けないことについては言及しない。そんな日々が一週間ほど続いただろうか。そのうち篤志は、委員の仕事がなくとも加賀の部活が終わるのを待つようになり、それと同時に、加賀が意外とまめな男だということを知った。

 始めこそ加賀のまめさに動揺していた篤志だったが、十日も経つ頃にはそれにもすっかり慣れてしまった。加賀が隣にいるということや、まわりからの視線にも。人間の適応能力というやつはおそろしいものである。
 そのうち篤志は、徐々にこうも思うようになった。

「どうせうそなら、今だけでも夢見ておこう」
「今、このあいだだけでも、加賀と恋人同士のような錯覚を楽しんでおこう」

 我ながら図太いやつだと、篤志はそのあさましさをひそかに笑った。



 その日も、加賀は昇降口前の花壇に腰掛けて、篤志のことを待っていた。委員会の仕事をしていて遅くなった篤志を、今日は部活が休みのはずだというのに。けれど篤志は、いまさら「なんでいるんだ」なんて聞いたりしない。どうせ聞いたところで、まともな答えなど帰ってこないと知っているから。

 篤志がやってきたことに気づくと、加賀は視線を落としていたスマートフォンをポケットにしまってすっくと立ち上がった。とくに何を言うでもなく、一瞬だけ視線を交わすと、ふたりはどちらともなく並んで歩き始める。
 部活帰りにしてはまだ早く、帰宅部の生徒が帰るにしてはやや遅い時間のせいで、駅までの道のりには人けがない。ただでさえふたりと同じ高校の生徒ぐらいしか利用しないような道だ。薄暗い道は、非日常的な静けさに包まれている。

 相変わらずふたりの口数は少ない。どちらかが話して、もう一方が「そうなんだ」「へえ」と相槌を打つくらいの、どこまでも不器用な会話だった。けれど、篤志にはそれくらいの距離感がかえって心地よく感じられた。
 そんなぽつりぽつりとしか続かない会話がふっと途切れた、その瞬間。

――ちょん、と。加賀の指先が、かすめるようにして篤志の指先に触れた。

 ほんの一瞬、まばたきを一つするよりも短い時間の接触である。しかしそれは、確かな熱を篤志の指先に残していった。
 ごくり、と無意識のうちにつばを飲み込む。その音が思いのほか大きく体内に響いて、篤志は、隣を歩く加賀に聞こえやしなかっただろうかと怖くなった。

 そうっと隣を伺う。同じタイミングで加賀もこちらを見ていたらしい。目があった。かと思うと、恐る恐るといった風に篤志の右手をあたたかいなにかが――否、加賀の左手が包み込んだ。今度は、触れるだけでなくしっかりと。

 ぎゅっと手を握り締められ、篤志の心臓は大きく飛び上がった。絡まっていた視線をとっさにほどいてそっぽを向いてしまう。じわじわと頬に熱がたまるのを抑えられない。
 こんなとき、どんな顔をしたらいいのだろう。たちまち落ち着きがなくなった自分の鼓動をもてあましつつ、篤志は、くたびれたローファーのつま先や電柱の広告、数メートル先のマンホールなどに視線を泳がせた。

「……ごめん。今井、やだった?」

 ぼそり。聞こえてきたつぶやきに、え、と耳を疑う。思わず聞き返すよりも先に、そろりとつながりが解けそうになった。

「――じゃ、ない!」

 とっさに、離れかけた手をぐっと握り返す。

「嫌じゃ、ない、から……」

 だいじょうぶ、と消え入りそうにつぶやいて、篤志は加賀の手をしっかりと握り直した。離してやるもんかと言わんばかりに。

「そっか」

 隣から小さく息を吐く音がした。もう一度、しっかりと握り返される。ふたりのてのひらは、余すところなくゼロ距離で密着していた。

「それなら、良かった」
「ああ」

 どこか確かめるような加賀のひとりごとに、篤志は無意味に相槌を打つ。掴んだ加賀のてのひらは汗ばんでいた。ほっそりとした印象とは裏腹に大きな加賀のてのひらのしっとりとした感触と、ばくばくとうるさい自分の心臓の音と。そのふたつが、その日、篤志の胸裏に鮮烈な印象を刻み込んで行った。



「……あ、そういえば」

 普段、食べているときは黙り込むタイプの加賀が、唐突に口を開いた。数日ぶりに太陽が顔をのぞかせたこと以外はなんの変哲も無い、いつもと同じ昼休み。ほんのすこしだけ喧騒から離れた屋上の扉の前で、その日も篤志は焼きそばパンを、加賀はカツサンドを食べている途中だった。
 普段とは違うイレギュラーな出来事に、篤志は思わずなんだなんだと身構える。

(こんどこそ、っていうか、今日こそついにネタばらしか?)

 焼きそばパンをごくりと飲み込み、じっと耳を澄ませた。

「今井、今日の放課後って委員会の仕事とかある?」
「ないけど」
「じゃあ、なんか用事とかは?」
「とくには」

 強いていうなら、コンビニか本屋でマンガ雑誌を買って帰るくらいだろうか。今日は月曜日だし。
 しかし、それが「ネタばらし」とどう関係があるのだろうか。内心で首をかしげる篤志に「じゃあさ」と加賀は続ける。

「今日の帰り、どっか寄って帰らない」

 平坦な声で言われたそれが誘いだということに、篤志は一瞬気づけなかった。

「えっ、どっかって?」
「駅ビルとか?」

 ほらあそことか、と加賀はふたつ隣の駅名をあげる。ターミナル駅でもあるそこの駅ビルは、大きな本屋やCDショップをはじめ多くの店が入っていることで有名だ。この学校の生徒でも、帰りに友人同士でそこへ立ち寄るものは多い。

「おれもちょうど本屋行きたかったし。どう?」
「いいけど……」

 けど、のあとになんと続けたらいいかわからなくて、篤志は曖昧に語尾を濁した。加賀はそれを肯定的に受け取ったらしい。

「それじゃ、決まりね」

 朗らかに微笑んで、再びカツサンドにかじりつく。もぐもぐと、心なしどこか嬉しそうにカツサンドを食べ進められてしまっては、「どっか寄って帰る」のがどういうことなのかを問いただすことはできなかった。
 悶々としているうちに、篤志は焼きそばパンを食べ終えてしまう。見計らったように、ほぼ同時に予鈴が鳴った。

「また、放課後に」
「ああ、また」

 いつものようにさらりとA組の教室に帰っていく加賀に、篤志もいつも通りの対応しかできない。

(どっか寄って帰る、ねえ……)

 焼きそばパンの袋をぐしゃぐしゃと丸めて弄びながら、篤志はまた、もやもやとした心も持て余す。

「これって、デートに入んのかな」

 男同士でデートって、なんていうことはいまさら言うまい。だがこの間の帰りに手をつないで以来、妙に加賀との「おつきあい」というものを意識してしまって仕方なかった。
 そういえば、以前よーくんがどや顔でこんなことを言っていた気がする。

「デートってのはな、どっちかが『これはデートだ』って意識してたら、その時点でもうデートになんだよ」

 ということは、篤志は意識している時点でもうこれはデートなのだと、そう思ってもいいのだろうか。とてつもなく勝手な考えだというのは承知の上だけれど。

「……ちょっとくらい、期待してもいい、のか……?」

 無意識のうちに声に出してから篤志はハッとする。邪な考えを振り払うようにぶんぶんと頭を振った。
―いいや、ダウトだ、ダウト。きっとこれも、ダウトだ。
 浮足立つ心を抑えつけるように、わざと顔をしかめて、声には出さずにダウトの三文字を繰り返す。

「ダウト、だ」

 もう一度なぞってみても、篤志の声から嘘くささはぬぐいきれなかったし、篤志の顔がどうしようもなくにやけてしまっていることも、隠しようもない事実であった。



 ほぼ幽霊部員同然な軽音楽部のよーくんが、久しぶりに部活に行くというのを見送ってから十数分。グラウンドから野球部の声が聞こえ始めてきたところで、篤志は「よし!」とひとり気合を入れて立ち上がった。HRが終わってからすぐに昇降口に向かうには、ほんのすこし勇気が足りなかったのである。
 薄っぺらな鞄を持ち上げて、ぐぐっと大きく背伸びした。深呼吸をひとつ。

(……よし、行こう)

 固く決意したそのとき、篤志の行く手を阻むようにして、ガラリと教室のドアが開いた。

「おっ、ちょうどよかった! 今井、まだ残ってたか」
「うげっ、まっちゃん!」

 よかったよかったと繰り返しながらドアに手をかけ教室内を覗き込んでいたのは、美化委員の担当教師である。加賀にも話した、例の人使いの荒い男だ。なにやらプリントの山を抱えている。その荷物の量と「ちょうどよかった」という言葉に、嫌な予感が篤志の脳裏をよぎる。

「今井、お前放課後どうせ暇だよな?」
「や、暇じゃない。暇じゃないです」
「おっし、今暇って言ったな? いやー、ほんと助かるなあ」

 どこまでも篤志の言葉は無視して、まっちゃんは棒読みで言う。

「ちょっと頼まれてくれ。これがさぁ、明日の授業で使うプリントなんだけど、ホチキス留めする時間がなくってよぉ」

 どさどさっと篤志の机にプリントの束を置いて、まっちゃんは、プリントを四枚一組にして左上で留めて欲しい旨を早口に説明した。かと思えば、スーツのポケットから取り出したホチキスだけをぽんと手渡して

「それじゃ、終わったら職員室に持ってきてくれ。わりーけど俺、これから職員会議だから!」

 と、呼び止める暇もなくぴゅーっと立ち去ってしまう。篤志には文句を言う隙すら与えてくれなかった。

「……まじかよ」

 結局、残されたのは大量のプリントの山と篤志ひとりだけ。ホチキスがひとつしかないあたり、最初から全て篤志に押し付ける気だったのだろうことが丸わかりだ。
 いったいどうしたものか。頼まれてしまった以上、放置して帰るわけにもいかない。篤志は途方にくれた。

 加賀に連絡するべきだろうか。友達登録をしたわりに、いまだに一度も使ったことがないラインのトーク画面を開く。なんの履歴も残っていないまっさらな画面とにらめっこしていると、がらり、と再び教室のドアが開いた。
 まさか、まっちゃんが戻ってきてくれたのだろうか。そんな期待からそちらを振り返る篤志だが。

「あ、今井。ここにいたんだ」

 ドアの隙間からひょこっと顔をのぞかせたのは、すっかり帰り支度を整えた加賀だった。

「帰る準備できた? いつまでも昇降口に来ないから、なにかあったのかと思った」
「あー、ごめん加賀……実は」

 かくかくしかじかで、と篤志は目の前のプリントの山を示しながら、つい先ほど起こったことを話した。それによって、一緒に帰れなくなってしまったということも。もちろん放課後デートの約束も反故となってしまう。

「だからごめん、先帰ってて。悪い、一緒に本屋行こうって言ってたのに……」

 「ちょっとくらい」だなんて言いながら、案外篤志は加賀との約束を楽しみにしていたらしい。こうしていざダメになってみると、自分がどれだけ期待していたかがよくわかった。ただでさえ猫背ぎみな背中が、余計に小さく縮こまっていく。
 ごめん。無意識のうちにもう一度繰り返すと、加賀は「え?」とぱちくりと目を瞬かせた。切れ長な瞳が大きく見開かれ、ほんのすこしだけ顔全体が幼い印象になる。

「なんで謝ってんの、加賀」
「へ? いや、だから、約束が……」
「や、それはわかったけどさ。だから、手伝うケド、別に」

 二人でやって、早く終わらせて帰ればいいでしょ?
 ごく当たり前のように加賀は言う。D組の教室を横切って篤志の席までやってくると、鞄を床に置いて篤志の前の席に座った。その席の本来の持ち主は、たしか女子生徒だったはず。もし加賀が自分の席に座ったと知ったら発狂するんだろうなあと、真正面にある加賀の顔を眺めながら、篤志は他人事のように考える。

「で? これ、どうするの? おれやり方わからないんだケド」
「……加賀、まじで手伝ってくれんの?」
「なに? 俺が嘘ついてるとでもいいたいわけ」

 図星だ。篤志が黙り込むと、ふっと加賀は苦笑を漏らした。

「さすがにこんなつまんないことで嘘ついたりしないから。ほら、早く。今井」

 どうするの、と加賀はホチキスを手にとってカチカチ鳴らす。

「もたもたしてると時間なくなっちゃうでしょ」
「あ、えっと、これを一枚ずつとって……全部で四枚一組にして……」

 加賀の言葉にハッとして、先ほどまっちゃんから聞いた説明を繰り返す。あいにくとホチキスはひとつしかないため、篤志がプリントを四枚一組にする係りに、加賀がホチキスで留める係りになった。
 いつもの帰り道と同じように、お互い黙り込んだまま手だけを動かしていく。紙の擦れるかすかな音と、ぱちん、ぱちんというホチキスの音だけが、静かに教室のなかに響く。まっちゃんに押し付けられた未処理プリントの山がすべてなくなるまで、その音は、ふたりの間に響き続けていた。



「はーっ、終わったー!」

 結局、すべての作業が終わったのは、日が傾き始めたころのことだった。

「いやぁ、まじでありがとな、加賀」

 ひとりではいつ終わるかもわからなかったというのに、加賀と一緒だとあっという間にプリントの山が消えた気がした。ホチキス留めし終えたプリントをまとめながら「ありがとう」ともう一度繰り返す。と、加賀がなにやら意味深な笑みを浮かべた。

「今井、ほんとに感謝してる?」
「そりゃもちろん」
「じゃあさ、なんかお礼ちょうだいよ」
「え、お礼?」

 オウム返しに繰り返したとき、開けっ放しだった窓からざあっとひときわ強い風が入ってくる。白いレースのカーテンがぶわりと大きく膨らんだ。遮られるものがなくなって、西日がいっぱいに教室内へと注ぎ込む。
 加賀のつややかな黒髪も大きく翻った。茜色が反射して毛先が濡れたように光る。きれいだなと、篤志はすなおにそう思った。夕日に染まる加賀の白い頬も、乱れた髪をそっと押さえつける細い指先も、まっすぐな加賀の瞳も。すべてが篤志の目を奪う。

 発する言葉を失ったまま、篤志はただぼんやりと、加賀の端正な顔がぐっと近づいてくるのを眺めていた。

「――え?」

 ふわり、と。すぐ近くで、すっきりとしたミントのような、けれどほんの少し甘さも含んだにおいが香る。その直後、ふにゃりとやわらかい感触が頬に触れて、加賀の体温が移ったかのようにそこからぶわりと熱が広がった。
 頬に、キスをされた。ワンテンポ遅れてそのことに気づき、篤志はとっさに身を引く。いまさら遅いことはわかっていた。

「え?」

 もう一度繰り返しても、加賀はなにも言わない。ただ唇の形だけで「おれい」と三文字をつくって、満足げに頬を緩ませてみせるだけであった。
 そのあと、駅まで向かう道でこっそりとつないだ加賀の手は、いつもよりもずっと熱を持っていた。

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