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「ヤギが、いつだって、俺を見捨てなかったから」

 長い沈黙の末、ようやくワタルが発した言葉はそんなものだった。どうでもいいとか、そんなこと知ってどうするとか、そういうはぐらかすような言葉が出てくるかと思いきや、存外真面目な答えが返ってきたことに、まず目をみはった。
 次に、「見捨てなかった」という意味を測りかねて首をかしげる。見捨てなかったって、どういうことだろう。俺、そこまでたいそうなことをワタル相手にしたっけ?

「ネトゲで、俺、最初はスゲェ足手まといだったろ」
「あ、ああ……」
「ヤギのパーティーのやつらは、スーザンもだけど、廃人ばっかだから全然ついてけなくて。邪魔だから抜けろって誰かに言われたとき、お前、俺のことかばってくれたよな」

 ああ、そんなこともあったっけ。おぼろげな記憶を頼りに同意する。それを受けてワタルは、戦闘でも、と話を続けた。

「俺が瀕死になったって、誰も回復とかしてくんなくても、お前だけは俺のこと助けようとしてくれて。そんで、自分も死にそうになったりして」
「あー、あれかぁ……あれ、あとでめっちゃスーザンに怒られたなぁ」

 それでめーちゃんまで戦闘不能になったら元も子もないじゃん! って。いやでも、仲間見殺しにするほうがどうなんだって俺は思ったけど。
 けど、それがなんだというんだろう。

「それくらい、仲間ならフツーだろ」
「フツーじゃねえよ」

 フツーなんかじゃない、と、ワタルは力強く繰り返す。

「少なくとも、俺にとっては全然フツーじゃねえ。……ヤギだけ、だったんだよ」
「俺だけ? って、なにがだ?」
「俺に優しくしてくれたの。そんなことしてくれたの、ヤギだけだったんだよ」

 もうすっかり秋も終わりかけ、本格的に冬へと移りつつあるひんやりとした夜の空気を、ワタルの声が震わせる。その響きがひどく切実そうに聞こえて、俺は、まっすぐに俺を見つめるワタルのどこか悲しげな瞳から目を逸らせなかった。

「お前はとくべつなんだよ、俺にとって。だから、好きになったんだよ」

 なんのてらいもなく口にされた「好き」の二文字に、どくんと心臓が大きく跳ねた。じわじわと恥ずかしさがこみ上げる。どこまでも俺を「とくべつ」だとするワタルに、俺はいつかの本村アカネの言葉を思い出した。

『恋なんて、案外錯覚から始まったりするものなんじゃないかなぁ』

 たしかに、その通りかもしれない。俺はそんなつもりはなくとも、ワタルにとっては重大なことで、その差から恋が生まれたり、なんて。そういうこともあるのかもしれない。恋ってやつはどうにも複雑だ。

 なんにしても、ワタルが今口にした愛の言葉は、今まで何度も重ねられてきた「愛してる」とはどこか違っていた。この前襲われた時に感じた、いっそ狂気にも似た激情とは違う。ストーカーのことの印象が強すぎて、どうしても偏った目線で見てしまいがちだったけれど、今のワタルのまっすぐな言葉は、確か愛なんだなと感じさせられた。
 多分これは、西崎が俺に向けてくれたのと同じ感情だろう。

「……ありがとな、ワタル。好きになってくれて」

 今はただ、素直に嬉しいと思えた。こんな自分を好きになってくれたことを。
 でも――

「でも、ごめん。俺はやっぱり、ワタルとは友達でいたいんだ。だから」

 だから、ワタルと付き合うことはできない。同じ気持ちを返すことはできないんだ、って、俺ははっきりきっぱり言葉に出した。
 そういえば、こうやってきちんと告白の返事をするのはこれが初めてかもしれない。そう気付いて、われながらひどいやつだと苦々しく思うのもつかの間、じゃり、と地面を踏みしめる音が耳を打った。

 はっとして顔をあげれば、ワタルがすぐ目の前に立っている。いつの間に。驚く隙すら与えず、ワタルはさらに一歩、こちらへの距離を詰めてきた。

「ワタ、」

 反射的に身を引くももう遅い。ぐいと頭を捕まれ強引に引き寄せられたかと思うと、そのまま乱暴に口付けられる。呼びかけた名前は、ワタルの口のなかへと吸い込まれていった。
 キスをするというよりかは、唇に噛み付くといったほうが近いくらいの荒々しいそれに、全身がこわばる。

 半開きになっていた唇の隙間から、ワタルの舌がぬるりと入り込んでくる。無理矢理舌を引きずり出されて絡められた。
 ぐちゅぐちゅと聞こえてくる水音に、頭の中が真っ白になる。抵抗しなくてはと思うのに、脳の芯がしびれてしまったように言うことを聞かない。使い物にならなかった。

(ワタルと、こんな風にキスするの、もう何回めなんだろう)

 そんなことを考えているうちに、ようやく一方的なキスは終わった。だらしなく口を開いて、口角からは唾液をこぼしたままに、はくはくと酸欠にあえぐ。
 膝が笑ってひとりで立つことすらつらかった。かくん、と腰が抜けたところで、とっさにワタルがそれを支える。

「ありが、っ、いって!」

 形だけでも礼を言おうとしたら、その代償だとばかりに首筋に噛み付かれた。がり、と肌に犬歯を突き立てられ、次いでぢゅうぢゅうと強く吸われる。
 噛み付かれたせいだけじゃないチクリとした痛みが走って、痕を残されたのだとわかった。

「ワタル、やめっ……はな、せッ!」

 咄嗟に、ダンッ! とワタルの足を踏みつけた。さすがのワタルも、足までは鍛えられないらしい。靴の上からでもそれは効果抜群だったようだ。呻き声を漏らしたワタルが一歩後退する。俺はなんとか足腰に力を入れて、さらにワタルから距離をおいた。
 ゆらり。体勢を立て直したワタルが俺を捉える。その目からは、完全に正気が失われていた。

(――あ、やばい)

 なにがやばいって、その、なんだ。あれだ。とにかくやばい。脳内でけたたましく警報アラームが鳴り響いている。急速に募りゆく危機感に、慌てて尻ポケットへ手を伸ばした。

(理一、りいちりいちりいち……!)

 スーザンにもうーたんにもワタルと会うことを知らせていない今、頼れるひとはひとりしかいない。
 藁にもすがるような思いで手探りに携帯を取り出し、ぱかりと開く。そうして液晶画面を見ないままに発信ボタンを押そうとした、そのとき。

「逃げてんじゃ、ねーよッ!」

 がしりと肩を掴まれたかと思うと、そのまま足を払われ地面に倒れこんだ。どさり、とまともに背中を打ち付ける。受け身をとる余裕なんてなかった。かはり、と妙な咳が口をついて出る。

「ッ、てぇな、このやろう……ッ」

 やりやがって、とか、こんなことしといてお前ほんとに俺のこと好きなわけ? とか。余計なことを考えて気をまぎらさせようとしてみるも、そう簡単に痛みは消えてくれなかった。芋虫のように体を丸めて身悶える。目には涙まで滲んできた。
 人に好かれるだけでこんな目に合うなんて、恋とはなんてめんどうなやつなんだろう。そんなことすら思う。
 それでも、なんとか携帯の発信ボタンだけは押したのだから、俺って案外したたかなのかもしれない。

「ヤギ……お前、なにした?」
「あ、」

 やべえ。自分の上にかかった影の正体を見て、冷や汗が背筋を伝った。ワタルだ。ワタルが俺を――俺の手の中の、携帯電話を見ている。そして恐らくは、いやぜったい、俺が発信ボタンを押していたところも見られていたにちがいない。

「てめェ……またあのクソ風紀でも呼ぶつもりか?」
「いや、ちが」

 うーたんを呼んだわけじゃないけど、助けを呼ぼうとしたことに変わりはない。否定しかけて口をつぐむ。
 そんな俺に、ワタルはチッと舌打ちを落とした。軽く右足を引いたかと思うと、そのまま振り抜き俺の右手を蹴りつける。焼けるような痛みが手の甲を襲った。じんじんと骨がしびれる。

(これ、骨折れてないよな。さすがに大丈夫だよな?)

 手を抱えて呻き声をあげる俺の頭上からは、カラカラと携帯が転がっていく音が聞こえてくる。ワタルはそれを目で追いかけると、ゆっくりとそちらへ歩み寄っていった。じゃり、じゃり、と足音が遠のいていく。
 プルルル。ワタルの足元に転がった携帯から、かすかに呼び出し音が聞こえていた。プルルルル、と繰り返されるそれに、ワタルが徐々に表情を険しくする。

(待て待て待て……やめろ、やめろよ)

 それだけはやめてくれと思う俺をよそに、ワタルはゆっくりと足を持ち上げた。スニーカーを履いたワタルのその足が、未だなお理一を呼び続ける携帯の上にかかる。どくどくと、どんどん心臓の音がうるさくなっていく。
 やがて、発信音はぷつりと途切れた。

『もしもし? ……おい、ハル? どうし――』

――バキリ!!

 不安げな理一の声をかき消すように、容赦なくワタルの足が踏み下ろされる。自分の足元を睨みつけるようにして、ワタルは、ついでとばかりにぐりぐりとそれをなじった。その度バキバキ、ぱきっ、メキメキッといやな音が聞こえてくる。

(嘘だろ……)

 目をそらしたいのに、そらせない。ただただ絶望感だけが俺の心を覆い隠していく。
 しばらくして、満足したらしいワタルが足をどかしたその下からは、見るも無残な姿になったプラスチック片が現れた。
 嘘みたいだろ……あれ、携帯電話だったんだぜ……とか、そんなふうなことを思う余裕すらない。

「これで邪魔者はいなくなったな、ヤギ」

 粉々になった破片すらをも蹴散らしたワタルが俺を振り返る。にぃ、と引きつったように笑みを形作った口元にぞっとした。





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