06
覚醒には、妙な温かさと甘ったるい匂いを伴った。
――……なんだろ……
誰かの手が俺の頬に触れているような気がする。ワタルに殴られた左頬に、だ。
優しく表面を撫ぜるような手つきが心地よくて、俺は夢うつつの状態で擦り寄る。すると、その手はびくりと跳ねて怯えたように引っ込んで行った。
心地よい感触が失われたことをひどく残念に思いながらも、瞼が重すぎて、目を開きその手の主を確認することは出来ない。
誰、だろう。この手の主は。この甘い匂いもこの手の主から漂っているものなんだろうか。それとも――
ぼやけた思考の中で、ぱたり、と静かにドアが閉まる音がした。
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「……どこだ、ここ」
二度目の覚醒にぱちくりと目を瞬かせる。頭上にはやはり、瞬きの前と変わらず見慣れない天井が広がっていた。
僅かに頭を持ち上げて室内を見渡してみるも、ここがどこなのか見当すらつかない。作りからして、どうやら寮の部屋ではないことだけは確かそうだった。
むくりと上体を起こしたところで、俺は自分がベッドに横になっていたことに気付いた。寮ではない、けれどベッドのある見慣れない部屋。条件的には保健室が一番近いだろうけど、それがハズレなことは壁にぎっちりと並べられた本棚が語っていた。
ガラス扉の棚の中には、ファイルやバインダーの類が所狭しと詰め込まれている。
「なるほど、わからん」
考えていても答えは見つからないだろうと、ずるずると這うようにして俺はベッドから降りた。すぐ脇に揃えて置かれていた靴を履く。そして出入り口はと振り返ったところで、ふと壁に埋め込まれた鏡が目に入った。
大体目の高さくらいに位置するそれには俺が映っていた。パッとしないつくりは毎朝洗面所の鏡の中に見る自分となんら変わりない。けれど、いま鏡に映っている俺にはいつもの俺とは大きな違いがあった。
「手当て、誰がしてくれたんだろ……」
左頬には大きなガーゼ、唇の端には小さな絆創膏。よくよく見てみれば、顔以外にもぶつけた腕やら強く掴まれた手首やらにも湿布が貼ってある。
もしかして、あの手の主だろうか。覚醒と呼べるのかも怪しい、おぼろげな意識の中での出来事のことを思う。あの甘い匂いの中で俺に触れてきた人物が、手当を施してくれたのだろうか、と。
けれどその考えはすぐに打ち消された。だってあの手の感触はガーゼ越しではなく、直接俺に触れてきていた。その上あの人物は、その後すぐに部屋を出て行ってしまった。だからきっと、違う。
別に残念なことなんて無いはずなのに、なぜだかひどく落胆している自分がいた。
「……あほらし」
西崎のこととかワタルのこととか、いろんなことが立て続けに起こったせいで少しセンチメンタルになっているのだろう。結論づけて緩く頭を振った。そのとき、
「っんで! アイツを退学にできねぇんだよッ!」
部屋の外からそんな怒声が聞こえてきた。
「アイツはずっとめーちゃんのこと狙ってたんだぞ?! どう考えても確信犯じゃねーかッ」
「それでも、この学園内では阿良々木が初犯者であることには変わりありません。たった一度の、それも強姦未遂の事件だけでは、せいぜい謹慎が良いところなんです」
「そもそもンな程度の処罰しか受けさせらんねぇ制度がおかしいっつってんだよ、俺は!」
凄まじい剣幕のその声に俺は思わずその場に立ち尽くす。けれど、声の鋭さや大きさ、その内容よりもなによりも、俺はそれが聞き慣れた声――忍の声であることに一番衝撃を受けていた。
忍が、こんな声を出すなんて。こんな風な口調で怒るなんて。それも、ネットの世界ならともかく現実世界で。あまりに信じがたくて、俺の聞き間違いなんじゃないかとすら疑いたくなる。
けれど、今もなお聞こえ続けている声はやっぱりどう考えても忍のものだった。俺は、恐る恐るドアに向かいそっとノブを捻った。
薄く開いた隙間から向こうを覗き込む。そしてそこがどこだか解った瞬間、俺はあっと声をあげそうになった。
「……ここ、風紀室だったのか……」
いつだかうーたんや忍たちと一緒にお昼を食べた風紀委員室内には、見慣れた顔が複数ある。応接セットのローテーブルを挟んだ右側にはうーたんや風紀委員長、秋山くんを始めとする風紀委員たちが、左側には忍や西崎、二木せんせーといった俺の身の回りの人たちが、それぞれソファに腰掛け並んでいた。
どちらのサイド側もそれぞれ自分の向かいに居る人を親の仇のように睨みつけている。ただし、唯一うーたんだけは、自らも風紀サイドでありながら恨めしそうに風紀側を睨みつけていた。
「っていうかぁ、今までがこうだったから〜とかさぁ。そんな甘っちょろいことばっか言ってるから学園内の治安が改善しないんだって、どーして解んないかなあ」
「ここで断ち切れなきゃ、負の連鎖はずっと終わんねぇぞ、君島(きみしま)」
呆れたような顔のうーたんとひどく真剣な表情を浮かべた二木せんせーが続けて言う。それを受けて、どうやら君島という名前らしい風紀委員長がはあと深く溜息をついた。
「こちらだって、もっと早く八木くんの救出が出来なかったことに歯噛みしています。阿良々木を停学、いえ……できれば退学にしたいとも思っているんです」
でも、と君島委員長は続ける。
「今までの事例と現在のこの学園のルールでは、それは不可能なんです。ですから、」
「だったら、」
だん、と忍がテーブルに拳を叩きつけた。
「だったら、泣き寝入りしろっていうのかよ。めーちゃんに」
「……」
「だってそうだろ?! めーちゃんはもう居場所も名前も知られてて、でもワタルは退学にならなくて、そんでまだめーちゃんのこと狙ってて。そしたら、このままこの学園に居続けたら、めーちゃんは今度こそっ!」
なのに退学にできないのかと、鋭い眼光でもって君島委員長に訴えかける忍。それに対し君島委員長は、苦しげに顔を歪めて静かに首を振った、次の瞬間。
忍は、ばっと勢い良くソファから立ち上がった。勢いのままにその右手が君島委員長へと伸びる。叩くのか、ワイシャツの首元でも掴みあげるのか。反射的に脳裏へ浮かんできた幾つもの嫌な予感に、俺は慌てて薄く開いたままだったドアを押し開けた。
ガチャリ。緊張状態に突如割り込んできた物音に、部屋中の視線がこちらへと集まる。
「っ、めーちゃん?!」
「えーっと……おは、よう?」
「なにがおはようだよ、この野郎」
驚きに目を見開くうーたんへ若干首を傾げつつそう言えば、「心配させやがって」と二木せんせーが悪態を吐いた。いやだって、仕方ないじゃん。今何時かわかんねぇんだもん。
「体のほうはどうですか、八木くん」
「ええと、まあまあ、ってとこですかね」
「そうですか、なら良かったです」
悪くはないが決して良い状態とも言えないよな、という考えからの曖昧な声に、君島委員長はほっとしたように口元を緩めた。
「そうしたら、まだ整理がついていないだろうに申し訳ないのですが、事情やなんかをお聞きしてもいいですか?」
「はい、もちろんです」
「ありがとうございます。八木くんから話を聞いて、それを元に阿良々木くんの処罰を――」
「あの、」
調書でも作らなければならないのか、ソファの背後に立っていた委員から書類を受け取った君島委員長の声を中途で遮る。
「それって、絶対しなきゃだめなんですかね」
「事情聴取のことですか? もし今すぐが難しければ後日でも」
「いや、そうじゃなくて」
事情聴取自体には何ら問題ないのだ。今すぐというのにも不都合は無い、けれど。
「ワタルへの処罰っていうか、そういうの。絶対しなくちゃいけない、ん、ですかね」
「めーちゃん?」
「おい、八木……お前なに言ってんだよ」
たくさんの目に見つめられてしどろもどろになった俺の言葉に、信じられないとばかりに忍と二木せんせーがうろたえる。どうですかね、と救いを求め見た先の君島委員長も、驚いたようにただ口をパクパクと開閉させていた。
その光景に、そんなに驚くことかと俺は苦笑する。
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