04






「うー、たん……」

 どうして、ここに。ぽつりと呟いた声は思いのほか大きかったらしい。うーたんは、あられもない姿の俺を見下ろしてわずかに眉をひそめたかと思えば、それを振り払うようににっこり笑ってみせた。いつもと変わらない、底抜けに明るいひまわりみたいな笑顔。

「もー、やだなぁめーちゃんったらぁ」

 言ったでしょ? と言いながら、うーたんは羽織っていたオレンジのパーカーを脱いで俺の体――主に下半身にばさりと投げかけた。

「めーちゃんのことなら、いつどこにいてもすぐ見つけ出すよ、って」

 不意に、文化祭の夜のことが脳裏に蘇る。
 ゆらゆらと揺れるキャンプファイアーの炎と、その光を受けてきらめくオレンジの髪。来年は一緒に模擬店を回ろうという約束をして、みんなで星空を見上げた、あの夜の発言。

 あれ、冗談じゃなかったのか。本気だったのか。そんな思いが顔に出たのか「もしかして忘れてた?」なんてうーたんは笑う。
 冗談だと思ってんだと慌てて首を横に振れば、なら良かったと小さく零したのち、うーたんは不意に口元から笑みを消した。さっきまでの穏やかな笑顔とは違う、どこか張り詰めたような真剣な表情。

「俺がめーちゃんに嘘言うわけないでしょ?」
「……うーたん」
「言ったからにはちゃんと実行するよ。有言実行の男だからさ〜、俺」

 有言実行の男って、なんだそりゃ。なんだかよく解らないもの言いに脱力してしまう。へにゃりと笑って、俺はうーたんのパーカーを引き寄せた。
 きっとこのパーカー、汚れちゃうだろうな。なんか、その、色んなもので。そう思うと少し申し訳なくなるけれど、今の俺にはこの薄い布きれ一枚がひどく有難かった。

「チッ……ンだよ、てめェ」

 一人ほのぼのとしていたところで、ガタガタと音を立ててワタルが立ち上がってくる。口の中を切ったらしい。赤い唾を吐きながらうーたんを睨みつけるワタルの目には、苛立ちと殺気が混ざったものが色濃くにじんでいた。

「なにって聞かれてもねぇ。さっき言ったでしょ? 風紀委員でーす、ってぇ」
「舐めてンのか、てめェ」
「あははは、まっさかぁ。舐めてなんかないよ〜う。どっちかって言うとぉ……」

 中途半端に言葉を切ると、うーたんはトントンと二回、上履きの先を床に叩きつけた。そしてオレンジの前髪を鬱陶しげに振り払ったかと思えば、

「キレてる、かなぁ?」

――だんっ

 ぐっと床を蹴ったうーたんが前に飛び出す。ワタルとの間にあった距離は一瞬で埋まった。突然のことに俺が驚いている間に、うーたんが右腕を引いて拳を振り抜く。ワタルはそれを寸でのところで避けると舌打ちと共に足払いをかけた。
 ひゅっと脛の辺りを薙ぐように繰り出された足を、うーたんはピョンと小さく跳ねて避けた。さすがはウサギ、なんて場違いなことを思うのもつかの間。ニヤリと頬を歪めたうーたんが再び右拳をワタルの左頬に向ける。

「バカの一つ覚え、かよッ」

 ケッと嘲笑ったワタルがそれをヒョイと上体を逸らせることで避けた――瞬間、

「バカはそっちじゃないの?」

 驚愕に目を見開いたワタルが、突如ガクリとバランスを崩してその場に倒れ込んだ。

「足元ガラ空き」

 うーたんの声から察するに、どうやら今度はうーたんがワタルの足を払ったらしい。先程は自分が仕掛けた攻撃をそっくりそのまま返されたワタルは、悔しそうにうーたんを見上げた。

 うーたんはその視線をものともせず、体勢を起こそうとするワタルの上に馬乗りになる。ぐいとワイシャツの襟元を掴むと、そのまま逃げることの出来ないワタルの顔を思い切り殴りつけた。
 ゴッ、と骨と骨がぶつかる音。あまりに痛々しいそれに、俺は思わず顔をしかめる。続けてもう一発、二発。三発目は、ワタルによって遮られた。

「……邪魔、しやがって」

 ぼそりと呟くと、ワタルが反撃を仕掛ける。うーたんはそれを後ろに飛び退き避けようとして、次いで繰り出された蹴りをみぞおちあたりに食らった。
 今度は、うーたんが机を巻き込み吹き飛ばされる番だった。

「っ、うーたん!」

 慌てる俺に応えるように、壁にもたれかかりながら立ち上がったうーたんはヒラヒラと手を振る。ケホケホと呼吸を整えるような咳を数回。

「あのさーあ、」

 間延びした声を発して、うーたんは指先にオレンジ色の髪ゴムを引っかけひとつにくくっていた髪を解いた。乱れていたそれを手櫛で整え、きっちりときつく縛り直す。

「目障りなんだよ、お前」
「……それはお前もだろォが」
「ははっ、お前からみたらそうかもね」

 ケラケラと乾いた笑みをこぼしてワイシャツの袖をまくるうーたんの表情は、ぞっとするほど冷たい。
 いつもと違う表情に、いつもと違う口調に、いつもと違う声色。これは本当にうーたんなのかと、少しだけ疑ってしまいそうになる。

「めーちゃんのこと、あんなんにしてくれちゃってさぁ……俺だって、我慢してたってぇのによォ」
「あァ?」
「だから、お前は」

――無傷でなんて、帰してやらない。

 オレンジ色の前髪の向こうで、うーたんの瞳がギラリと光った。













 そこからは、もう、拳と拳のぶつけ合いだった。絶え間なく響いてくる痛々しい音に顔を顰めながらも、俺は目を逸らすことができない。
 本当はその間に逃げるべきだったんだろう。けれど俺は、足がすくんでしまって立ち上がることすらできなかった。

――うーたん、マジで不良だったんだ……

 今更のようにそんなことを思ったことをかろうじて覚えている。
 2人の殴り合いがようやく終わったのは、廊下の先からバタバタと複数人の足音が聞こえてきたときのことだった。

「やっ、……っと! 援軍が来たかぁ」

 と、の部分でまたガッとワタルを殴りつけると、うーたんはその場にうずくまったワタルから数歩距離を取った。
 自分もかわしきれずにいくらか負傷したらしい。頬に出来た内出血のような痣を擦ってから、うーたんは切れてしまった唇の血を舐めとった。

「んじゃ。これからじっくり、風紀室で話し合おっかぁ」
「クソ……かったりィな」

 ニヤリと口角をあげるうーたんに、のそりと立ち上がったワタルはぐしゃりと顔を歪めた。余裕そうなうーたんとは正反対に、立っているのもやっとといった風である。どうやら喧嘩の実力ではうーたんの方が上らしい。ワタルのほうがよっぽどがっしりとしていて強そうだというのに、なんだかちょっと意外だ。

 ワタルは腹部をかばいながらうーたんを見て、徐々に足音の近付きつつある廊下の方を見て、それからチラと俺を見た。鋭い眼光に射すくめられ、反射的にうーたんのパーカーに爪を立てる。
 するとワタルは、無様に床に座り込んだままの俺を見てどう思ったのか。きゅっと眉をしかめて、なんとも形容しがたい表情を浮かべた。

「……おい、ヤギ」
「っ、ひ!」

 低い声で呼びかけられれば肩が跳ねた。うーたんの登場によって陰を潜めていた恐怖心がたちまち顔を覗かせる。
 怖い、怖い、怖い。さっきワタルにされたことの数々が鮮明に脳裏に蘇る。今すぐにでも視線を外したいくらいだった。だというのに、

「ワ、タル……」

 俺が「ヤギ」ならそれでいいと言われたこと。今はその意味が解らなくても、後から少しだけでも解ってくれたならそれでいいと言われたこと。愛してると何度も繰り返されたこと。
 それから――俺が泣く度に、ワタルが動揺するような気配を見せたこと。
 そういったささいな出来事の積み重ねのせいで、俺はワタルから視線を逸らせずにいた。

 俺の喉から絞り出された声は震えている。ワタルはそれに不快そうに舌打ちした後、ふいと自分から視線を外した。あまりにあっさりとしたそれに、どこかで意外だと思っている自分がいる。

 ……てっきり、何か言われるかと思った。
 肩透かしを食らったような気分で、俺はワタルが体を引きずるように廊下へ出るのをぼんやり眺めていた。開け放たれたままのドアをくぐる直前。ワタルが肩越しにこちらを振り返ったような気がしたのは、気のせい、だろうか。

「おい! アイツ、絶対逃がすな」

 廊下へ出た途端、ワタルはどこにそんな元気があったのか、うーたん曰く「援軍」が来る方とは反対方向へと走り出した。うーたんはそれを見て、慌てて廊下へ顔を出して指示をする。
 はいっと威勢の良い返事が聞こえて、ドタバタと数人の風紀委員が廊下を駆けて行った。風紀委員の腕章がチラリと視界を掠める。はためくそれを眺めて、俺は「捕まらないといいなぁ」なんてことを考えた。





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