02






「今度噛んだら、容赦しねェぞ」

 そんな言葉と共に再びキスが降ってくる。ワタルはぐっと俺の顎を片手で掴むと強制的に口を開けさせ、そこから舌を差し込んだ。

「んぅ、ふっむ……!」
「…………」
「っふぁ、んん……っは、あッ」

 上あごを、頬の内側を、歯列を、舌の裏を。遠慮という言葉を知らぬかのようにワタルの舌が強引に暴き立てていく。
 ワタルの動きは先程までよりも性急だった。俺が抵抗していることで焦りを覚えているのかもしれない。俺の動きを制御しようとのしかかってくる力も強くなっている。

 これはもう、巻き込むどうこういうレベルの問題じゃない。キスの合間に必死に酸素を吸い込みながらこっそりとポケットの携帯へと手を伸ばす。誰でもいい――誰か、ワタルに太刀打ちできるような誰かを呼ぼうと思ったのだ。
 だが、ほぼ上半身が密着しているような状態のワタルに、それがバレない筈が無い。

「――オイ、てめェ」
「あ、ちょっ!」

 ストラップに指をひっかけてずるりと引き出したところであっさりと携帯を取り上げられてしまう。ワタルは、取り上げたものの正体を知るとひどく不愉快そうに顔を歪めた。

「チッ」

 舌打ちと共にギシリと二つ折りのそれを握りしめると、事もなげに俺の携帯を教室の隅へと放り投げる。がしゃん。床に落下する音が絶望の音色のように聞こえた。
 俺の顎を掴んでいたワタルの手が、スッと自然な動作で首元へ下りる。

「変なマネすんなって、言ったよなァ?」

 咎める声とほぼ同時に、グッと首に回された指へ力が込められた。お前が言ったのは「大人しくしろ」と「噛むな」の二つだけだろう。屁理屈っぽい言い訳を考えるも、それは口から発せられることは無い。
 せめてもの抵抗にと唯一自由になる視線で睨みあげれば、首を絞める手が増えた。

「っぐ、う……ッ」

 ギリギリと気道を狭めにかかってくるワタルの手。酸素不足にあえぐ俺を見下ろすワタルの顔には、あからさまな優越感が浮かんでいた。

 ……なんで俺、こんなことされているんだろう。なにか悪いことをしてしまっただろうか。否、していない。むしろ、俺がこいつになにをしたっていうんだ。
 急激にこの理不尽な現状に対する憤りの念が湧きあがってくる。震える手を持ち上げて、首にかけられたワタルの手にがりっと爪を立てた。

「ワタ、ル……っ!」

 ぎりぎりと、精一杯の力で冷たい手の甲に爪痕を残す俺。段々と苦しさで視界が涙に滲んでくる。目尻から溢れ出した雫がつうっと頬を伝うのを拭うこともできない。自分の無力さが嫌になった。

 その時、不意にワタルがハッとしたような顔をした。慌てたように首に回されていた手が離される。
 ようやくまともに流れ込んでくるようになってきた酸素を肺一杯に取り入れようと大きく呼吸をしたらむせ込んだ。

「っ、かはッ……げほ、ゲホゲホッ」

 ゆっくりと俺の体の上からワタルの体重が退けられる。一体どんな心境の変化なのだろう。突然の行動を不審に思っているとワタルの手がこちらへ伸びてきた。今度は何をされるのかと思わず身構えるも、予想外にも、冷たい指先はそっと俺の目尻を撫でてすぐに離れていく。

「チッ……泣いてんじゃねェよ」

 濡れた指先をシャツで拭う姿に、涙をぬぐってくれたのだと気付いた。泣かせてるのはお前だろうと言いかけて、その言葉をギリギリのところで飲み込む。
 上体を起こせば容赦なく締められた首が痛んだ。これはもしかしなくとも痣になっているだろう。未だに違和感の伴うそこを撫でていると、ワタルがその手を取り上げた。

「なに……」

 びくりと肩を跳ねさせる俺に、まるで「大丈夫だ」とでも伝えるようにワタルはそっと視線を合わせてきた。至近距離で、ワタルがゆっくりと瞬きする。
 目元に影を落とす睫毛を見て「あ、睫毛はやっぱり黒なんだな」なんてことを考えていると、ふっと顔に影が落ちた。

 もはや何度目かも解らない、ワタルからのキス。けれどそれは、今までのものとは違ってどこか優しかった。
 先程までが自分自身の快楽を追うだけのものだとすれば、今度のは対照的に俺に快楽を与える為のもののようだった。ぬるりと歯列をなぞられ舌をぢゅっと吸われれば、ゾワリとしたものが背筋を這いずる。

――ワタルは、そんな風に動揺した俺の隙をついてきた

「ん、ふぅ……っあ、ちょ!」

 結び目に指を引っ掛けたかと思うと、あっという間にネクタイが引き抜かれる。シュルリ、乾いた衣擦れの音に、快楽の波から一気に現実に引き戻された。
 我に返り、顔を背けることでしつこい口づけから逃げる。ワタルの下から抜け出そうと胸板を押し返したが、ワタルはその二本の腕をいともたやすく片手でまとめ上げてしまった。
 どうするのかと焦る俺の目の前で、不健康に細い手首へとネクタイが巻かれる。

「おいっ、ワタル! お前、なにして……」
「見て解んねェのかよ」
「解るけど解りたくねェんだよ!!」

 そうこうしているうちに、ワタルは口と片手だけで器用にネクタイを縛り上げてしまった。抑える手が外れたところで何とか拘束を外そうと暴れてみるものの、ネクタイは思いの外がっちりと結ばれている。ただギチギチと俺の手首を痛めるだけであった。
 ワタルはそんな俺を鼻で笑うと、そのままワイシャツのボタンに右手を伸ばす。左手は、ネクタイで拘束された手首に置いたままだ。

「ちょっ、マジでやめろって。おい!」

 腕は使えない、となると。
 咄嗟の判断で脚をばたつかせるも、ワタルは舌打ち一つと共にその足の上にどさりと腰を下ろした。ぐぐっと体重をかけられてしまえば、もう俺の微々たる力ではどうにもなりそうにない。

 ことわざでは「窮鼠、猫を噛む」なんて言葉もあるけれど。狼に襲われたヤギは、ピンチのときに狼に噛みつくことがあるのだろうか。
 いや、きっと、ないだろうな。思っているうちにシャツのボタンはどんどん外されていく。本当、器用なやつだ。何もこんな場面で発揮しなくてもいいのにと嫌になる。

「――どうして、」

 すり、と露わになった肌を撫でられると、あまりに冷たい手にぴくりと体が跳ねた。

「どうして、俺なんだよ」
「なにがだよ」
「なんで、俺なんか……こんな、変だろうが」

 男同士なのに、とか細く付け足した声は、震えていたと思う。ワタルは、そんなことは気にも留めずにすりすりと腹を撫でまわし続けた。

「別に……どうでもいい」
「どうでもいいって、何が」
「男だろうが、女だろうが。俺はどうでもいいんだよ」

 俺はどうでもよくない。言い返す隙はなかった。

「俺は、お前が『ヤギ』なら性別だって、外見も性格だってどうでもいい」
「はぁ……?」
「まァ、それがヤギだっつう時点で、性格がサイテーだってこたァ無いだろうけどな」
「……意味、解んねぇよ」
「解らなくていい」

 言っていることはひどく自分勝手だし、やっていることだってとてもじゃないが「良い人」のそれとは言えない。

「後からちょっとでも解ってくれりゃあ、ンなモン、今はどうでも良い」

 だというのに、そう言うワタルの声が優しすぎて、俺はどうしたらいいか解らなかった。
 返す言葉を求めるようにパクパクと開閉する俺の口をワタルが塞ぐ。なんだか、キスされることを当たり前に受け入れつつある自分がひどく嫌になった。





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