01






 人けのない薄暗い廊下に、バタバタという足音と荒い息遣いが響く。

「はっ……はあっ……っは、ッッ!」

 肩で息を吸ったら、乾ききった喉に直接空気が触れて盛大にむせ込んだ。げほげほと咳を繰り返し、半ば呼吸困難状態に陥りながらも、俺は足を動かすのをやめない。
 視界が、息苦しさによって生まれる涙で滲む。額からはおびただしい量の汗が噴きだして、こめかみを通り顎へと伝っていた。

 普段、体育の授業以外じゃ全く運動をしないせいで怠けきった体はもはや限界だった。それでも俺は、鉛のような足を一歩、また一歩と根性だけで前へと進める。
 それをあざ笑うかのように、すぐ後ろからはカツン、カツン、とゆったりとした足音が俺を追いかけてきていた。

「ヤギィ、お前、逃げられるとでも思ってンのか?」

 この俺から、と続けてワタルはケラケラと笑う。心底愉快そうな声に、俺はギリと奥歯を噛んだ。

 まるで、最終的に捕まえることを前提としたうえで、あえて俺を逃がしているかのような。そんな余裕が、ワタルの声色からは見てとれた。
 その証拠に、ワタルは走る俺を大股で歩きながら追ってくる。

「……馬鹿に、しやがって……ッ」

 そういう問題ではないことは承知の上で、途切れ途切れな息に混ぜて吐きだした。
 もはや、酷使しきったこの両足で走ることは難しい。ずるずると全身を引きずるように進みながら、ぐいと額の汗を拭う。

 ワタルと接触したあの場所からここまで。とりあえず逃げなければという考えだけで、来た道を引き返すように俺は走ってきた。このまま進み続ければ、たぶん、まだ西崎のいるだろう保健室に辿り着くはず。

――けれど、それでいいのだろうか
 先程西崎の告白を断った身でありながら西崎を頼っていいのか、これ以上巻き込んでいいものなのか。僅かな迷いが、俺の足取りを遅らせる。

 それが、いけなかった。

「なァ、ヤギィ?」

 すぐ後ろから聞こえた声。ハッとして振り返れば、あと数メートルというところにまで迫ったワタルがこちらをじっと見つめていた。
 いつの間に、こんな近くまで。まったく気配がしなかった。

「さっき、俺は言ったよなァ?」
「……」
「俺はそんなに心の広ぇ男じゃねぇ、ってよォ」

 確かに、そんなことを言っていた。けれど、だからそれがどうしたというのだろう。
 睨みつけるように見返せば、ワタルはニヤリと唇を歪めるようにして笑ってみせた。どこか狂気のようなものが感じられるその表情に、ぞくりと背筋を冷たいものが走る。

「お前、俺が気付かないとでも思ってんのか?」
「……なにが、だよ」
「言っとくけどな、」

 かつん、と硬質な音が響く。ワタルが一歩踏み出した音だ。
 どうしてお前、外靴のままなんだよとか、それであちこち歩き回っていたのかとか、気になることは色々あるけれど。今はそれどころじゃあない。

「お前があの関西弁のトコに行こうとしてることぐれぇ、とっくの昔に解ってンだからな」
「――ッ?!」

 驚愕に目を見開く。思わず「どうして」と問いかけてしまいそうになったとき、ぐん、とワタルが一気に残りの距離を埋めてきた。
 グッとネクタイを掴まれ、顔を引き寄せられる。ピントも合わないような近さにワタルの金髪が映り込んだ。
 その鮮やかさが、目に痛い。そう思うのもつかの間、

「――ふざけるのも、大概にしろよ」

 囁くようにそう言ったかと思うと、ワタルは俺のネクタイを掴んだまま、すぐそばの教室のドアをガラリと開けた。
 ドンと胸板を押される。まるで子猫でも放るかのような動作で、俺は背中から教室内に突き飛ばされた。

 乳酸の溜まりきった足では、突然のことに対処しきれるはずもない。押された勢いのまま無様に机にぶつかる。

「いっ、てぇ……」

 机の角に打ち付けた腰が痛い。海老ぞりのような体勢で痛みにもだえていると、カツカツと靴音を響かせながらワタルが教室内に入ってきた。

「お前な……いきなり突き飛ばすんじゃねぇよ」

 大概にしろはこっちの台詞だと訴えるも、返事はない。ワタルは無言のまま俺の前に立つと、何の前触れもなく腰を押さえていた俺の腕を取り上げた。
 ひんやりとした、冷たい指先。今の状況も忘れて心配になってしまうほど低い体温に、ぶるりと身を震わせる。

 だがそれも一瞬のこと。
 突如、握られた手首にグッと力を加えられて俺は全身を強張らせた。

「いっ……つ、う」
「お前が悪ィんだぞ、ヤギ」
「……え……?」

 どこか苦しそうな声に、俺は何を言われたのかがしばらく理解できなかった。

「全部全部、お前が悪ィ。お前が、俺を見ねェから。お前は俺のものなのに、他の男ばっかに気ィ取られやがって」
「なに、言って……」

 戸惑う俺をよそに、「だから」とワタルは恨めしげな眼をこちらへ向けた。

「鬼ごっこは、もう終わりだ」

 ギラリ。長い金髪の向こう側で、鋭い三白眼が光る。
 射抜くようなそれに俺が息を呑んだとき、緩慢な動きでワタルが俺の首元へ顔を寄せてきた。ぎりりと、手首へより一層強い力が加えられて、俺はただ揺れる金髪を呆然と眺めるしかできない。

 がりっ、と。
 そんな効果音と共に首筋に激痛が走ったのは、瞬き一つを挟んだのちのことだった。

「ぐっ、あ……ッ」

 噛まれた。そう気付いたのは、ゆっくりと顔を離したワタルの唇が赤いもので濡れているのを目にしたときのことである。
 ワタルは、十中八九俺の血であろうそれをペロリと舌で舐め取った。そして、まだ少し赤の残る唇が迫る、直前。

「離、せッ……!」

 空いたもう片方の手でワタルの顔を覆い、俺はグイと押し退けた。ワタルの上体が揺らぐ。一歩二歩とたたらを踏んだワタルは、そのまま体勢を崩した。
 その反動で、片腕を掴まれていたままだった俺もバランスを崩す。寄りかかっていた机もろとも床に投げ出された。
 ガッシャーンと、大きな物音が教室内に響く。

「――っ、は」

 したたかに背を打ち付け、息が出来ない。
 ケホケホと咽ている間に、ワタルのほうが先に体勢を立て直したらしい。腹の上にまたがるような形でのしかかられる。

「ふざけやがって、コノヤロウ」
「そっ、れは……こっちの、」

 セリフだ、と言葉を紡ぐより早く、今度こそ唇を塞がれた。
 かみつくようなキス。ぬるりとした感触が唇の表面をなぞっていく。
 初めて味わう感触に、衝撃のあまり身じろぎひとつできなかった。
 ぬるぬるとしたそれは、堅く閉ざされた俺の唇を二往復すると離れて行く。けれど、これだけじゃ終わらない。

「くち、」

 あけろ、と絶対的な圧力を伴って発せられた三文字に、俺はふるふると首を横に振った。誰がお前の言いなりになるものか、という、そんなくだらないプライドから。

 ワタルはチッと舌打ちすると、また口づけてくる。触れて、舐めて、上下の唇で食むようにして、何度も。何度も。
 その内、ただでさえ息切れしていた俺は息苦しくなってくる。

――このままじゃ、

 逃げるどうこう以前に、酸素不足で、しぬ。
 本能的な危機回避能力のせいだろうか。俺はあまりの苦しさに耐えかねて、何も考えずに薄く唇を開けた。

「っ、はあっ……っん?! ふっ、んん……!」

 そのわずかな隙間を狙って、ワタルは舌をねじ込んできた。先程は皮膚で感じたぬるぬるした感触を、今度は粘膜から直接知らされる。
 得体の知れないなにかが、触れ合った舌先から身体中に広がる。息苦しさのせいか、はたまた別の理由からか。徐々に頭が熱に浮かされたようになった。




 それが、なんだか。
――こわい、と感じた





 がりっ、と。
 先程とは逆に、今度は俺がワタルを噛む番だった。

「いッ……てェな、クソ」

 ぱたぱたと唇から血を滴らせながら、顔をしかめるワタル。下唇にできたその傷痕を指先でなぞり、俺の顔を覗き込むように見ると、ひどく不愉快そうに血を拭った。

「思いっきり噛みやがったな、てめェ」
「そ、れは……っお前も、同じ、だろ」

 ようやく満足に息を吸えるようになったことで少し余裕が生まれ、憎まれ口を叩き返す。すると、それが気に食わなかったらしい。ワタルはただでさえ凶悪な顔を更に歪める。
 不意に、ワイシャツの襟もとをぐいと掴まれた。首が締まる。苦しい。思うよりも早く、ワタルは右拳を持ち上げて――振り下ろした。

 左頬に、衝撃。
 殴られた。ただそれだけの事実に、言い様のないショックを覚えた。

「大人しくしてろ。そうしたら――」

 口の中を切ったらしく、舌先に血の味が滲む。ぐっと顔を近付けたワタルが、至近距離で、わざとらしいほどやさしくほほえんだ。

「ちったァ優しくしてやるよ」

 今までされてきたストーカー行為の数々よりも、突き飛ばされたことよりも、殴られたことよりも。
 それよりも何よりも、今目の前で笑うワタルが、ただただ怖かった。





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