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俺の、なんなのだろう。
内心で首を傾げたとき、不意に視界にとあるものが映った。
「……あ、」
俺と西崎が立つすぐ横の、二年生らしき生徒が四人が囲んだ丸テーブル。クロスの引かれたその上には、まだ食べかけなのだろう料理が湯気を立てたままの状態で残されている。
そこまでは、何の変哲もない「食堂」に相応しい光景だ。だから別にどうしたという訳でもない。
問題は、料理の皿と一緒に置かれた、水の入ったコップだ。
『お前が水ぶちまけたアレ以来――』
先ほどのシュウの声が脳裏に蘇る。
その行動が正しいか否かなんて、考えている暇は無かった。
「西崎」
「うん?」
「先に謝っとく。悪い」
「へ――」
一言だけ、対峙する西崎に断りを入れる。
手を伸ばし、しっかりとコップを掴んで。そして対峙する西崎をまっすぐに睨み、その中身を思い切りぶっかけるまでは、二秒とかからなかったと思う。
――ばしゃっ、
きゃあっと、その瞬間を目撃したらしい誰かが悲鳴を上げた。
きゃあってなんだよ、きゃあって。男のクセに気色悪ィ声出してんじゃねえ。
そんなことを考えながら、俺は呆気に取られて立ち尽くす西崎に向かって口を開いた。
「ふざけんなよ! お前、俺のこと好きって言ったじゃねえか!」
「……は、い?」
「愛してるって、俺だけだって言ってたじゃねえかよ!」
「いや、あの、めーちゃん……?」
なにがなんだか解らない。そんな風な西崎の声をかき消すように、俺は間を置かずに続ける。
「なのに、あの一年を選ぶのか? 俺のことは捨てんのかよ?!」
「いや、捨てるって、なんの話なん?」
「とぼけんな! お前昨日、あの一年の部屋に泊まったんだろ? 朝出てくるとこを見たってやつが大勢いんだよ!!!」
浮気しておいてなにしらばっくれてんだよ、と。半ば説明口調なことに苦笑しそうになるのを堪えて大声で叫んだ。
そこで、ようやく西崎は俺の意図に気付いたらしい。ハッとしたように僅かに目を見開く。
しかしそれもほんの一瞬のこと。
すぐさま西崎はけわしい顔を作って口を開いた。
「急に水ぶっかけてきたと思たら、なんやの? 信じられへんのはこっちやわ」
「なにがだよ」
「そんなもん、全部や全部! あの一年っちゅうんが誰のことなんか知らんけど、俺は昨日誰の部屋にも泊まっとらへんわ。そもそも俺がテスト期間中に遊んでられるほど頭良うないのはお前が一番知っとるやろ?!」
「知らねぇよ! 成績よりもその一年のが大事だったんじゃねえの?」
「んなわけあるかいな! 俺にはお前だけやっていつも言うとるやんけ!」
「だから、それが信じられないって言ってんだよ」
「なんでや!」
「目撃者がいるからだよ!」
お前よりも、そいつのほうがよっぽど信用できる。
憎々しげにそう吐きだせば、西崎ははーっと大きく溜息を吐いた。弱ったなと言わんばりに額に手を当てるその様子は、とてもじゃないが演技とは思えないだろう。
――そう、演技
俺たちが今やっているのは、「恋人の浮気疑惑で痴話げんかをするカップル」の演技だ。
別に単なるもめごとでも良かったんだろう。けど、他人の色恋沙汰に興味津々な生徒ばかりなこの学園じゃ、恋愛ごと――特に、ドロドロとした三角関係のようなことの方が興味を引くと思ったのである。
そしてそれは、案の定というか、大正解だったらしい。
先程まで理一と佐藤灯里のバトルに釘付けだった群衆の視線は、今やほとんどがこちらへ向いていた。
更に言うなら、あれだけギャアギャアと騒いでいた佐藤灯里本人でさえ、何事かと群衆の向こうからこちらを窺っている。
……よし、この調子だ。
「そもそも、その目撃者って誰やねん? 大勢いるとか言うとったけど、そいつらの名前、全員分あげられるんかいな」
「そ、れは……」
「ほれみい、証拠なんてどこにもないやんけ。誰が言うたか知らんけど、そいつ嘘ついとんのとちゃうの?」
「なんでそんな嘘つく必要があんだよ」
「んなもん俺は知らんわ。まあ大方、俺と付き合うとるお前のことが憎かったとかちゃうの?」
ほら、俺ってモテモテやから。そう言って、西崎はおどけたように肩を竦めてみせる。
ニイと唇の端を吊り上げた表情は、確かにそういうことになっても仕方ないなと思ってしまえる程度には魅力的だった。
「……そんなこと言って、ごまかそうとしたって無駄だからな」
「別に、ごまかすもなにも。ホントのことを言うとるだけやろ」
話は終わりだと背を向ける西崎。俺はその腕をぐいと引いて――チラリと、横目で理一に合図を送る。
目が合った一瞬の後。
今のうちにという思いが伝わるように食堂のドアへ視線を走らせてから、俺は「まだなんか用かいな」とこちらを振り返った西崎を睨みつける。
「逃げんじゃねえよ!」
――逃げろ、理一。今のうちに
そのメッセージは、恐らく伝わったと思う。
何? 痴話喧嘩? 浮気? ていうかアレ誰? エトセトラ、エトセトラ。
ざわめきを形成する雑多な囁き声に混じって、カタリと椅子を引く小さな音がした。
「もう、ええわ。これがいい機会やわ。せっかくやから、きっちりしっかり話し合わん? ……前々から、ちょいちょいすれちがっとったやろ。俺たち」
「……そうだな、その方がお互いスッキリするだろ」
色々と、と含みを持たせて言いつつ、俺は視界の端で理一が食堂を抜け出したのを確認した。音も立てずに静かに閉じるドア。
それが、茶番終了の合図。
「俺の部屋でええ?」
「別にどこでもいい。静かに話しさえできればな」
「せやったら、ここ以外ならどこでもええやん」
ちょっとだけさみしそうに笑って、西崎は「ほな」と俺の腕を振りほどき、一歩踏み出す。
「行こか」
頷き返して、俺も後を追う。
「あれっ、理一?!」
どこ行ったんだ?! という慌てたような佐藤灯里の声がしたのは、俺たちが食堂のドアをくぐった直後のことだった。
気付くの遅すぎワロタ。
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