06
茫然自失。
まさにそんな顔をして、頭から思い切り水をかぶってしまった斎藤さくらくんは、こちらを見ていた。
なんで、と。震える唇がかすかにそうつむぐ。……そりゃそうだ。誰だって、名前呼ばれて振り返ったところで急に水ぶっかけられたりしたら、なんでなんだって言いたくもなる。
苦笑したとき、一部始終を見ていたらしい誰かが「きゃーっ」と可愛くない声で可愛らしい悲鳴を上げた。それに食堂内がざわつき視線が集まってきたところで、俺は驚いたような申し訳なさそうな、とにかくそんな顔を浮かべてみせる。
――さて、演技開始です。
「うっわ、ごめん! 俺、前見てなくてつまづいちゃって!」
わざとらしいその説明はもちろん嘘。でも、嘘をホントにさせるのが今の俺のお仕事だ。
「うわっ、ほんっとうにごめん! やべぇどうしよう!」
「……あの、」
「どうしようこのまんまじゃ風邪引いちゃうよねどうしよう!!」
斎藤くんの声をかき消しながらおろおろしまくる俺。とりあえず慌てたふりをしてハンドタオルを取り出すと、それで斎藤くんの頭に乗せて水を拭き取る――ふりをしながら、斎藤くんにそっとささやいた。
「逃がしたげる」
「……え?」
「だから、調子合わせて」
しゃがみこむことで座っている斎藤くんに視線を合わせて、にんまりと笑ってみせる。きっと今の俺はあくどい顔をしていることだろう……いや、それでいいんだけどさ。
わしゃわしゃと一通り頭をふいたところで、一瞬前まで理一にメロメロだった佐藤灯里が騒ぎを聞き付けて振り向いた。その目が見開いて、薄桃色の唇が何かを叫ぼうと息を吸う。
だけど、そうはさせない。
「あ――」
「どうしよう! 中村、こういうときどうしたらいい?!」
あーっ! とか、多分そんな感じに叫ぼうとした佐藤灯里の声に思いっきり被せて、俺は背後のシュウに問い掛けた。名字呼びなのは、なにがなんでも名前呼びをしようとするらしい佐藤灯里対策である。
「お前、いくらなんでも慌てすぎだろう。少しは落ち着いたらどうなんだ」
「せんぱ、」
「いやだって、落ち着くとかどう考えても無理だし!」
突然の見知った人間の登場に、思わず呼び掛けかけてしまった斎藤くんの声も、シュウへの返事で誤魔化した。ごめんね、あとでシュウとたくさん話していいからさ。今だけは知らない人のふりしててクダサイ。
「確か、保健室に着替えのシャツがあると聞いたことがあるぞ」
「マジで!」
「ああ」
脚本通りに話を進めたところで、じゃあ、と斎藤くんを振り返る。
「ほんとごめんな。保健室で着替えとか貸してくれるらしいから、行こ?」
「え、あ、えっと」
「な?」
うんって言え。そんな念を滲ませながらごり押しする。斎藤くんは、俺の意図を察してくれたのか、しばらくの後に力なくこくりと頷いた。
「そんじゃ、中村」
「ああ」
やりとりの末、あらかじめ決めてあった通りに中村が斎藤くんをエスコートしていく。二人がある程度離れたところで「それじゃ」と、俺は、あまりにも早過ぎる展開に付いていけていないらしい佐藤灯里をはじめとした集団をクルリと振り返った。
「お騒がせしてすみませんでした。あの子、風邪引かせちゃまずいですし、しばらくお借りしますね」
さて、後は逃げるが勝ち。そう思って、ペコリと頭を下げてそのまま立ち去ろうとした。その時。
がしっ! と、誰か――否、佐藤灯里が俺の腕を勢いよく掴んだ。えっ、なに。ていうか、力強っ!
「お前、見たことないやつだな!」
「…………え」
「名前なんて言うんだっ?」
斎藤くんのことで何か言われるのかと思いきや、なぜか瞳をキラキラさせてそう言ってきた佐藤灯里に拍子抜けする。 えっ、斎藤くんになにしてんだよとか、そういうのじゃねぇわけ?
「いや、えっと……」
「なあっ、教えてくれよ!」
口ごもる俺、に焦れる佐藤灯里。腕を掴まれる力はなぜかどんどん強くなっていく。ああ、骨がミシッとかそんな音を立てたような気がするよ……?
ていうか。
「なあってば――」
「いや、あの、ていうかさ」
うん、さっきからすっごく気になってたんだけどさ。
「『見たことないやつだな』って、言ったけどさ。お前、全校生徒の顔と名前覚えてでもいんの?」
だったらすげぇな、と思ってもいないのに言う俺に、佐藤灯里はきょとんとした。そのブルーアイには戸惑いの色が浮かぶ。
「へ? いや……」
「あれ、ちげえの? じゃあアイツは? あそこに居るやつ」
迷いがちに否定した佐藤灯里に、さも驚いたという風に返して、俺はついと近くにいた生徒を指差してみた。上履きのラインが青だからたぶん一年生。
その後輩クンは、突然自分が引き合いに出されたことにびくりとして、それからおろおろと周囲を見渡し始めた。助けを求めるようなそれに申し訳なくなる。例えのためとは言え、ごめん。名も知らぬ後輩クンよ。
「アイツの名前は知ってる? ていうか、見たことある」
「知らないし、ない」
「じゃあその隣のやつは?」
「……知らないってば! なんなんだよ、お前! なにが言いたいんだ!!!」
俺からの度重なる問い掛けに、自分の思い通りにいかないことが腹立たしいのか、佐藤灯里は声を荒げる。まるでかんしゃくを起こした子供だ。
「いや、なにってことはないけど、ただ単純に疑問に思ったというか」
「なにがたよ!」
「んーと」
顔を真っ赤にした佐藤灯里を一瞬だけチラとみやって、続きを口にする。
「俺には見たことないって理由だけで名前聞いてきたのに、なんであいつらには興味示さないのかなー、って」
それにそもそも、なんで知らないやつだからって名前知りたがるんだよ。お前は道ですれ違うやつら全員に名前聞いてんのか? ってハナシだし。もしそんなことしてたらキリねぇし。
「そう……なの、か?」
そんなようなことを何重にもオブラートに包んで伝えれば、わかったようなわからないような声で曖昧に呟く佐藤灯里。
「そうなの」
っていうか、そういうことにしといてくんねぇと困る。そんな気持ちで無理矢理納得させれば、「そう、なのか」というか細い声と共に、佐藤灯里はようやく俺の腕から手を離してくれた。
うわっ、なんか跡になってる。どんだけ力強かったんだよ……。思わず顔をしかめそうになるのを何とかこらえて、俺は今度こそお辞儀した。
「……それじゃ、失礼します」
立ち去る間際。一瞬だけ視線の交わった理一が何か言いたそうな顔をしていたけれど、あれは一体なんだったんだろうか。
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ヤギ@meemee-yagisan
逃亡完了なう
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