09


――コツリ

 と、乾いた靴音が響く。

 誘われるように振り返れば、黄色い声の中心にいたあのオレンジ頭の男が、小柄な生徒たちの包囲網を抜けて、コツリ、コツリと俺の方に歩み寄ってきていた。
 深い夜の闇のような、濃紺のスーツの裾が翻る。グリーンのネクタイには、琥珀のような淡い茶の石がはまったタイピンがさりげなく添えられていた。

 ピンと伸びた背筋も、ゆるく後ろへ撫でつけられた髪も、一歩一歩を踏み出す足の動きでさえも。全てが洗練されていて、俺がつけているのと同じはずの仮面でさえ、彼のためだけに作られたオーダーメイド品のようであった。

 仮面の覗き穴の向こう、陰に隠れたその両目と視線が交わった、気がする。
 その人は、そのままゆっくりと俺の前まで来ると、おもむろに俺の前に跪いた。予想だにしなかった行動にギョッと目を剥く。

『手を、』

 そっと手を差し出され、口の動きだけで促される。
 でもお皿がとためらうも、ささっとやってきたウェイターさんがその皿を回収して行ってしまった。もう逃れることはできない。

(俺にどうしろっていうんだよ、ったく……)

 思い切り溜息をついてみせるも、オレンジ色のその人はさして気にする様子もない。むしろ俺の両手が空いたのを見てこれ幸いとばかりにその手を取った。

 そのまま反対の腕を腰元に回されて、人形でも操るかのような気安さでくるくると一方的なダンスを踊らされる。
 ダンスなんて生まれてこのかたまともにしたことはないというのに、リードの仕方がよっぽどいいのか、足がもつれたり、倒れこんだりすることはなかった。

 そのまま、生のオーケストラの調べに合わせて、彼に引きずられるがままにダンスを続ける。
 やがて曲がゆったりとしたものになって、徐々にステップのペースを落とすころには、俺たちは完全に会場じゅうの視線を奪っていた。

「誰なんだろう、あれ」
「宇佐木様と踊っているあの子?」
「副委員長様、恋人なんていたっけ……?」

 曲に紛れてちらほらと聞こえてくる疑問の声がまた耳に痛い。
 ダンスに誘われたときから、様々な理由で注目を集めていることには気づいていた。でもたぶん、俺とこいつが仮面を外したら、このざわめきはもっとすごいことになるんだろう。

「なあ」

 踊っている間じゅう、ずっと目が合っているような気がしていた。

「どういうつもりなんだよ」

 でも、目元を覆うだけの簡単なものなのに、この仮面ひとつのせいで、全然相手の表情を読むことができない。

「なあってば」

 じれったくなってしつこく食い下がれば、彼はようやくゆったりとしたステップを止めた。だが、手のつながりは依然として解かれない。

 彼はそのまま、フロア最奥にあったシンデレラ階段のほうへと俺を連れて行く。バルコニーへと繋がるゴージャスな作りのそれを一歩、また一歩と彼はのぼっていく。俺も半ば引っ張られるようにして後に続いた。
 そして頂上についたところで、くるりと俺を振り返る。

「名前を」

 ちいさな声だった。ともすれば、風の音にすらかき消されてしまいそうなくらい。けれど周囲がしんと静まりかえっているいま、その声はいやによく響いた。
 囁き声すら発するのがはばかられるような、そんな重々しさが、目の前の男からは発せられていた。

「名前を、呼んでくれ」

 こいねがうような響きに、俺はおもわず肩をすくめる。
 向かい合う彼の顔のほとんどは、規格化された仮面で覆われている。顔の輪郭も眉の形も、目の色もなにもわからない。その上どこかの誰かを彷彿とさせるような目を引くオレンジ色を身に纏っている。





――それでも、俺にはすぐにわかった。










「りいち、」






 少し舌足らずに呼びかける。仮面の影で、今はオレンジに隠された薄茶色の髪と同じ、あの色素の薄い瞳が優しく細められた。

 ざわり。さざ波のように、小さな動揺が階下のフロアに広がっていく。
 それをよそに、オレンジ色の彼―柏木理一は、ばさりと仮面ごとオレンジ色のウィッグを取り払った。
 あの特徴的な薄茶色の髪が露わになる。シャンデリアのキラキラした光を受けて、理一自身もキラキラと輝いているようだった。

「ハル」

 微笑みを浮かべた理一が俺に手を伸ばす。ほっそりとした指が、俺の仮面の端にかかった。
 理一はそのまま、俺の同意を得ることなく仮面をそっと外してしまう。

 しかし全てを取り払うのではなく、片端は顔につけたまま、やや仮面を傾けるような形をとった。おかげで顔半分はまだ隠されたままだ。
 おそらく、下のフロアからは俺の顔が見えないようにしてくれているのだろう。

 その陰の部分で、理一は俺に顔を寄せた。

「よかったのか、こんな人前で俺と関わって」
「それ、人前で無理やりダンスに誘ってきたお前が言うのかよ」

 理一と俺のしたことが、まるきりあの「クリスマスのジンクス」と同じなのには気づいていた。
 けど、よかったのかといま聞かれてももう遅いし、それに、理一のやることだ。なにも考えずにこんなことをしたわけではないだろう。
 なにか意図があってのことなんじゃないのだろうか。そう思ったら、抗おうという気はあまりしなかった。

 そう伝えれば、理一はちょっと困ったようにはにかんで「そうか」とつぶやいた。

「俺は、ハルなら、姿が違っても仮面をしてても、すぐにわかってくれるって信じてた」
「そりゃ、理一だし。わかるよ」

 当然だろうと即答する。いくらうーたんのような髪型になっていようとも、俺が理一とうーたんを見間違えるわけがない。

「そうか?」
「もちろん」
「……どうしてそう思う?」
「え?」

 予想外の問いかけに、一瞬返しに詰まる。どうして、と聞かれても。
 どうしてだろう? 改めて聞かれると、さっきまでごく当たり前に思えていたことが一気に難しいことのように思えてきてしまう。

 へにゃりと笑ってごまかそうとするも、笑いかけようとした先の理一が存外真剣な顔をしていて、たちまち笑い方を忘れてしまった。きちんとした答えをくれと、まっすぐな目が俺を責めるようにして見つめている。

「どうしてって、そりゃ」

 理論的なこととか明確な根拠とかは自分でもわからない。けれど、ただ一つ言えるとすれば

「理一だから、かな」

 逆にうーたんが理一の髪色をしいてたとして、それが理一じゃないとはわかっても、うーたんかどうかはわからないかもしれない。スーザンがオレンジ頭になっていて、スーザンだと気づける自信もあまりない。
 ただ、理一なら。それが理一だったら、何があっても絶対に気づける。俺の中には、そんな根拠のない自信があった。

 だから、理一だからこそわかった。
 そう繰り返そうとして、俺はようやく自分が何を言ったのかに気づく。

 ハッとして理一を見れば、驚愕に目を見開いた理一が、間抜けにも口を半開きにしていた。その頬がじわじわと朱色に染まっていくのを見ていたら、ぶわりと全身の血が沸騰しそうになる。

「いやっ、ちがっ! 今のは、そういうんじゃなくて!」

 えっと、だから、その。何にもならない言葉をおろおろと繋いでいく。
 ああ、もう、なんて言ったらいいのだろう。何を言っても苦しい言い訳にしか聞こえなかった。ぐるぐるぐるぐる。猛スピードで思考が巡る。

 仮面を外して微笑んだ理一と、今目の前にいる顔を真っ赤に染めた理一と。理一だから、なんていう無意識からの特別扱いと。階下のフロアのざわめきと、恐らくは理一の親衛隊のものだろう突き刺さるような視線の数々と。
 それから、それから――





「……える」
「え?」
「おれ、かえる」
「……は? え、ちょ、おいハル?!」

 理一の手から仮面をひったくって、しっかりと顔全体を追うように付け直す。慌てたような制止の声も周囲の視線も全て振り切って、俺はシンデレラ階段を駆け下りた。
 けど、俺はシンデレラなんていうかわいいものじゃないから、間違っても身バレにつながりそうな痕跡なんて残してやらない。

 まあ、追いかけてくる王子に当たるのが理一だとしたら、その必要も意味もないけれど。

 とにかく、俺は目の前の問題から完全に目を背けて、一目散にその場から逃げ出したのである。



(だって、こんなの、キャパオーバーだ!)










08.仮面舞踏会なう END

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