07
「少し緩くなっていますね」
腰回りが、と宮木さんの指先が俺の腰骨を撫ぜる。
「え、まじすか」
「ええ、太もものあたりも。丈は少し短くなりましたかね」
「きつくじゃなくてですか?」
「はい。それぞれ少し布が余っていますよ」
ほら、と宮木さんはスラックスの布をつまんで見せる。たしかに、こうしてみれば布が余っているのがよくわかった。
「ベルトの穴も以前よりひとつ内側になっていますし……重陽さま、随分痩せてしまいましたね?」
「えー、そうっすかねぇ」
別に元から太ってたわけでもなければ、急にやつれたわけでもないのに。丈が短くなったってのは、背が伸びたのかなって素直に嬉しいけども。
(そんなに体型変わったか?)
自分の体をぺたぺたと触ってみるも、そこまでの実感は得られなかった。
「重陽さま、三食しっかり食べていらっしゃいますか?」
「ええ、はい、まあ」
むしろ、ここに転入してきてからの方がカロリー高いメニューばっかり食べてる気がするけども。
「では、なにかお辛いことでも……?」
ちゃんと食べてるのにこれだけ布が余るようになってしまっただなんて、一体どれだけのストレスを受けているのだろう。そう言わんばかりの気遣わしげな声を投げかけられる。
「いやいやいや! 別になにも……ない、ってことはないですけど。でも、そんな辛いようなことはないですよ」
今だってものすごく運動してるわけじゃないけど、引きこもってゲームばっかしてた頃に比べれば体動かしてるし。そういうアレコレで、たぶん痩せたのではなく、多少引き締まったんじゃないだろうか。
だからそんなに心配しないでほしい。そんなようなことを慌てて言えば、宮木さんは若干不服そうながらも「そうですか」と頷いた。
「それならいいのですが……」
服をつまんでいた宮木さんの手が離れていく。ほっと一息つきかけたとき、
「重陽さま」
胸を締め付けるような低いささやき声が、俺の名前をかたち作ったかと思うと、背後から伸びてきた二本のたくましい腕が俺の体に巻き付いた。
「宮木、さん?」
幻覚かと疑ってしまいそうになるけれど、鏡には確かに間抜けな顔で立ち尽くす俺と、そんな俺に背後から抱きつく宮木さんの姿が映し出されている。
まだサイズ測るんですか? なんて冗談でも言えないくらい、鏡越しにこちらを見つめてくる宮木さんは思いつめた面持ちだった。
「しげはるさま……」
耳元で宮木さんが俺を呼ぶ。甘く切ない吐息が耳たぶに、首筋に触れる。くすぐられるような感触にぞわりと背筋が粟立った。とっさに身を捩れば、逆に拘束が強くなる。
「二木から、聞きました。重陽さまがトラブルに巻き込まれて、それがきっかけでご友人とギクシャクしてしまっていた、と」
「げ、まじか」
二木せんせー、余計なこと言わなくていいってのに。
「他にも、いくつものトラブルに巻き込まれてきたとも聞きました……そういうとき、ちゃんとあなたのそばに辛いことを『辛い』と言える相手が居たのか、そうやって頼れる相手がいたのか。それを考えるだけで――俺は、苦しいんです」
あ、と思った。
宮木さんが、俺って言った、と。
俺に息をつく隙すら与えず、宮木さんは更に続ける。
「どうして、俺はあなたの傍にいないんだろう、って。支えることができないんだろうって、どうしても、思ってしまうんです……!」
ぐっと、宮木さんの額が俺の肩に押し付けられる。その力強さに目を瞬かせた。身じろぎひとつできなくなる。そうしてじっと抱かれるままになっていると、宮木さんの体が小刻みに震えていることがわかった。
「いつか、あなたの秘書になれたら……それで、満足できると思っていたのに」
一瞬、宮木さんが泣いているのかと思った。それくらい、聞こえてきた声はかぼそく震えて濡れていた。
けど、宮木さんの顔が触れている肩のあたりに濡れた感触はないし、鏡を見てもわずかに覗き見える宮木さんの頬に涙のあとは見えない。
なんと答えたらいいのか、なんと声をかけたらいいのか。わからなくて、俺はただ案山子のようにその場に立ち尽くした。
そうして、長い沈黙ののち、先に動いたのは宮木さんの方だった。
「すみません……スーツ、皺になってしまいますね」
そっと俺から離れると、宮木さんはスーツを指先で優しく伸ばした。彼が触れていた形跡がなくなったところで、それでは、と宮木さん。
「採寸は完了しましたので、これでしっかり、私が責任を持って重陽さまのスーツを用意させていただきますね……ああ、もう着替えていただいて大丈夫ですよ」
距離を置かれた、と思った。宮木さんの一人称が元に戻ってしまったことに。
自分はもう、ただの父親の秘書に戻ったから、一個人としての「俺」がしたこと、言ったことにはもう触れてくれるな。そういうかすかな拒絶の意思さえ感じた。
「重陽さま、キッチンをお借りしても?」
「え? あ、ハイ」
「清明から美味しいコーヒー豆を預かってきたんです。せっかくなので、お淹れしますね」
にこっと営業スマイルを浮かべて、コーヒー豆が入っているとおぼしき紙袋を片手に、宮木さんはキッチンへ消えていく。がたがたと聞こえてきた食器棚を漁る音に、そういえばこの部屋、コーヒーメーカーとか置いてあったっけ、なんてぼんやりと考えた。
のろのろとスーツを脱いでいく。脱いだものを綺麗に畳んで、スーツケースに元通りしまって、セーターを着なおして……。
そんな単調な作業をしていると、どうしても、ついさっきまで背中に密着していた宮木さんの体温を思い出してしまった。
(宮木さんは、どうして……)
どうして、あんなに俺に尽くそうとしてくれるのだろう。なんであんなに、苦しそうな声を出したのだろう。考えて、真っ先に思い浮かんだのは、ワタルと直接対決したあの夜のうーたんの叫びだ。
あのときのうーたんの痛切さと、今の宮木さんの苦しそうな声とは、どこか似ている気がした。
「……まじ、かぁ」
まだそうとは決まっていないし、直接そう言われたわけでもないのに、ずしり、とさっきまで宮木さんの額が触れていた肩が重くなる。
キッチンから香ばしいコーヒーの香りが漂ってくる中、ずるずるとその場にしゃがみこむ。宮木さんの淹れてくれるコーヒーを、どんな顔をして飲んだらいいのか、今の俺にはわからなかった。
結局、そのコーヒーがいったいどんな味だったのか。カップ一杯分のコーヒーを飲み干す間に、宮木さんとどんな会話をしたのか。
……そしてそのとき、宮木さんがどんな顔をしていたのか。
それらを全く思い出せないままに、俺は、重苦しい週末を終えることとなったのだった。
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