「あ、ねぇ。あいつと打てる?」
そこそこの棋力と言う言葉と小学生と言う事もあり、誰に相手をさせたらいいものかと思案している市河に、ヒカルが尋ねる。
「え?ああ、あの子はちょっと…」
するとすかさず市河は困ったように眉を寄せた。
いかにも訳ありの顔をする市河に、ヒカルは「お願い!」と両手を合わせる。
「困ったわね…」
あの子はちょっと特別な子だから…
口に出さずともそう言ったのが聞こえて、けれどヒカルもそれで諦める訳にはいかなかった。
何せここに来たのはアキラと打つためだ。
居なければ諦めるが、居るのなら当然打ちたい。
すると、カウンターでもめている自分たちに気付いたのだろう。
「君、ここに来るのは初めてだよね?」
アキラの方がヒカルに気づいてこちらに近づいてきた。
良かった!とばかりにヒカルもアキラの傍に近寄る。
「なぁ、俺と打ってくんない?」
すかさず対局を申し込んだ。
「あ、ちょっと君…!」
市河が直ぐにヒカルを止めに入ろうとするが、
「いいよ」
アキラは以外にもあっさりとヒカルにそう返事をした。
「もぅ!アキラくんったら…」
「大丈夫だよ、市河さん。彼、打てるって言ってるし」
途中から会話が聞こえていたのか、アキラは市河を制して改めてヒカルに向き直る。
「僕は塔矢アキラ。君は?」
「俺は進藤ヒカル。六年生だ」
「同い年なんだ。僕も六年生だよ」
軽い自己紹介を交わしながらアキラに促され、いずれは二人の定位置になる席へと案内された。
なんだか少し、くすぐったい気分だ。
本当は知っている相手。けれど、初対面として挨拶を交わす。
塔矢アキラ。小学六年生。
そんなの。今更言われなくてもわかっている。知っている。
そして未来ではお互いに生涯のライバルになる相手だ。
「棋力はどれくらい?」
席に座り、アキラは並べていたらしい棋譜を片付けながらヒカルに聞いてきた。
チラリと見えたそれはどうやら彼の父である名人、塔矢行洋と打った碁らしい。
幼い頃から打っているだけあって、やはりその打ち筋は確かなものだった。
「んー、そうだなぁ…」
先程も市河にどう答えるべきか迷ったその問いに、ヒカルは再び言葉を濁す。
「だいたいでいいよ。僕も、それを聞かれると正直困るんだ」
考え込むヒカルに、そっと内緒話をするようにアキラが話しかけてきた。
確かに、アキラはアマの大会へ出ることを行洋に禁じられているため、棋力を大会などの成績で表す事は難しいだろう。
(けれど…)
ヒカルは知っている。
成績なんかで表せなくとも、アキラにはそれ以上の棋力が備わっている事を。
アマで戦う必要がない程の棋力。
つまり、プロに挑む力がアキラにはもう備わっている。
それだけ明確な棋力があるはずなのに、それをヒカルに言わないのは何かに遠慮をしているからなのか…
(ちぇっ。そんな遠慮はいらねぇぜ)
何と言っても見た目は小学生だが中身は大人のプロ棋士だ。
初心者と同じように遠慮して打たれたのでは面白く無い。
だがしかし、それをどう言えば伝えられるのか。
正直にそのままを言った所できっと信じては貰えないだろう。
頭は大丈夫かと疑われるのが落ちだ。
だからと言ってプロと同じくらいの棋力…と言えばきっと師匠は誰だと言う話になるだろう。
それは困る。答えられない。
ヒカルが師匠と呼ぶ人物は、この世に存在さえしていないのだ。
話した所でこちらも真面目には信じては貰えないだろう。
(あ、でも…)
師匠のもうひとつの名なら、目標として胸を張って言える。
「そうだな。なら、本因坊秀策にとどくくらい、かな」
少しの冗談を交えて、けれど真剣な気持ちでヒカルはアキラにそう告げた。
しかし言ってはみたものの、口にしている途中で自分でも嘘臭いなと思ってしまう。
案の定、アキラはキョトンとして目を大きく開き、それからおかしそうに口元に手を当てて笑った。
「そう。秀策にとどくらいなんだ」
それでもヒカルの言葉に便乗してくれるようで、「それならとても強いね」と話を繋げてくれた。
「ああ。強いぜ?」
「ふうん」
クックッと肩を震わせてアキラがまた笑う。
完全に秀策云々はヒカルの冗談だと思われているようだ。
そりゃ、自分がアキラの立場だったなら同じように笑ってしまうだろう。
同い年の子供が、秀策にとどくとまで豪語するのだ。
身の程を知らないやつだと、そんなふうに見られたかも知れない。
だけどもヒカルからすればそれは本気の言葉だ。
本気でいつかは秀策に追い付くつもりでいるし、神の一手を極めると心に決めている。
「だからさ、互戦で勝負しねぇ?」
それでも、簡単に信じて貰えるとは思っていない。
だったら、後はもう言葉より実力勝負だ。
何よりも碁は打たなければ始まらない。
強いのか、弱いのか。それさえも打ってみなければ分からない。
言葉より強い意思が、碁盤の上にはある。
「打とうぜ、塔矢」
互戦で。
誘えばアキラは、そうだねと頷いた。
「でも秀策ほどの腕なら、むしろ僕の方が置石を置かなくちゃ」
「なんだったら置くか?」
「…冗談だろう?」
「ああ、冗談だよ」
笑って舌を出せば、アキラはまたおかしそうに笑った。
屈託のない笑顔。
年相応な、可愛らしい笑顔だ。
(そう言えば俺、こんなに笑う塔矢をみたことってあったっけ?)
ふと、思った。
対局に集中するために深呼吸をするアキラの顔をジッと見つめ、ヒカルは考える。
自分の前で屈託なく笑うアキラの記憶を探そうとした。
けれど…
それを考えた途端になぜかドクンと胸が大きく脈を打った。
(なんだ?)
痛い。痛い。
ジクジクとした痛みが胸を襲う。
どうしたんだろう。
アキラの笑顔が、ヒカルの胸をひどく締め付けた。
そうして気づく。
ヒカルは、アキラのこんな無邪気な笑顔を見たことが無いのだと言う事に…
(そうか…俺…)
ヒカルの知るアキラの顔は、ライバルとして向けられる厳しい顔ばかりだ。
そう。出会った瞬間から、自分とアキラはライバルとして存在していた。
だから、知らない。
こんなふうに無邪気に笑うアキラを、ヒカルは知らない。
自分に出会うまでは、純粋に棋士への道をひとりで歩んでいたはずのアキラ。
恐れを知らず、ただ真っ直ぐにアキラの父であり師匠でもある行洋の後を追っていこうとしていた。
その足を止めさせたのは誰だ。
笑顔よりも厳しい顔ばかりにさせたのは、いったい誰だ。
(俺が、この笑顔を奪った…?)
ドクンとまた、胸が痛んだ。
そうだ。ヒカルが目の前に現れてから、アキラはこんなふうに無邪気には笑わなくなった。
(塔矢…)
ヒカルは知らない。
こんなふうに笑うアキラを知らない。
唯一知っている笑い顔は、どことなく困ったようにはにかむ、そんな顔しかヒカルは知らない。
いつもアキラはどこかで感情を抑えている。
ヒカルは、アキラはきっと昔からそうなのだろうとどこかで思い込んでいた。
小さな頃から、アキラは笑うことに慣れていないのだろうと、勝手に。
けれどもそれは違う。
違うのだと、知った。
(だとしたら、ここで俺とまた打ったら、やっぱりこの笑顔は消えちゃうのか…?)
もしかしたら自分がまた、アキラから笑顔を奪ってしまう事になるのか…
想像した途端に、ヒカルは酷い罪悪感に支配された。
同時に、この笑顔を失いたくないと切に願った。
そうだ。自分に会わなければ、もしかしたらアキラは今もこうして笑っていたのかもしれない。
ただ真っ直ぐに碁の道を進んだのかも知れない。
(佐為…、佐為…!どうしよう…。俺、どうしたら…)
ふるりと体が震えた。
いいのか。
本当にこのままアキラと打って、そして失ってしまっても構わないのか…
(そもそも俺は、この場面で塔矢と打ってもいいのか?)
それさえも疑問に思えてきた。
一度生まれた疑心暗鬼は、さらに悪い方向へと連鎖を開始する。
本当に自分は、今からアキラと対局をしてもいいのだろうか。
そうだ。本来なら、ここでアキラは佐為と対局をする。
佐為と打って、そして打ちのめされて。
そこから、佐為を追いかけるためにがむしゃらになって追いかけてきて、そして、まだ拙いヒカルの碁に追いかけていたのは幻だったのかと失望して。
それから今度はヒカルがアキラを追いかける立場に回って、そして今は、唯一無二のライバルとして同じ位置に立っている。
この一局は、いわばアキラにとってもヒカルにとっても、必要で大切な一局。
けれど…
その道筋をまた辿れば、アキラは笑わなくなる。
そして何より現実と違うのは、
(ここには佐為がいない…)
そう。この夢の中には、なぜか佐為が居ない。
ここに居るのはヒカルだけだ。
だから、アキラと打つのは…アキラから笑顔を奪うのは、ヒカルと言うことになる。
(俺は…)
急に迷いが生じた。
小学生のアキラを自分の碁で驚かしてやろうなんて簡単に考えていた事が、まるで嘘のように気持ちが迷いだす。
本当に、今ここで打ってもいいのか?
この、実にリアルな再現の夢の中で、自分は佐為の代わりにアキラと打ってしまってもいいのだろうか…
(でもそれだと現実が変わってしまう…)
それは直感でしかなかったけれど。
佐為ではなく、ヒカルが打ってしまう事で何かが変わってしまう。そんな気がした。
(止めて帰った方がいいかもしれない…)
今さら、ここまで来てしまってから帰ると言うのも失礼な話だが、けれど、もしここでヒカルがアキラと打たずに帰れば、きっとアキラはヒカルに振り回される事なく、真っ直ぐにプロの道に進むのではないだろうか…
そうだ。
自分と打たなければ、佐為とアキラが出会いさえしなければ、アキラは今の純粋な気持ちのまま棋士になることが出来る。
ここでアキラに背を向ければ、彼の笑顔は消えることなく、ただ真っ直ぐに棋士の道を…
(どうしよう…、俺…)
もしかしたらライバルの居ない世界でアキラは少しの物足りなさを感じるのかも知れない。
でも…
もし、それでアキラの笑顔が守れるのだと言うのなら…
それで、アキラが笑い続けてくれると言うのなら…
「握ってもいい?」
「え?ああ、うん」
深く思考に入り込んでいる内に、アキラが碁盤の上を綺麗に片付け終えたらしくヒカルにそう尋ねてきた。
その声にようやく我に返るが、まだ迷いは消えていない。
そうして迷っている間にも、アキラはさっさと碁笥に手を入れ白石を握った。
ヒカルも慌てて黒石の碁笥を引き寄せ、黒石を掴む。
慣れた手つきで、お互いに掴んだ石を碁盤の上に並べた。
先番はヒカル。あの日、ヒカルが佐為を連れて初めてここに来た時と同じ。
(打つのか?本当に打ってもいいのかよ、俺が…)
ひたすらに気持ちが迷う。
それでもお互いに「お願いします」と頭を下げ合えば、右手は迷うことなく碁盤の右上スミの小目へと伸びていた。




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