「なんじゃ、蔵に入っとったんか」
「ああ、うん…」
「何も壊しておらんだろうな?」
「こ、壊してねぇよ!」
一瞬、ドキリとした。けど、碁盤には触れたが他の物には触れていない…はずだ。多分。
「まぁいい。どうだ?せっかく来たんだからおやつくらいは食べていけ」
「……」
平八はそう言うと縁側に腰を下ろし、ゆっくりと碁盤を自分の側に引き寄せた。
どうやら今から打つらしい。
(碁…)
ヒカルはついそんな平八の傍に近づいた。
「どうした?」
そのままひょいと縁側に登ってきたヒカルに、平八は不思議そうに首を傾げる。
「え、いや…。じいちゃんが打つなら相手をしようかと…」
「は?」
「え…?あ、そうか…」
言ってからヒカルは気が付いた。
この頃のヒカルはまだ碁に興味など持っていなかったはずである。
平八の反応はもっともだ。
今ではここに来るたび当たり前のよう平八と碁を打っているから、今日もつい癖のようにここに座ってしまった。
(ていうか、どうも再現がリアルな夢だな…)
夢ならそこの所をもう少し曖昧にしてくれてもいいのにと思いつつ、ヒカルはどうしようかと言葉を濁す。すると、
「ふん。なんだ今度は碁でも覚えて小遣いを強請る気か?」
平八が勝手にヒカルの行動をそう解釈した。
「え…ああ、うん…」
ポリポリと後ろ頭を掻きながら、ヒカルはしばらく考えた。
どうしようか。ここで一局打ってもいいものなのだろうか…
いや、夢なら別に構わないだろう。
けれど、碁に一度も触れたことのない孫が、いきなりプロ同様(いや、実際にプロなのだが)の碁を打ち、祖父は驚いて倒れやしないだろうか…
(うーん…どうする?)
そのまま碁盤を前にして思案にくれる。
「ほれ。おやつならそこのテーブルの上にある。いいからそっちで食っとれ」
それを空腹と勘違いしたのだろう。平八はそう言うとさっさと碁盤の前からヒカルを追い出しにかかった。
うまい考えもすぐには浮かんでくる様子もなく、ヒカルはしぶしぶと頷いて居間のテーブルへと移動する。
せんべいを一枚手に取り、パリッと音を鳴らして食べ始めると、それに合わせるようにパチリ、と小気味のいい音がヒカルの耳にも届いた。
平八が碁盤に石を並べ始めたのだ。
棋譜並べだろうか。
いったいどんな棋譜を並べているのか…
(気になる…)
せんべいを口に咥えたまま、ヒカルはそっと平八の傍へと寄ってみた。
手元を覗こうと身を伸ばす。
「これ。邪魔するんじゃない。しかたない、小遣いやるから遊びに行って来い」
だがすぐに怒られてしまい、ポケットの中から皺くちゃになった千円札を出して渡されてしまった。
「え、いらな…」
「いいから、子供は外で遊んでくるみもんだ」
いらないと最後まで言わせてもらえずに今度は本格的に追い出しにかかられる。
(なんだよ、いったい…)
上がれと言ったり帰れと言ったり。
(せっかく碁が打てると思ったのに…)
そりゃ、昔は碁なんて爺さんのするものだと馬鹿にしていたヒカルだ。
けれど今は、自他共に認める碁馬鹿と言えるほど碁が好きだ。
三度の飯より碁を優先する生活を送っているヒカルにとって、目の前に碁盤があるのに打てないなんてこれほどつまらないことは無い。
それでも、打ってもいいものかどうかまだ判断に迷っていたヒカルは仕方なく貰った千円をジーンズのポケットにねじりこんで祖父の家を後にした。
帰り際にもう一度だけ蔵を見上げる。
(佐為…)
心の中で蔵に向かって名前を呼ぶが、やはりどこからもヒカルの呼びかけ応える声は聞こえてこなかった。



「さて。どこに行こうか…」
トボトボと自宅へ向かう道を歩きながら、ヒカルは途方に暮れていた。
夢が始まってからもうずいぶんと時間が経っているように思える。
それでもまだ目が覚める様子はない。
何より、どうしてこんな夢を見ているのかも分からない。
分からない事だらけで行き場もない。
(どうする…?)
このまま真っ直ぐ家に帰ってもいいが、先ほど平八が碁を打っているのを見たおかげでヒカルも打ちたくなってしまっている。
とは言え、家に帰っても今のヒカルの部屋にはまだ碁盤は無いはずだ。
夢の中なのだからどうかは分からないが、それでも随分と現実に忠実な夢であるらしい事から、部屋にはやはり碁盤は無いだろうと判断する。
となると、碁を打つにはどこか別の場所に行かなければならないだろう。
では、どこに行けばいいのか…
「あ…!」
そこでヒカルはハタと気が付いた。
「そうだ、塔矢の碁会所!!」
一瞬、河合の居るいつもの碁会所が頭の隅に浮かんだが、それよりもアキラと打ちたい気持ちが膨らんできた。
そうだ。佐為には会えなかったが、アキラのいる碁会所に行けばきっとアキラがそこにいるはずだ。
現実の通りなら、自分と同じ小学生のアキラが。
それにアキラとならば、平八のように遠慮をする必要はない。
小学6年生だが、アキラは既にプロになる実力を持っている。
当時のヒカルは石もほとんど持ったことのない初心者だったが今は違う。
(そうだ。一度くらい、佐為じゃなくて俺の実力でギャフンと言わせてやるのも面白れぇじゃん)
さらにそんな事を思い付いた。
途端になんだか楽しくて笑いがこみあげてくる。
生涯のライバルであり切磋琢磨する程にお互いの実力を認めあっているが、正直なところはアキラの持つ力強さまでほんの少しヒカルの力は足りていない。
負ける気はないが、まだアキラの方に少し分はあった。
そんなアキラの驚く顔が見てみたい。
それも、自分の打つ碁で。
「よっし!そうと決まれば行くっきゃないよな!」
企み顔でニヤリと笑い、ヒカルは自宅に向かっていた足をアキラの碁会所の方面に向け直す。
弾んだ足取りは、まさに小学生の姿そのままだった。
貰った千円で電車に飛び乗り、ガタガタと揺られながらヒカルは小学生時代のアキラをぼんやりと思い出してみた。
(そう言やあいつ、小学生の頃から制服だったよな…)
記憶の奥にある小学生時代のアキラの姿。
あの頃からアキラのおかっぱ頭は健在だ。
今は当時より髪を伸ばしているが、綺麗に黒髪であることに変わりはない。
さらさらの黒髪に、品の良い海王の制服を着たアキラ。
そう言えば思い出の中のアキラはいつも制服を着ているような気がした。
後はスーツ姿が圧倒的に多いか。
(普段着より圧倒的にスーツのイメージの方が強いよな、あいつ)
だらしのない姿のアキラなど、想像する事も出来ない。
そんな事を考えながら碁会所のあるビルの前に到着し、窓を見上げた。
(いるかな?塔矢のやつ…)
よくよく考えて見れば、佐為と一緒にこの碁会所を訪れたのはもう少し先の事だ。
(でも塔矢のことだし、いるよな?)
放課後はほとんどをここで過ごしていると聞いた記憶がある。
ならばきっと今日もいるはずだ。
「よし!行くぞ!」
決意を固めると、ヒカルは慣れた足取りでビルの中へと入って行った。
エレベーターを降り、碁会所の入り口の前に立つ。
今より何となく綺麗に見えるのは年期のせいだろうか…
(塔矢、塔矢…)
ドアのガラス越しに何となく中を覗いた。
居なければ居ないでもいいと思ったりもしたが、ここまできてなぜか気が引ける。
(いねぇのかな?)
出入り口の観葉植物なんかが邪魔をして、中が良く見えない。
仕方がない、入ってから確認しようとヒカルは一歩自動ドアに近づいた。
その時ふいに、ヒカルの中で不運が過る。
(…もし、塔矢もこの夢の中に居なかったらどうしよう…)
ギクリと体が強張った。
碁盤に宿っていなかった佐為。
明らかに、現実とは違う世界。
ここで佐為に続き、アキラまで居ないと言われてしまったら…
(だとしたら、なんて夢だよ…)
それではますます、この夢の意味が分からない。
佐為もアキラも居ない世界の夢なんて…
踏み出す一歩に、ためらいが産まれた。
不安に胸が染まる。知らず固く握った拳の爪が、手のひらに傷をつけた。
(ええい、迷っててもしょうがねぇ…!)
もしも碁会所にアキラが居なければ、早々に目覚ます方法を考えよう。
碁が打てない夢なんて、冗談ではなく我慢出来そうにない。
(居なかったら直ぐに出る!)
ヒカルはそう決めると、勢いをつけて自動ドアをくぐった。
「いらっしゃいませ…、あら」
ドアが開くと同時に、受付にいた市川が愛想よくヒカルに挨拶をかけてきた。
けれども直ぐに驚いたようにヒカルの顔を見る。
もしかして自分の事を知っているのかと一瞬期待したが、どうやらそうでは無いらしい。
「こ、こんちわ…」
ぺこりと頭を下げると、「ひとり?」と尋ねられてしまった。
覚えているのではなく、どうやら小学生がひとりで来たことに驚いているようだ。
それはそうだろう。
見知らぬ碁会所に小学生がひとりでくれば最初は驚く。事実、佐為と共にここに訪れた時も驚かれたのではなかっただろうか。
「初めてかな?」
「う、うん」
本当ならもう数えきれないほどここには通っているが、そんなことを言えるはずもない。
曖昧に頷くと、
「小学生は500円よ。棋力はどれくらい?」
当たり前だが、まるっきり初対面の対応をされ、ヒカルは少し戸惑った。
「えっと…。そこそこに打てる…かな?」
「そこそこ?ジュニアの大会に出れるくらいってところかしら?」
ヒカルの曖昧な答えに、市川も首を傾げてだいたいの目星をつけようとしてくる。
「えーと…」
ヒカルはそれにも頷けずに、困った顔で碁会所の中を見回した。
(塔矢…いねぇのかな…)
緊張したまま、いつもヒカルとアキラが座っているその席へと望みをかけて視線を向ける。
(…あ!!居るじゃん!!)
途端に顔がパッと輝いた。
(良かった!)
佐為とは違い、アキラはそこに居てくれたようだ。
ひとりで黙々と何かの棋譜を並べている。その姿に、懐かしさを感じた。
ストンと肩の力が抜けた。
居るのだと分かれば、後は一緒に打つだけだ。




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