本来なら、大会が終われば表彰式があり、そのまま解散となる場面。
教師たちも、止めに入るべきか少し悩んだ様子ではあったが、目の前に用意されたカードはそれを凌駕するほど魅力的であった。
進藤ヒカル対塔矢アキラ。
大会側から特別にエキシビションとしてこの場での一局が許された。
加賀と筒井も、優勝した喜びもつかの間、黙ってヒカルの傍に立ち盤を見つめている。
ヒカルの正面に座るのはアキラ。
その目はお互いに逸らすことなく、前だけを見据えていた。
「あの日以来、誰と打っても君のことばかり考えている。君なら、僕の一手にどうこたえるのだろうかと…」
「……」
「君に恥じない打ち手となるために、あれから僕は更に精進したよ」
淡々と告げられるその言葉には、覚えがあった。
アキラが葉瀬中にヒカルを探して乗り込んできた時の事だ。
あの日も、まっすぐにアキラはヒカルを見ていた。
そう、今のように。
ただ違うのは、
「さぁ、始めようか。あの日の続きを」
「ああ」
ヒカルがコクリと頷く。
そう。あの時ヒカルは、アキラとはもう打たないと宣言をした。
自分の力がアキラに追いつくまで、もう打たない、と。
しかし、これから二人は打とうとしている。
あの日とは違い、持ち越しになってしまった出会いの一局を打ち切るために。
「お願いします」
「お願いします」
お互いに頭を下げ、ヒカルは黒石を手に掴むと碁会所での一手目と同じ場所にパチリと黒石を置いた。
アキラもそれに応えるように白石を置いていく。
パチリパチリと迷いなく手は進み、ヒカルが席を立つ直前に打った一手を盤に置いたところで、二人の手はようやく止まった。
「ここで君は僕の前から姿を消した。僕は、この先にある世界がどうしても見たかった。そのための一手を、僕はずっと探した」
「……」
ヒカルは答えない。
黙って、アキラが打つ一手を待つ。
「その答えを、僕はようやく見つけたよ」
アキラの手が、碁笥に伸びる。
白い指先が、碁石を掴んだ。
ヒカルはやはり何も答えず、ただじっと碁盤を見つめている。
パシンッと、碁盤を打つ石の音が、大きく響いた。
(これが僕の出した答えだ、進藤!)
どうだ、とばかりに、自信に満ちた面持ちでアキラがヒカルを見据える。
何度も何度も並べては検討した。
そうして、ここが最善の一手だとアキラはついに見極めた。
この一手を見て、ヒカルはどう思ってくれるだろうか。
少しは成長したと、認めて貰えるだろうか。
ヒカルの目に、この一手はどう写っている?
知りたい。
知りたい。
正しいのか、それとも、この一手よりもさらなる高みの一手がまだあるのだろうか。
あるとすれば、それはいったいどんな手が?
その答えを、知りたい!
(進藤!)
さぁ、答えてくれ!
アキラの鋭い眼差が、ヒカルに刺さる。
だが、当のヒカルはその場から動く気配を見せず、アキラの打った石をただ見つめていた。
表情を動かす事もない。
口を開く様子もない。
(進藤?)
沈黙が、辺りを支配した。
ゴクリと唾を飲み込む音さえ響いてしまいそうな静寂。
何者も動いてはならないような空気が辺りに漂う。
ギャラリーさえも、身動きがとれなくなった。
「………」
「………」
そんな静寂が、どのくらい続いただろう。
さすがに、周りが痺れを切らしザワザワと騒ぎだした。
(どうした、進藤…)
囁きの中、アキラもようやく詰めていた息を吐き、ヒカルの様子を改めて伺う。
長考でもしているのだろうか。
しかしその顔からは何かを深く考え込んでいるような様子は見えない。
ただ盤を見つめている。
そんな様子だった。
いったいどうしたのだろうか。
何か、思うところがあるのか。
もしや、ここまで来てまた打たずに席を立つ気でいるのだろうか?
色々な思惑がアキラの中に渦巻く。
(どうする?)
このまま黙って待つべきか、それとも声をかけるべきか。
アキラが迷い始め、ついに口を開きかけた時だ。
ヒカルの視線が、僅かに動いた。
その視線の先に、アキラを捉える。
「やっぱり、塔矢は塔矢なんだな…」
「え?」
ようやく開いた口から呟かれた言葉は、それだった。
アキラはヒカルの言っていることの意味が分からず、首を傾げる。
いったいどう言うことだと尋ね返そうとして、だがそこで言葉を飲んだ。
(進藤?)
ヒカルの顔が、どこか悲しそうに歪んでいたからだ。
(どうして?)
どうしてそんな悲しそうな顔をしているの?
どうして、そんなふうに僕を見るの?
この一手は、間違っているの?
やはり僕とは、打ちたくないの?
次々と浮かぶアキラの疑問が、ヒカルには伝わったのだろう。
ヒカルは、緩く首を横に降った。
お前は、間違っちゃいないよ、と。
「間違っているのは、きっと俺の方だ…」
「進藤?」
「けど、決着はつけなくちゃな」
ゆっくりと瞼を閉じる。
ほんの少しだけ、瞼の奥に思案の色が浮かんだ。
しかしそれもほんの僅かな時間だ。
次の瞬間、閉じていたヒカルの両目が鋭い眼差しに変わって開かれた。
その眼光の強さに、ビクリとアキラの体が跳ねる。
(これは…!)
只者ではないと、わかっていた。
見た目とは違う、年齢からは到底想像もつかない強者が持つ気迫。
あの日もそうだった。
ヒカルが石を持ったその瞬間に、アキラは全身にそのプレッシャーを感じていた。
だが、今目の前にいるヒカルが放つそれは、あの日のそれとはまた比べ物にならないほど強かった。
そして理解する。
あの日のヒカルは全力で打ってはいなかったのだと。
手を抜かれていたのだ。
(だって、全然違う…)
あの日のヒカルと、今目の前に座っているヒカルは、まるで別人だ。
(これが、彼の本気なんだ…)
ゾクリと体が震えた。
伝わってくるその気配は、父行洋と対峙した時とよく似ている。
いや、行洋もアキラには本気の勝負師の姿は見せたことが無いため少しばかり違うかもしれないが、それでも、タイトルホルダーである行洋からは普段でも上に立つ者としての威厳が滲み出ている。
その父の威厳と、ヒカルが放つ威厳。
(まるで同じだ…)
そんなはずはない。ヒカルはアキラと同い年のはずだ。
まだ、自分もヒカルも、小学6年生。
年が開ければ中学生に進学はするが、それでもまだ12才だ。
言い聞かせてみるが、目の前の現実がそれを否定する。
彼の纏っているその気迫はなんだ。
貫禄さえみせるその威厳はいったいなんなんだ。
(進藤、君はいったい…)
怯えの影が見え始めたアキラに、ヒカルはしかしそれを分かっていて敢えて力を抑えることはしなかった。
(塔矢、お前の事は、佐為に変わって俺が全力で倒す)
この対局を受けると決めた時に、覚悟も決めていた。
アキラを、全力で倒す事を。
本当は守りたかった。
けれど、アキラが葉瀬中に入学する未来は、やはり間違っているとヒカルは思った。
例え一緒に中学に通う事でアキラの笑顔が守れたとして、それはきっと違う。
それは、ヒカルの知るアキラではない。
いや、変えようとしている未来のアキラも違うのかもしれない。
けれど、今のこの選択肢はきっと間違っている。
そんな予感がした。
ならば、変えなければならない。
変えるためには、アキラを倒すしかない。
全力で戦い、そしてアキラを自分から完全に遠ざける。
そして二度と会わないと、約束させるのだ。
(もう俺を追いかけるな。塔矢)
追わなくていい。
佐為の影も、ヒカルの影も。
ヒカルももう、アキラを追いはしない。
追い詰めたりしない。
悲しい目を、させたりしない…
だから、自分の道を、碁の道を真っ直ぐに進んでほしい。
お互いに、それぞれの新しい未来を…
(そう、別々の未来を…)
ジクリと胸が痛んだ。
離れなければと思うのに、思えば思うほど息は苦しくなる一方だ。
本当はまだまだアキラと打ちたい。
できればこの先の道を一緒に生きたい。
(でも、それができなくなったから、俺はここに来たんだ)
それだけはなんとなく、覚えていた。
まだ記憶は曖昧で、どうして一緒に居られなくなったのか、そこまでは思いだせてはいないけれど。
(とにかく、今は目の前のこの一局に集中しろ)
深く息を吸って、ヒカルは眼前の石の並びに意識を戻した。
アキラの放った一手は、確かに未来でいつもヒカルと打っていたアキラが打つだろうと予想していた場所だった。
確信する。見た目にはまだ小学生でも、ヒカルの目の前に座っているのは間違いなく塔矢アキラなのだ。
(やっぱそこに打ってきたな)
アキラはやはりヒカルの求める答えを持ってきてくれた。
最善の手をひたすらに探し、答えを見つけてきた。
この一手の為に、どれだけこの棋譜を並べ、検討したことだろう。
しかし、
(けど、それじゃダメだぜ、塔矢)
ヒカルの手が、碁笥に伸びる。
確かにアキラは答えを持ってきてくれた。
完璧な回答を、ヒカルに持ってきてくれた。
だが、
(俺の予想を超えない範囲なら…)
そう。例えどんなに最善の一手を探してきたとしても、ヒカルに予想できるその域を、決して脱しないのなら、
(俺には、勝てねぇよ)
掴んだ石を、流れるように盤へ放った。
あの日のまま止まっていた一局の時間が動き出す。
それは、今度こそ終局へと向かうための一手。
「ッ!」
(来た!)
その一手を見た途端、アキラの背がゾクゾクと震えた。
ずっとずっと待っていた一局が、ついに動き出したのだ。
喜びが体中に満ちていく。
だが同時に、恐怖も覚えた。
震えるほどの重圧が、アキラに襲い掛かってくる。
打ちたかった。だからずっと、ヒカルを探していた。
ヒカルを探しながら、その反面、もう一度ヒカルと打つことが怖かった。
ヒカルの強さは、アキラにとって脅威だ。
同世代に自分のライバルはいないと、どこかでそんなふうに驕っていた自分を戒めるように目の前に現れたヒカル。
気高いほどに強く、とても大きな存在。
それが、進藤ヒカルだった。
その強さに、自分はどれだけ食らいつけるだろうか。
再戦ができたとして、果たして自分は終局まで打ち切れるのだろうか。
不安は、そして現実となってアキラの前にやってきた。
ヒカルの放つ一手一手から、ヒシヒシと伝わってくる威圧感。
石を持つ手が震えた。
怖い。怖い。
自分がまるで、小さく弱い存在になりはてたような、そんな錯覚さえ覚えた。
けれども、手を止める事は出来ない。
もう、この対局から逃れることなどできない。
何より、自分が逃げたくはない。
打ちたかったのは本当だ。
誰よりもヒカルと、この一局を打ちたかった。
待っていた。ずっと。
この先の宇宙を、二人で紡ぎたかった。
もっと自分に力があれば。
もっと強く、もっと強く!!
遥かなる高みへ、ヒカルと共に行きたい!
だが、
「くっ…!!」
アキラの手が再び止まる。
盤面はもう、ヨセが近い。
(ここまでか…!)
道が見えない。
生きるための道が、もうない。
辛うじて見えた最後の希望を掴むために放った一手は、
「っ!!!」
ヒカルの冷静な判断によって、あっけなくその道を断たれた。
(終わりだ…)
項垂れるアキラの姿を、ヒカルは黙って見つめる。
後は、アキラの投了の声を待つだけだった。
アキラの目の前に絶望が広がる。
何も見えない。
目の前の碁盤さえ、霞んでいく。
そんなアキラの姿に、ヒカルは過去の記憶とその姿を重ね合わせた。
(あの日も、こんなふうに俯いていたな…)
思い出すのは、過去に佐為が打ったアキラとの対局。
加減する事が出来ず、佐為がアキラを一刀両断にした、アキラとの二戦目。
そして、アキラが佐為を追いかけるきっかけになった一局。
あの時も、今と同じようにアキラは悔しさを堪え俯いたまま、一度も顔を上げようとはしなかった。
ヒカルはなんと声をかければいいのかわからず、それに、その時はまだ佐為の強さも碁の良し悪しさえも分からなかったから、どうしてそこまでアキラが落ち込み、佐為に執着するのか理解できなかった。
それでも、ヒカルにはアキラがどんな顔をしているのか、見えていたような気がした。
悔しさと、そして、ヒカルに対する、いや正確には佐為に対する畏怖の念。
複雑な感情の中、これが現実だと受け入れざる得ない目の前にある碁盤。
言葉よりも雄弁に語る碁盤の石に、アキラはずっと問うていただろう。
いったい、何が起きたのか。
ヒカルはいったい、何者なのか。
聞きたくとも、現実をまだ受け入れきれない心がアキラの言葉を奪う。
今も同じだ。
言葉は無いが、アキラの全身からヒカルに対するたくさんの疑問が伝わってきた。
同時に失われていく、アキラの無邪気さと幼さ。
ああ、とヒカルは目を閉じた。
(これで完全に、俺はアキラの笑顔を奪っちまったのか…)
無邪気に笑っていた、まっすぐに碁の道を歩むのだと信じきっていたあの笑顔は、やはり消えてしまうのだ。
今度は佐為ではない、ヒカル自らの手によって。
(変えられなかった…)
アキラともう一度打てばどうなるのか、その結果は分かっていた。
警告だって何度も聞こえていた。
打つな。打つな。
アキラとは打つな、と。
それでもヒカルは打った。
奪うと分かっていたのに、この勝負を避ける事が出来なかった。
避けられないのなら、打つしかない。
そうして覚悟を決めて打ったはずなのに、どうしても胸が苦しい。
後悔ばかりが、頭に浮かぶ。
どうにかしてこの勝負は避けられなかったのか。
他に何か、もっといい方法があったのではないか。
(でもきっと、どんなに避け続けたとしても、いずれ俺はアキラと打つことになったんだろう)
そんな気がする。
「ありません…」
静かに、本当に静かに、アキラが俯いたまま対局の終わりを告げた。
「ありがとうございました」
ヒカルもまた、感情の無い声でそれを受け取る。
途端に周りがワッと騒ぎ出した。
感嘆の声に、困惑の声が混ざる。
なんて一局だ。
こんな一局、滅多にみられない。
あの黒のオサエが、いや、その前のツケが。
それよりも彼はいったい何者だ。
これだけ打てるなんて、まさに天才か。
誰もがヒカルに興味を示し、口々に質問の声を上げ始めた時だ。
ガタンッと大きな音を立て、ヒカルは席を立ちあがった。
その勢いに、つい誰もが口を噤む。
「失礼します」
一瞬の隙をついて、ヒカルは素早く一礼をするとそのまま教室を飛び出した。
加賀と筒井が呼び止める声も聞こえてきたが、止まる気はなかった。
もう、一秒たりともそこに居たくはない。
アキラから、そして碁盤の前から逃げたかった。
苦しい。苦しい。
(なんでこんなに苦しいんだよ!)
何もかもが苦しい。
アキラの存在は、自分にとってこんなに苦しい物だったろうか。
碁を打つことは、こんなにも悲しい事だったろうか。
碁を打てば、佐為に会える。
強くなれば、嬉しくなる。
碁とは、自分にとってとても大切なものではなかったのか。
それなのに、
(何で打つたびにこんなに苦いんだ…)
この夢に来てから、心が躍るような一局を打てた試しがない。
どれもこれも、後悔や苦さの残る碁ばかりだ。
(もう嫌だ)
逃げたい。
何もかもから、この夢から、全ての存在から。
俺なんか、消えちまえばいいのに!!
切に願った、その時だった。
「!!」
めちゃくちゃに走った覚えのない校舎の隅。
そこに唯一、覚えのある何かがヒカルの目に飛び込んできた。
ヒカルは思わず足を止め、それが見えた方向を凝視した。
それは一瞬でヒカルの前から姿を消してしまったが…間違いない。
(俺が、見間違えるはずがねぇ…)
そう。間違えるはずがない。
ずっとずっと、思っていた。
消えないでくれと、何度も願った。
会いたかった。どうしてももう一度、会いたかった。
「佐為!!」
長く、風になびく黒い髪。
白い着物に、特徴的な烏帽子。
ほんの一瞬だった。
まるで幻じゃないかと思えるほどの短い時間。
佐為がいた。
佐為だ。間違いない。
「佐為!!」
この夢の中の世界にはいないのだと思っていた。
実際に碁盤には血の跡が無くて、だからここは、佐為の存在していない世界なのだと。
「待てよ、佐為!!」
だが居る。佐為は居る。
けれど、居るならどうしてヒカルの元に来てくれなかった?
どうしてあの碁盤に憑いてなかった?
ヒカルは佐為が居たはずの場所に駆け寄りその名を叫んだ。
壁に向け、天井に向け。とにかく辺り中に向けて彼の名を呼ぶ。
「佐為!!」
居るなら返事を!!
そう願って叫ぶのに、あの一瞬だけで佐為の姿はもうどこにも見当たらない。
気のせいだったのか?
あまりにも自分が碁を打つことが苦しいと叫んだから、その思いが見せた幻だったのか?
(そんなはずはねぇ!)
見えたのだ。確かに。
ほんの一瞬だったが、ヒカルを見て少し悲しそうに眉を寄せていた。
そんな佐為の顔を、ヒカルは見たことがない。
こちらまで、悲しくなってしまいそうな顔をしていた。
まるで、今のヒカルと同じように…
幻じゃない。
佐為は、いる。
なのに…
「佐為!!」
悲鳴のように名を叫んだ。
けれど、どこにも佐為の姿は無い。
見えない。感じない。
佐為は…いない。
「う…あ…」
視界がぼやける。
ガクリと膝から力が抜け、ヒカルはその場に座り込んだ。
そんなヒカルを追いかけるように、小さな足音が背後から聞こえてきた。
ヒカルは、緩慢な動きで背後を振り返る。
「進藤!!」
「……」
ゆっくりと振り向いた先には、つい先ほどまで項垂れて言葉を失っていたはずの、ライバルの姿。
「塔矢…」
どうしてここに…
だがそれを問う前に、ヒカルの両の目は抑えきれぬ大粒の涙で視界が塞がれ、
「うわぁああああ!!!」
苦しい息を全て吐きだすようにして漏れた泣き声は、そのまま叫びとなって校舎に響き渡った。

(続く)



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