「覚えていてくれたの?嬉しいな」
アキラがニコリと笑う。
そう。目の前にいるのは、間違いない。
ヒカルがもう会いたくないと、会ってはならないと心に決めていた塔矢アキラだ。
(そんな…。せっかく変わると思っていたのに、やっぱり変えられないのか…?)
ここにアキラが現れたと言う事は、やはり世界は変わらないのだろうか…
打つ順番が変わったくらいでは、やはり何も…
サッと血の気が引くのを感じた。
呼吸を忘れた体が、痛いくらいに心臓を鳴らす。
「探していたんだ、君を」
そんなヒカルの心境など、知るよしもないアキラは嬉しそうに笑ってヒカルに話しかけてくる。
(あれ…?)
けれどもヒカルは、そこで違和感に気付いた。
(塔矢って、こんなに笑う奴だっけ?)
そうだ。おかしい。
塔矢アキラという人間は、滅多な事では笑わない男だと認識していた。
いつだって厳しく、眉間に皺を寄せた顔をしている。
それがどうだ、今目の前にいるアキラは、それはもう嬉しそうに笑みを浮かべている。
そう、碁会所で初めて会った時と同じように…
(もしかして…)
ふと、ひとつの可能性が浮かんだ。
(あの日、勝負をつけなかったから…)
そう。もしかするとあの日、ヒカルが勝負の途中で逃げ出したことで、アキラの方にも何か変化が出たのではないか、と。
ヒカルの知っているアキラは、あの日佐為の手によって敗北を味わった。
けれども今目の前にいるアキラは、まだその苦味を知らないのだ。
だとしたら…
(変わる…のか?)
何も変わっていないと思っていたが、全てはあの瞬間から変わっているのだろうか。
(でも…)
今日、この日。
この学校でアキラと再会する事実に変わりはない。
だとすればやはり、何も変わっていないのだろうか。
そもそも、自分は何を変えたいのだろう。
それすらも次第に分からなくなってくる。
だが、
「進藤」
次の瞬間、アキラの雰囲気が変化した。
それまで楽しそうに笑っていた顔が、急に大人びたように引き締まる。
「と…うや…」
ギクリと体が強張った。
その顔は、ヒカルのよく知る大人の塔矢のそれと同じだったからだ。
ヒカルを真っ直ぐに見つめる、鋭く、熱い視線。
「もう一度、僕と打ってくれないか」
「……」
「あの日の続きを、僕はずっと考えている。最善の一手を、ずっと考えている。僕ともう一度打ってくれ、進藤。あの日の続きを。あの勝負を、最後まで君と打ちたい」
「……」
ああ、知っている。
そう思った。
これが、塔矢アキラだ。
ヒカルの知る、塔矢アキラだ。
己の意思を決して曲げない。
例えその先に待ち受けている物が深い絶望だったとしても、決して足を止めない。
でも…
だからこそ…
(俺と言う石に躓いて欲しくない…)
アキラの歩むはずだった一直線の碁の道。
その道を塞ぎ、遠回りさせたのは他の誰でもない、自分だ。
たがら、
「俺は、お前と打つ気はない」
静かな声で、ヒカルは告げた。
アキラともう一度再戦するつもりはない。
アキラと打ってはいけないと思ったからこそ、逃げ出したのだ。
なのに、ここでまた打つわけにはいかない。
「どうして!」
アキラが食い下がる。
「お前とは打たない!!」
「!?」
再びはっきりと拒絶の言葉を口にすると、アキラの両目が大きく見開かれた。
「僕が、弱いから?」
「違う」
「なら、どうして!」
「それは…」
言えるはずがない。
アキラとの道を違えるために、未来を変えるために、打たないだなんて…
「やっぱり、僕が弱いから…」
何も答えないヒカルに、アキラの肩が沈んだ。
違う。そうじゃない。
ヒカルはそう否定したくとも、したところで他にうまい言葉が見つからない。
そのままお互いに何も言えず、向き合ったまま動けずにいると、
「何やってんだ、進藤!決勝始まっちまうぞ!」
廊下の向こうから、加賀の声が聞こえてきた。
どうやら休憩時間が終わったらしい。
ヒカルは助かったとばかりに加賀へ振り返る。
直ぐに行くと返事をし、そのままアキラの傍を離れようとした。しかし、
「待ってくれ!」
再びアキラに止められた。
「塔矢、話は決勝戦の後にしないか」
しかしもうこれ以上アキラに話す事も、かまっている時間もない。
何より、このままでは不戦敗になってしまう。
そうなれば、筒井の囲碁部も無くなってしまうだろう。
ヒカルが入学した時に、筒井の囲碁部が無いのは嫌だ。
自分で囲碁部を立ち上げてもいいが、ヒカルが入りたいのは、筒井の作ったあの囲碁部だ。
そうだ。どうせなら途中で自分がプロに転向してしまって叶えられなかった大会に、三谷と一緒に出場しよう。
そうしてプロにはならず、そのまま塔矢とは道を違えて生きていくんだ。
碁の道から逸れてしまうのは辛いかもしれない。
毎日毎日碁の事ばかり考えている生活が当たり前の自分に、普通の中学生としての暮らしがまともにできるのか、それは怪しいところだが…
(でも、碁なら碁会所で打てる)
プロでなくとも、碁盤と碁石さえあれば、どこででも碁は打てる。
それに、目指している神の一手だって、プロでなければ掴めないとは限らない。
ヒカルが碁さえ捨てなければ、いつか必ず掴めるはずだ。
だから…
決意を固めながら、アキラに背を向けたヒカルだったが、
「進藤、君、もしかしてこの大会に出てるのか?」
ふと、アキラがようやく気が付いたようにヒカルの姿をマジマジと見つめて聞いてきた。
「え?ああ、うん…」
何を今更と言った様子で頷くが、そこでようやくヒカルはまずい事に気が付く。
「え?だって君、僕と同い年だって…」
「わっ!」
慌ててアキラの口を塞ぎ辺りを見回した。
大丈夫、自分たちの周りに大会関係者はいない。
そうだった。今自分は年齢を偽ってこの大会に潜り込んでいるのだ。
アキラはヒカルがまだ小学生である事を知っている。
それをバラされる訳にはいかない。
バレたら全てが水の泡になる。
「ちょっと訳ありで、助っ人に入ってるんだ」
「小学生の君がかい?」
「だから、声が大きい!」
しぃ!と唇に手を当てる。
「まぁ、君の実力なら中学生どころか、プロにだって混ざれると思うけど…」
納得したように頷きながら、アキラはもう一度ヒカルの学ラン姿を眺め、しかし直ぐにまた眉をしかめた。
「進藤、どこの学校の助っ人に入っているんだ?」
確認するように聞かれる。
ヒカルは時間を気にしながら、早口で答えた。
「え?葉瀬中だけど…。だって俺、葉瀬中に進学するから…」
「葉瀬中!?」
するとなぜかアキラが驚いたように声を上げるが、いよいよ時間が無い。
仕方なくヒカルは強引に話を切り上げて教室に入ろうとするが、アキラがなぜかそれについてくる。
「君の進学先は、海王中じゃないのか?!」
「はぁ!?なにいってんだよ!?」
どうして自分が海王に進学しなければならないのか。
つい声を上げて塔矢を見れば、
「碁が強いから、単純に海王に進学するんじゃないかと思っていたんだ…」
「なんでだよ。囲碁ならどこの中学に進学したってできるだろ?」
入り口で立ち止まったヒカルに、教師たちが急いでくださいと手招きをする。
それに頷きながら教室に入ろうとしたが、
「だったら!だったら僕も葉瀬中に行く!」
アキラの口からまたとんでもない発言が飛び出した。
「はぁ!?」
再び大きな声を上げ、そんなヒカルに教師たちがもう待てないとばかりにヒカの腕を取ろうとして…
「あれ?君は塔矢くんかい?」
ヒカルが一緒に居る人物が塔矢アキラであることに、教師が気付いた。
途端に教室内がザワザワと騒ぎ出す。
塔矢だ。
塔矢アキラが来ている。
どうしてこんな所に?
「どうした進藤?」
「進藤くん?いったい何が…」
騒ぎ始めた教室に、加賀と筒井も気になった様子でヒカルの傍にくると、同じように塔矢の顔を見て驚く。
だが、ヒカルはアキラがこの場にいる事以上にアキラの発言に驚いていた。
アキラは今、何と言った?
葉瀬中に行く?
ヒカルと一緒に?
「おま…なに言ってんだ、塔矢!」
「だって!僕は君と打ちたい!その為なら何でもする!君が葉瀬中に行くと言うなら、僕もそこに行く!そこでなら、君も僕と碁を打ってくれるんだろう!?」
アキラの突然の葉瀬中行き宣言に、辺りの動揺が増した。
「静かに!静かに!!まだ大会中です!お静かに!!」
教師たちが何とか場を治めようとするが、好奇の目は大きくなるばかりだ。
塔矢が葉瀬中に行くって?
海王の面接に来ていたんじゃないのか?
塔矢にあそこまで言わせるなんて、やはりあの子は何者なの?
そんな声が、ヒカルの耳にまで届いてきた。
まずい。
このままで騒ぎが大きくなれば、大会が中止になりかねない。
そうしたら結局筒井の囲碁部は無くなってしまう。
この場を治められるのは、もうヒカルしかいなかった。
「塔矢、わかった」
「うん、一緒の中学に行こう!」
「そうじゃない。そっちじゃねぇよ」
「?」
塔矢が首を傾げる。
(確かに、変えたいと願ったさ…)
具体的には何もまだ思い出せてはいないが、塔矢との関係について何かを変えたいと思っていた事は、きっと間違いではない。
だから、変わったように見える今、これはベストの形なのかもしれない。
(でも、これは違う気がする…)
望んでいた変化とは、違う気がした。
ヒカルが望んでいたのは、決してアキラと友達になって同じ中学に通う事ではない。
それに、塔矢と打ってはならないと、そんな警告が鳴り響いたままだ。
危ない。離れろ。今すぐアキラに背を向けろ!
そんな声が、どこからか聞こえてくる。
(でも、この場から逃げる事もできそうにない)
きっと、ここで逃げ出したところでアキラは追ってくる。
どんな手を使っても、ヒカルを追いかけてくるだろう。
塔矢アキラとは、そんな男だ。
ならば…
(あの日の決着をつけて、白黒はっきりさせて、俺の事を諦めさせてやる)
アキラを負かすことを躊躇い、その笑顔を奪いたくないと願った。
けれど…
(それでお前が諦めないっていうなら…)
グッと拳を握りしめる。
それでも、躊躇いが体中を駆け巡る。
本当にいいのか。
そんな事をしてもいいのか。
お前が、その手でアキラを潰してしまってもいいのか?
(だって、そうしないと…)
アキラはずっと追いかけてくる。
それでは、ダメなのだ。
アキラを、自分と言う鎖から解き放つのだ。
自由にしてやるのだ。
だから。だから…
「大会が終わったら打とう、塔矢」
「ホントに?!」
アキラの目が輝いた。しかし、
「ただし、俺が勝ったらお前は海王中に行け」
直ぐに続いた言葉に、輝いていたアキラの目が一瞬で濁った。
「そんな…」
「それが約束できないなら、打たない」
まるで脅迫だ。
神聖な碁をなんだと思っているのだと、佐為が聞いたら怒り出す場面だろう。
アキラも、ヒカルがそんな勝負を持ち掛けてくるとは思ってもいなかった様子でしばらく無言になる。
そのまま返事がないのなら、それでよし。
アキラと打つ事はもう二度と無い。
沈黙が二人を包んだ。
ややして、ヒカルが無言を肯定として受け取り踵を返そうとした。
そこでようやくアキラが顔を上げる。
その顔は、決意に満ちた男の顔をしていた。
「わかった。なら、僕が勝ったら、選択は僕が決めてもいいってことだね」
「ああ」
何時になく低い声で返事をすれば、アキラは「お騒がせして申し訳ありませんでした」と深くお辞儀をして、それまでの騒ぎが嘘だったようにさっさと教室を後にした。
「俺も、決勝戦遅らせてしまってすみませんでした」
ヒカルも教師たちに向かって深く頭を下げる。
それを見て、唖然としていた教師がようやく仕事を思い出したように試合の開始を告げた。

けれども、誰もがみな、心はもうそこに無かった。
大会の決勝戦よりも、この後に行われるアキラ対ヒカルの戦いが気になって仕方がない。
かたや、タイトルホルダーである父を持ち、その実力も父譲りとして名高い塔矢アキラ。
そしてもう一人は、突如大会に現れた強者、進藤ヒカル。
いったいどっちが強いのか。
やはりアキラか。
いや、ヒカルだ。
騒ぎは止まらない。
そんな浮ついた空気に飲まれたように、決勝戦はあっと言う間に葉瀬中が勝ちを収め、しかしそれに喜ぶ間も無く、待ち構えていたように教室の入り口に姿を現したアキラに、場の緊張は一気に膨らみ、盛り上がりを見せた。




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