「大切な日を、大切な君と」


予定されていた対局が終わり、今日は碁会所にヒカルは来るのだろうかと思いながら棋院を後にする。
ヒュッと体に吹き付けてくる風に肩を怒らせ首に巻き付けていたマフラーに顔を埋めた。
町は、すっかり冬の姿へと変わっている。
最寄り駅に向かう道すがら何気なく町に視線を走らせれば、もうすぐやってくるクリスマスの彩と、さらにその後にやってくる正月飾りが一緒になってショーウィンドーを賑わせていた。
師走。
その言葉が頭を過り、アキラはふとヒカルの顔を思い出した。
(クリスマス…か。進藤はどうするんだろう…)
先日の碁会所からの帰り道の事だ。
ヒカルがボソリと呟くようにしてアキラにクリスマスの予定の有無を聞いてきた。
その日は特に予定はない。アキラはそう答えた。
するとヒカルは、「そうか…」と頷きながら何かを思案する仕草を見せた後、けれどもそのまま特に何かを提案するでもなくアキラに別れを告げて帰っていった。
少しだけ、何か約束でもしてくれるのかと甘い期待をした。
それだけに、何も言わずに帰って行ったヒカルが何となく恨めしかった。
いや、こちらが勝手に期待しているだけなのだから、恨むのは筋違いなのは充分に承知しているが…
それでも…
一緒にこうして気兼ねなく碁を打ち合えるようになった今、どんな理由でも構わないから出来るだけ長く一緒にいたいと、そう思ってしまうのは我儘なことなのだろうか…
「クリスマス…」
改めて、ぽつりと口にする。
実際その日は、仕事は多少なりとも入っていたが他に特別な予定は入っていなかった。
プライベートの時間はポッカリと空いている。
だから、ほんの少し期待をしたのだ。
一緒に過ごせないだろうか、と。
正直に言えば、その日がクリスマスであった事はあまり気にしていなかった。
ただ、時間の空いている日があると、それだけを認識していた。
昔から、アキラの家でクリスマスなどの行事にはそんなに頓着はない。
父行洋の棋戦が何よりも優先される棋士の家に育ったのだ。
全ては父を中心にして決まる。カレンダーの祝日や行事はほとんどがイベントと重なるため、家族で過ごす事はほとんど無かった。
そんな中で唯一家族が揃うとすれば、正月くらいだろうか。
ただしそれは家族水入らずと言う訳ではなく、たくさんの弟子たちに囲まれて…ではあるが。
(それに…)
あまりクリスマスに頓着しない理由が、もうひとつ。
(ああ、そうだ。あれがあるから…)
父が仕事で居ない日でも、母の明子だけは毎年欠かさずケーキを買ってきてくれる日があった。
クリスマスイブの10日前。12月14日。
「僕の誕生日か…」
そうだった。クリスマスの前にある自分の誕生日。その存在をようやく思い出す。
それを忘れている自分もどうなんだとも思うが、行洋に続きアキラもプロ棋士の道に進みだしてからは、それこそ年間行事など頭にはなく、気が付けばもう自分の誕生日すら忘れていた。
『クリスマスは家族で祝えなくとも、アキラさんの誕生日くらいはみんなでケーキを食べましょう』
そう言って少女のように微笑む母。
結局、父の都合が合わずに母と二人きりの誕生日の記憶の方が多くなってしまっていたけれど…
「あれ?」
そこでまた、アキラは何かに気が付いたようにポケットからケータイを取り出した。
(そう言えば、今日って…)
時刻の隣に小さく表示してある日付を確認する。
12月14日。
(ああ、今日なのか…)
どうりで、と納得する。
実は出がけに母から電話があったのだ。今日は家の方に帰ってくるのかと。
塔矢の家を出て独り暮らしをするようになりもうすぐ一年になる。
最近になってようやく生活のリズムも掴んで独りで暮らす事にも慣れてきた。
とは言え、まだ充分とまでは言えない。いけないとは思いつつも、少ない休日に纏めて家事全般を回してしまう時もある。
そこに様々な棋戦やイベント参加なども重なれば、自然と実家に向かう足も鈍ってしまいがちだ。
そんなアキラに、母はよく様子伺いの電話をかけてきた。
ちゃんと暮らしているのか、病気などはしていないか。
心配する母に、大丈夫だと半ば口癖のように返せば、やはりたまには顔を見せろとこちらももう口癖のように返される。
その内に。時間が出来たら。
アキラの答えはいつもそれだった。
帰りたくない訳ではない。
けれど、先に上げた理由だけでなく、渋る理由は他にもあった。
独り暮らしを始めたきっかけだ。
家族から離れて、ひとりになりたいと思った。ひとりの棋士として、自立したいと思った。
だから、
(だから、もう少しだけ…ひとりで頑張りたい)
母も、それは察しているのだろう。無理強いはしなかった。
それでもアキラに電話をしてしまうのは、やはりそれも母親だからだ。
今日の電話も、アキラはいつもの電話だろうと普段通りに返事をしていた。
それに今日は、昨日手に入れた韓国棋戦での棋譜を碁会所でもしヒカルに会えたら一緒に検討したいと考えていた。
その延長で、遅くなるようなら一緒に夕食にでも行けたら、と。
そんな日常として馴染んできた風景を思っていたから、アキラは余計に今日は行けないと返していた。
それを聞いた母が、けれども普段より幾分か落ち込んだように「そう」と呟いたように聞こえたのは、気のせいだと思っていたのだが…
今思えば、誕生日を祝ってくれようとしていたのだろう。
悪いことをした。
もしかしたらケーキも、買っているんじゃないだろうか。
「一言、言ってくれればよかったのに…」
今日はアキラの誕生日だと。だから一緒に、祝いたいのだと。
「…いや、だからこそ気を使ってくれたのかもしれない…」
そうかもしれない。
今日がアキラの誕生日だからこそ何も言わず、もしも誰かと過ごしたいのならそうすればいい、と。
母の、言葉にはしなかった気遣いが聞こえた気がして、アキラは小さく微笑んだ。
持っていたケータイをポケットにしまい直し、顔を上げる。
「……進藤」
無性に、ヒカルに会いたくなった。
今日が誕生日だと気が付いて、どうしてもヒカルの顔が見たくなった。
誕生日に誰かと一緒に過ごすのなら、その相手は、ヒカルがいい。
ヒカルと、一緒がいい。
どうしてそこでヒカルを思ったのか、それは自分でもよくわからなかったが、それでもヒカルに会いたいと思った。
早く碁会所に行こう。
碁会所に行けば居るかもしれない。
けれども、ヒカルとは明確な約束をした訳ではない。
もしかしたら、今日は来ていないかもしれない。
(電話、してみようか…)
一瞬、頭にそれが過ったが、やめた。
電話をして、そしてヒカルに何と言えばいい?
今日は誕生日だから一緒にいてくれと?
…それが素直に言えるのであれば苦労しない。
それに、言ったところで「だから?」と返されたら、それに続ける言葉をアキラは知らない。
そうだね、と。ただ相槌を打って電話を切るだけだ。
ヒカルが、アキラの事をどんなふうに思っていてくれているのかも、正直に言えばよくわかっていない。
ライバルだとは…思ってくれているだろう。
でも、きっとそれだけだ。
自分とヒカルを繋げる糸は、まだ、その小さな一本だけ。
他にはまだない。
ただ二人で至高の一手を、神の一手を求め、共に高みを目指すために必要な生涯のライバル。
それはつまり、碁をなくしては成り立たない関係。
碁がなければ、自分とヒカルとの間には何もない。
そう、何も…
『塔矢、クリスマスの予定って、ある?』
でも…
あの日、ヒカルが聞いてきたアキラの予定。
そのまま何も告げずにヒカルは黙って行ってしまったけれど、本当はその後に、何か続くはずだったんじゃないかと思う。
続けるとしたら、何と言うつもりだったのだろう。
(出来るならその告げられずに閉じ込めてしまった言葉を、今日僕に貰えないだろうか…)
それは完全にアキラの想像でしかないけれど、もしかしたらヒカルが言おうとした事は、アキラがどこかで期待している言葉なんじゃないかと思う。
そう。二人で一緒に過ごしたい、と。
(君は、そう言ってくれようとしていたんじゃないか?)
何を思ってそれを告げようとしてくれたのかは分からない。
結局は言えなかったのも、様々な感情が邪魔をして口を継ぐんでしまうしかなかったのかもしれない。
それもこれも、やはり想像でしかないけれど…
(もしかして、待っていたのかもしれない…)
あの日、去っていくヒカルの背中に、アキラは何も言えなかった。
その背中が、とても小さく見えた事を覚えている。
ヒカルはあの日、アキラが止めてくれるのを待っていたのかもしれない。
(止めていたら、変わっていた?)
あの日に二人は、何か変わっていたのだろうか。
(わからない…)
変わったかもしれない。
でも、変わらなかったかもしれない。
ああ。どうして、こんなに心が乱れるのか…
どうして…
(どうして、君を思うと気持ちが騒ぐ?)
知らず、碁会所に向かう足が速くなっていた。
まるで答えを求めるように。
早く、早く!と焦る気持ちを代弁するように。
早足はいつしか駆け足になった。
もうすぐ、地下鉄の入り口が見える。
その時だ。
「塔矢!!」
「?!」
背後から名前を呼ばれた。
アキラは前方につんのめるような形で体に急ブレーキをかけた。
心臓が一度大きく跳ねた後にそのまま激しく脈を打つ。
(この声は!)
走り出した時と同じ勢いで振り向いた。
「もう!ビックリしたぜ。やっと追い付いたと思ったらお前いきなり走り出すんだもん…」
振り向いた視線の向こう。
沢山の人混みの中に、息を乱してやっと追い付いたとばかりにこちらに近づいてくる、金の前髪。
「進藤…」
進藤ヒカルが、そこにいた。
会いたいと、アキラが願っていたヒカルが、そこにいた。
「今日、棋院で対局があったんだったろ?終わる頃を見計らって待ち伏せてやろうと思ったのに、棋院に行ったらお前もういねぇんだもん。焦ったよ。終ったならきっと碁会所に行くだろうと思ってさ」
急いで追いかけてきたんだぜ?
そう言って、屈託なく笑う。
その笑顔が、町の華やかさにも照らされてとても綺麗だった。



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