「来ねーし!!」
葉瀬中校門前。
約束の2時から既に20分が経過しているが、あかりが姿を見せる気配は一向に無い。
そう言えばあの日もこうしてすっぽかされた事を思い出す。
けれどもあの時はヒカルも行かないと突っぱねたから、それであかりはヒカルが来ないものだと思い別の友達と来たらしかった。
しかし今回は違う。
ヒカルはきちんとあかりに返事をしたはずだ。
…なのになぜ来ないのか…
(女ってやっぱりわかんねぇ…)
ガシガシと頭を掻いてなんともしがたい焦れを吐き出そうとするが、どうも気が治まらない。
「中、入るか…」
チラリと校内を横目に見て、ヒカルはひとつ息を吐くと、気持ちを切り替えるように顔を上げて校内へ一人足を踏み入れた。
公園で倒れたあの日、救急車を呼ぶ騒ぎにはなったけれど、特に異常も見つからない事から念のために一日だけ検査の入院をしてから家に戻った。
どうしたのかと両親に尋ねられたりもしたが、ヒカル自身どうしたのかさっぱり分からない為に答える事はできなかった。
ただひとつ、なんとなく分かった事はある。
あの頭痛はどうも、アキラの事を考えると始まる可能性がとても高いようだ。
そして、これはまだ可能性と呼べるほど確かな事ではないが、たぶんきっと、この夢から覚めるために必要な鍵も、アキラが握っているような気がした。
(けど、もう会う訳にはいかねぇだろうな…)
ふらふらと校内を見て回りながら、この夢に迷い混んだ直後にアキラと碁会所で打った時の事を思い出す。
あのまま打てば、何となく二人の間に違う歴史が刻まれてしまいそうで、ヒカルはそのままアキラから距離を置くことにした。
会ってはならない。
そんな気がしたのだ。
(あいつ、どうしてんのかな…)
けれど、そんな事を思いながらも、それでもアキラの存在が気になって仕方がなかった。
自分とアキラは、切っても切れない縁で結ばれているようなものだから。
(あの後、どうしたんだろう…)
対局の途中で、ヒカルは逃げるように碁会所を飛び出してきた。
中途半端になったあの碁の続きを、アキラはいったいどうしたのだろうか。
無かった事にしたのか、それとも、自分なりに検討でもしているのか…
検討をするにも、あれ以来碁会所に現れないヒカルを、アキラはどんなふうに思っているのだろうか…
(オレの名前だけしか知らないはずだから、きっと探せずに碁会所でただ待ってるんだろうな…)
もしヒカルを待ってくれているのだとすれば、アキラはきっとあの日の棋譜を並べた碁盤をただ黙って見つめ続けているだろう。
その姿が簡単に想像できて、気持ちが苦くなった。
実際の過去では、ヒカルはその後にもう一度アキラと会っている。
そう、子供囲碁大会からの帰り道で。
けれどその日はもう、当に過ぎていた。
ヒカルが敢えて大会を見に行かなかったからだ。
だとすれば、次にアキラに会う可能性があるのは海王中での囲碁大会。
(…ダメだ!会わねぇって決めたんじゃん!!)
会いたいのか、会いたくないのか。
自分でももう、わからなくなっている。
(それより、碁が打ちてぇ…)
ヒカルは視線を走らせ、気を紛らわすように筒井の姿を探した。
あかりに誘われて行くと返事をしたのには、葉瀬中への懐かしさもあったがそれよりも碁が打てるかもしれないと言う思いもあったからだ。
この夢の中にきてから、もう随分と碁を打っていない。
ヒカルが倒れたいざこざで碁会所にも行けていない。
それこそ、アキラと打って以来、碁石に触れることさえできないでいた。
(オレの部屋にまだ碁盤ねぇし…)
よほど祖父に碁盤をねだりに行こうかとも考えた。
けっきょくは、勘繰られるのが嫌で行けずに終わってしまっているが、
(けど、やっぱ何とか無理言って買ってもらえば良かったかな…碁盤)
小学生の財力ではマグネット碁盤でさえ手が届かない。
毎日碁石に触れているのが当たり前の日常になっているのだ。触れないとなると相当なストレスになってしまっている。
自分でも呆れる程の碁馬鹿になったものだと思う。
けれど、ヒカルにとって碁はもう生活の一部だ。
切り離す事など、考えられない。
だからこの創立際にきた。
筒井に会えば、きっと碁が打てる。
打たせて貰える。
(筒井さん…筒井さん…と、居た!)
しばらくウロウロと辺りを歩き、ヒカルはようやくそこに筒井の姿を見つけた。
途端に顔が綻んだ。
「碁」と書かれた用紙を踏み台に張り付けた簡単な看板と、
(碁盤もある!)
隣に用意された机の上には当然碁盤もあり、碁盤の上には詰碁の問題が並べられている。
ヒカルは一目散に筒井と碁盤の側へ駆けつけた。
先に来ていた客が、詰碁の問題を解けずにポケットティッシュを貰って帰っていく。
それを見送り、ヒカルは「筒井さん!」と声をかけようとして慌てて口を押さえた。
そうだ。自分はまだ、筒井とは知り合いになっていないはずである。
ここで気さくに名前を呼ぶ訳にはいかないだろう。
少し面倒には感じたが、せっかく目の前に碁盤があるのにその事で揉めて触らずに帰る事になったら嫌だし勿体ない。
「次、いいですか?」
ぎこちなく笑みを浮かべながら、ヒカルは筒井に聞いてみた。
「ええ、どうぞ」
筒井は突然目の前に現れた小学生にも嫌な顔ひとつせず丁寧に椅子を進めてくれた。
まぁ、実際囲碁に年齢は関係ない。
どんなに小さな子供でも碁石と碁盤があれば始められるのが囲碁だ。
現にアキラは二歳の頃から碁石に触っていると言う。
(ああ…またオレ塔矢の事考えてる…)
ツキンと、小さくこめかみが痛んだ。
それを軽く頭を振ることで払い、ヒカルはひとつ息を吸うと意識を切り替え目の前の碁盤を見つめた。
(せっかく目の前に碁盤があるんだ。時間が許す限り、触れたい)
勧められた椅子に座り、身を正す。
ふと視界の隅に、「塔矢名人選詰碁集」の文字が見えた。
ああ、そうだ。覚えてる。佐為がそれを見て欲しがったのだ。
欲しい欲しいと子供のように騒ぐ佐為の姿を思いだし、ヒカルは思わず小さく笑った。
そんなヒカルに筒井がどうかしたのかと尋ねてくるが、何でもないと誤魔化して碁盤を見つめた。
ああ、碁盤だ。
目の前に碁盤がある。
知らずヒカルの体がフルリと歓喜で震えた。
ここ数日、触りたくとも触れなかった碁盤が目の前にある。
その碁盤に、筒井が石を並べ始めた。
「では、三手まで示してください」
ニコリと笑いながら筒井がどうぞと手を伸べてヒカルに解答を求めてくる。
ヒカルは碁盤を少し見つめ、やがて指で三手を示そうとした所で、手を止めた。
「あの、碁石、直接置いてもいい?」
「え?あ、うん。いいよ」
そうだ。どうせなら碁石も触りたい。
ヒカルが尋ねると筒井は快くヒカルの前に碁笥を差し出してくれた。
「ありがとう」
礼を言って、そっと碁笥に触れる。なんだかとても懐かしい。
手に馴染むそれをそっと指先で撫で、そして中から碁石をひとつ掴んだ。
その瞬間、指先に甘い痺れが走ったような錯覚を覚え、思わず目を閉じる。
(碁石の冷たさが気持ちいい…)
どれだけ自分が碁に飢えていたのか、この瞬間に分かった気がした。
「ここと、ここ、そして、ここ」
一手一手を大事にするように丁寧に石を置いていく。
碁盤を鳴らす石の音が耳に心地良い。
「うん、正解。打ちなれてるのかな?石の置き方に迷いがないね」
筒井が誉めるのに、ヒカルは気恥ずかしい気持ちになって顔を赤くし俯いた。
詰碁の問題はあの日と同じ。初歩の初歩だ。あの時のヒカルでも佐為に解答を聞かずに解いた問題だった。
それでも、誉められると嬉しい。
どちらかと言えば今は誉める側にいる事が多いからだろう。
「坊主、小さいのにやるなぁ!」
「打つ音が気持ちいいねぇ、よく打ってるのかい?」
回りで見ていた大人たちにも誉められ、いやぁとますます顔を赤くしていると、筒井がさらに上級の問題を並べ始めた。
「君なら、もう少し難しい問題も解けそうだね。えっと…」
手にしている問題集を見ながら石を並べていく筒井の手を見ながら、ヒカルはウズウズと体を揺らした。
詰碁を解くのも楽しいが、それよりやはり対局がしたい。
碁盤に触れ碁石に触れ、その気持ちは益々高まっている。
「あの…筒井さん」
ヒカルは思いきって筒井に呼び掛けた。
筒井は、突然自分の名前を呼ばれた事に驚いたようだが、胸にネームプレートがある事を思いだし納得した様子で「なんだい?」と笑顔で返してくる。
「その…、詰碁もいいけど、対局…してくんない?」
上目使いになって、対局を申し込むと言うよりは尋ねるような口調でヒカルは筒井を見た。
筒井はまた驚いたような顔で、小さく肩を竦めてこちらの様子を伺っているヒカルを見つめ返す。
「お、いいねぇ、対局!」
「ああ、やってやったらどうだい、兄ちゃん」
ギャラリーたちも面白がって話に乗ってきた。
ヒカルは、緊張しながら筒井が首を縦に振ってくれる事をただ黙って待つ。
打ちたい。打ちたい。
気持ちが逸る。
(筒井さん、お願い!)
願いを込めて筒井の目を見た。
「そうだね、じゃあ一局…」
筒井がようやく頷きながら返事をしようとしたその時だった。
「止めとけ止めとけ。そんな下手くそと打った所でつまんねぇだけだぜ」
ヒカルの背後、頭の上から突然そんな声が聞こえてきた。




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