(碁…打ちてぇな…)
担任が話す授業の内容を上の空で聞きながら、ヒカルは窓の外を見た。
体が小学生なのだから、当然通う場所も小学校だ。
何で今さら小学生の授業をもう一度受けなければならないのかと何処か馬鹿馬鹿しさを感じながら自分の席に座ったヒカルだったが、いざ授業が始まってみて驚いた…
(お…覚えてねぇ…)
確かに一度は通過したはずの学年。
勉強は確かに嫌いだったが六年生くらいなら大丈夫だろうと高を括った自分の方が馬鹿だったと思い知る。
(なんだこれ、全然わかんねぇ…)
黒板に綴られる担任の書く文字にもはやついていけない…
(そういや俺、真面目に授業なんか受けてなかったもんなぁ…)
今さらながら不真面目だった自分を恨めしくなった。
とは言え、ならば今からもう一度授業を真面目に受けようなんて事をヒカルが考えるはずもなく。
(よし。わかんねぇもんは仕方ねぇ。諦めよう!)
潔くそちらの道を選ぶと、窓の外へと視線を投げて青空に碁盤を置き、さっさと石を並べ始めた。
(この棋譜は我ながら会心の出来だったよなぁ…。あ、でも待てよ…、あの押さえの前にこっち切ってたら、もっと良くなるんじゃねぇか?)
そのままひとりで検討に入る。
だが、頭に浮かべた棋譜だけではやがて物足りなくなってきた。
指が無意識に、碁石を探す。
しかし机の上には当然碁石も碁盤も無い。
あるのは、教科書とノート、そして筆記用具だけだ。
(くそっ!やっぱ学校サボってどっかに打ちに行けばよかった…)
そんな事をすれば騒ぎになることは目に見えているけれど、夢の中でなら多少の破目外しくらいは多目に見てもらえるんじゃないかなんて甘い期待もある。
(抜け出してやろうか…)
チラリと担任の様子を伺った。
だって本当なら、今日は手合い日なのだ。
誰かと一局、打っている時間なのだ。
そう言えば近々イベントもあった事をぼんやりと思い出す。
倉田の解説で、久しぶりに和谷と対局するはずだったふれあい囲碁の地方イベントが…
「進藤!進藤!!」
思考を遮るように、大きな声で名を呼ばれヒカルは瞬きをしながら意識を声の方に向けた。
「え?はい?」
自分でも間の抜けた返事だなと思いながら声の主を見れば、
(やべっ!担任だった…!)
ヒカルを呼んでいたのは担任の教師だ。
どうやらボンヤリとしていた事に気づかれたらしい。
「まったく。はい、じゃない。話、聞いてなかったな?」
「え…えーと…」
指摘通りに聞いていなかった為、曖昧に笑って誤魔化してみようとしたがダメだった。
「いいから、さっさと立って教科書を読め!」
「はーい…」
渋々と席を立ち、さて、今は何の授業中だったかとそれさえ忘れていた自分に呆れつつ、手に取った教科書はどうやら歴史の教科書だったようで…
「どっからだっけ?」
隣の席の奴に聞いたら、これまた呆れた顔で読む場所を指され、周りから失笑をかいながら、ヒカルは教科書を読み上げた。
(ああ、そう言えば佐為によく分かんねぇ問題聞いてたなぁ…)
教科書に出てくる歴史の人物名を読むたび、思い出すのはその人物について懐かしそうに語る烏帽子の美丈夫。
けれど…
(ここには、その佐為がいない…)
どうした理由か、碁盤には憑いていなかった佐為…
(佐為が居ないなら、俺はいったい、どうしてここにいるんだ…?)
佐為が居ない事もまた、ヒカルがこの夢に居る理由に繋がるのか…
(俺は、何をすればいい?)
チラリとだけ振り返った斜め後ろの空間。
何も無いその場所に、かつての半身の姿を探して問うても、答えは当然あるはずも無かった。



「ヒカル!」
特に何事も無く一日を終え、このまま帰るかそれとも河合のいる碁会所にでも行ってみようかと考えながら校門をくぐったヒカルに声がかかった。
呼び止められて振り向いた先には、幼馴染みのあかりの姿がある。
「どうした?」
「う、うん…」
ヒカルの側に駆け寄ってきたあかりは、ヒカルの隣で足を止めるとなぜかヒカルの顔をジッと見つめてきた。
正直、居心地が悪い。
この頃のヒカルの身長はあかりより低い。
つまりどうしてもあかりに見下ろされる型になる。
すぐに追い越すと知っていても、自分が小さい事を明らかに実感してしまい、ヒカルは事実から目を逸らすようにあまりあかりと目線を合わせないようにしていた。
「な、なんだよ…」
そのまま黙ってヒカルを見つめてくる視線に耐えきれず用件を促すと、あかりはようやくいつもの笑顔を取り戻し、一緒に帰ろうと誘ってきた。
特に断る理由もない。
まぁ、いいけど。と適当に頷いてあかりと一緒に帰路についた。
今日の授業の事や、テストの事。他愛もない話をひとりでペラペラと話すあかりにこれまた適当に相槌を打ちながら歩いていれば、やがて視界に見覚えのある公園が見えてきた。
ヒカルは誘われるようにフラフラと公園の中へ入っていく。
それを追いかけ、あかりも一緒に公園に入ってくると、
「ねぇ、ヒカル。今度の日曜日って、開いてる?」
不意にあかりがそう尋ねてきた。
「ん?ああ、うん」
頷きながら公園の中をぐるりと見渡す。
夕方の公園は、人がまばらだ。
少しばかり寂しさを感じた所でまたあかりが話しかけてきた。
「だったら、付き合って欲しい所があるんだ」
「えー?俺、買い物に付き合うのとかはやだぜ。女子めんどくせぇ…」
「違うよ、買い物とかじゃなくて…、お姉ちゃんの中学でね、創立祭があるんだって。お姉ちゃんにたこ焼のタダ券も貰ったんだよ。だから、行ってみない?」
その言葉に、体がビクリと強ばった。
「中学って、葉瀬中の…?」
「うん。そうだよ」
一瞬、海王中の制服が頭を掠めたヒカルは葉瀬中と聞いて肩の力を幾分か下ろす。
そうして思い出した。
そう言えばこの公園でやはりあかりに葉瀬中の創立祭に行かないかと誘われた事を。
創立際で思い出すのは、筒井と加賀との出会いだ。
そう。あの場で筒井に出会って、そして中学入学後に筒井の囲碁部へ入るのだ…
(そうそう、まだ小学生なのに中学の大会に連れて行かれて、そんで、勝たなきゃ廃部だって脅かされて、でも、まだまだ俺の棋力じゃ勝つ事は無理だったから、悔し泣きしながら佐為に打って貰って…)
『石の流れを感じなさい』
『ヒカル! あなたは めざめた――』
今でも鮮明に覚えている。
佐為が、ヒカルのために打った、ヒカルに見せるための一局。
石の美しい流れ。
対局者と作り上げる棋譜は、どこまでも果てしなく広がる白と黒の宇宙。
(あれ?そう言えば、その場になぜか塔矢もいたんだっけ…)
ふと思い出した。
そう言えば、あの佐為の一局をアキラも一緒に見ていた。
どうしてアキラがそこに居たのかは知らないが、ヒカルと共に彼も佐為の美しい一局を見ていたのだ。
(ん?けど俺、どうして中学の大会に出ることになったんだっけ?)
だがすぐに眉をしかめる。
どうにもこの夢の世界では、記憶があやふやだ。
中学の大会に出た事は確かに覚えていた。そのきっかけが、自分のポカで加賀に負けた事だった事も、ぼんやりとたが思い出す。
けれど、思い出せないのはその喧嘩の理由だ。
どうして自分は、加賀と喧嘩になって碁を打つ事になったのか…
(あれ?なんだっけ?なんか、凄く何かに腹を立てたような気がするんだけど…)
「ヒカル!ねぇってば!聞いてる?」
「え?あ、おう」
もう少しで何か思い出せそうな気がしたが、先に痺れを切らしたのはあかりの方だった。
すっかり忘れていたとあかりを振り返れば、怒った様子の目がこちらを睨み付けている。
聞いてなったでしょと責められれば、その通りなので謝るしかない。
すると、
「ヒカル…どうしたの?」
唐突にそう聞かれ、ギクリと肩が跳ねた。
「な…にが?」
「うん…なんて言うか…、なんだかヒカルが、いつもと違う気がして…」
女の勘はやはり鋭いようだ。
どこかで微妙な違いを感じ取ったのだろう。
何かを探るように上からジロジロと観察を始めた。
(まずいかな…?)
もしかしてバレてしまうだろうか…
とは言え、正直に話す訳にもいくまい。
実は中身が大人なんですなんて、言って誰が信じるだろう。
いや、夢の世界なのだから、もしかしたら信じてくれるかもしれないが。
それでも、あかりにそれを言う事はなぜか躊躇われた。
「別に、何もねぇよ?気のせいだろ」
ニッと歯を見せて笑う。
小学生の頃、よく見せていた顔だ。
その笑顔に、ようやくあかりは少し安心した顔を見せた。
「そうだね。それじゃ、今度の日曜日、2時に葉瀬中の校門前でね!」
「ああ」
そのままあかりはひとりで先に帰ってしまう。
たぶん、それを伝えたくて一緒に帰ろうと言い出したのだろう。
目的を果たしたらしい後ろ姿は、嬉しそうに弾んでいた。
そんなあかりの背中を見送り、ややしてヒカルはその場にゆっくりとしゃがみこんだ。
深く息を吐く。
体が疲れを感じていた。
慣れない生活のせいか、それとも、別の要因があるのか…
どちらにしろ、緊張がずっと続いている気がする。
今だってそうだ。
あかりと話す事なんて普段は何とも無い事なのに、こんなに気を使うなんて思っても居なかった。
「なんなんだろうな、この夢…」
しゃがみながら、元気にサッカーボールを追いかけている子供たちを目で追いかける。
自分だって見た目は小学生のはずなのに、なんだか全然違う生物であるように見えた。
(子供は元気だな…)
見ているだけで体力を消耗してしまいそうだ。
そのままぼんやりしていると、ヒカルの目に小さな小石が飛び込んできた。
「あは。懐かしいな」
ヒカルは迷わずその小石を手に取った。
薄っぺらい形のその小石は、碁石の形によく似ている。
「そうそう。こんな感じの小石だったよな」
小石を碁石のように指に挟みながら、ヒカルは小さく笑った。
それは、佐為との懐かしい思い出。
この公園に来ると、沢山の事を思い出す。
中でも特に一番の思い出は、やはり佐為との思い出だろう。
この公園で、一緒に石を打つ練習をした。
体を乗っ取られたのではないかと佐為にいいがかりをつければ、佐為にヒカル自身が石を持ったのだと言い返され、試しに似たような小石を掴んで持ってはみたが、案の定小石は指からすっぽ抜けた。
今はもう、この手は当たり前のように石を持ち、そして碁盤に向けて力強く打っているけれど…。
ヒカルはジッと自分のまだ幼い手を見つめた。
その手はまだ、碁打ちの手にはなっていない。
まっさらで、碁石に全く触れなれていない初心者の手。
そう言えば、アキラと二度目に会った時に、この手を見せてくれと頼まれた。
(碁打ちかどうか、確かめる為だったんだな…)
当時は分からなかったが、今なら理解できる。
アキラは、確かめたかったのだ。
ヒカルが本当に、碁打ちなのかどうかを。
石を持つ手もままならい。
打つ時もいちいち目を数えてから打つから遅い。
それなのに、打たれる一手は明らかに初心者とはかけ離れた物で。
終いには指導碁を打たれているのだと気づき言葉を失った。
アキラの中の驚きや戸惑いは、生半可な物ではなかったろう。
(でも塔矢。それは俺じゃない。佐為だったんだ)
そう、自分じゃない。
だから、どんなにこの手を確かめても、答えなど見つかるはずは無い。
(それが言えたら、どんなに楽だろう…)
言わない事で、知らずアキラを追い詰めていた部分もあるのかもしれないと思う。
いつかは話す。そう言いながら、言えずにいるのはヒカルの方にまだ迷いがあるからか…
「そうだ…」
ふっ、とまた、記憶が脳を掠めた。
そうだ。本因坊戦最終局。
これに勝てたら話そう、と。
勝てたら。本因坊になれたら。そうしたらいよいよアキラに告げるのだと、自分はそんな事を考えてはいなかっただろうか…
けれど…
「っつ!!」
そこまで思い出しかけた時だ。
再びまた強烈な頭痛がヒカルを襲った。
殴られたような痛みに煩いくらいの耳鳴りが頭に響いて立っていられなくなる。
朝のあの頭痛と同じだ。
ヒカルが思い出す事を拒むように起こる頭痛。
全ての記憶を、曖昧な物へと変えていく酷い痛み。
「なんなんだ、くそっ!!」
ガクンガクンと頭を揺さぶられ、ヒカルは立っている事が出来ずにそのまま膝から崩れ落ちた。
ドサリと体が横に倒れる。
冷たい地面が半身を冷やしたが、起き上がる事はもう出来そうにない。
意識が混濁していく。
暗くなっていく視界の隅に、公園にいた大人たちが慌てたように駆けつけてくるのが見えた。
ああ、お母さんに心配をかけてしまう…
ぼんやりとそんな事を思ったが、指一本すら自分の意思で動かす事はできそうにない。
苦痛に屈するように、ヒカルは意識を手放した。
その暗闇の向こうに、悲しい目をしたアキラの姿が見える。
手を伸ばそうとして、けれどもやはりその手は途中で力尽きる。
(どんなに伸ばしても、この手は…、届かないから…)
そんな事をどこかで考えながら、ヒカルの手は地面の上に力無く投げ出された。



『キミは…まだ迷っているの?僕の覚悟はとうに決まっているのに…。キミは、まだ僕に話そうとしてくれない。まだ、何かに怯えている。僕が怖いの?僕との関係が壊れるのが怖いの?』
『…そんなんじゃ、ねぇよ…』
『だったらどうして?』
『…それは』
『僕はもう、待てそうにないよ?だって、こんなにもキミを…』
『言うな!』
『僕はキミの事を…』
『言うなああ!』
拒否。拒絶。拒み。心の遮断。
一線が引かれる。
(ダメだ。これ以上、塔矢に近づいてはダメだ!)

終わらせたくない。
このままでいたいんだ。
先になんか、進みたくない。
そうだ。
絶対に…
「アイシテル」なんてそんな言葉…
絶対に、言わない…!!




---------------------

戻る

-6-



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -