深夜の内緒話


 
 夜深く。

 ふいに目が覚めた俺は、布団に入ったまま、ゆっくりと頭だけを動かして時計を探した。以前安定が買ってきた、目覚まし機能付きのデジタル夜光時計。便利だけどただただ無機質で俺的には全然まったくこれっぽっちも可愛くないそれは、暗闇の中でぼうっと薄く、緑色の数字を安定の枕元に浮かび上がらせていた。

 ――午前3時、か。
 起きるにはまだ早すぎるし、もう一度寝よう。
 布団を被り直して目を瞑った。けれど、なんだか喉が痛くて俺はまたすぐに目を開けてしまった。
 喉が渇いている。ガラガラに。口の中が嫌な感じに苦い。
「……ごほっ」
 咳をしてみても調子はまるで戻らなかった。ここ、乾燥しすぎなんだよなぁ。
 仕方なく、俺は起き上がって台所へ水を飲みに行くことにした。隣でぐうぐうと寝ている安定を起こさないように、そっと部屋を出る。
 やっぱり、お給料貯めて加湿器買おう。



 雲が出ているのか今日は月明かりもほとんどなく、本丸中に真っ黒な闇が下りている。
 物音一つしない静まり返った廊下を、少し利く夜目と記憶を頼りにそろそろと進んだ。
 ここを曲がってまっすぐ行って……時折あくびをしながら歩いていると、前方少し先の部屋に灯りが付いているのが目に入った。
「あそこってたしか……」
 部屋の主を思い出した俺は、迷わずそちらへ足を向けていた。


 障子を通してぼんやりとした灯りに照らされると、また少し目が冴えてくる。
 俺は部屋の周りをうろうろしながら、声を掛けようか、開けてもいいものかと考えて迷ってしまった。こんな時間だし、まだ起きているのかもう起きているのかわからないけれど、もしかしたら仕事をしているのかもしれないし……。

「――ふふっ」
 どうしようかと俺が決めかねていると、部屋の中から、小さく抑えた笑い声が聞こえてきた。噴き出しそうになるのを口を押えて必死に我慢して、それでも漏れてしまった笑いのようだ。
 仕事……してるわけじゃないみたいだな。声、掛けてみようかな。
「……主ー? まだ起きてるのー?」
 深夜だから、と控えめに小声で呼びかけてみた。薄い障子戸一枚しか隔てていないんだから、この程度でも十分聞こえるはずだけど、部屋の中から返事はなかった。
 あれ、聞こえてないのかな? それとも俺、無視されてる?

「――ふふ……だめだこれ……」
 他に誰かがいる気配もないし、多分これも独り言だと思う。何がおかしいのか、主はずっと笑いを堪えているみたいだ。
 ……気になる。何がそんなに面白いのか。中で主は何をしているのか。
 だめだと思いつつも、俺はこっそり障子戸に手を掛けて、そーっとそーっと音を立てないように横へ滑らせた。わずかな隙間から目を凝らして中を窺う。

 主は畳にうつ伏せに寝そべって、スマホを見ていた。画面を横にして両耳にイヤホンを差して。――ああそっか、イヤホンをしてたから俺の声が聞こえなかったんだ。
 俺は静かに部屋に入り、戸を閉めた。口を手で抑えながら時折肩を震わせて笑っている主の耳元に、足音を忍ばせて近寄る。
 そして片耳のイヤホンを引っ張って、
「あーるじ。こんな時間に何してんの」
 話しかけると、主は大きく飛び上がって奇声を上げた。
「――うわあっ!」
「ちょっと! もう遅いんだから音量考えて。長谷部辺りが飛んできちゃうって」
 主のあまりの大声に俺は慌てて、しー、と自分の口に人差し指を当てて注意した。いつも大声出すの苦手とか言う割には、なかなか出せるんじゃん。
「ああそっかごめん……じゃなくて! あんたはここで何してんの、なんでいるの」
「俺は喉渇いて起きちゃったから水を飲みに行こうと思っただけ。そしたら主の部屋、まだ電気付いてたから気になってさ」
「だからって勝手に部屋入んないでよ。不審者かと思ってびっくりしたじゃん」
「ごめん。でも一応声掛けたんだよ? 聞こえてなかったみたいだけど」
「……あー、それはごめん。うっかり見ちゃった動画が面白くてさ……関連動画まで漁るつもりはなかったんだけど……」
「……あのさ、もう3時過ぎてるの知ってる?」
「うっそ。……うわほんとだぁ」
 主は手に持ったスマホをササっと操作して時間を確認した。俺の言ったことが本当だと知ると、眉を寄せてちょっと不機嫌な顔をして、さっきまで12時だったじゃんとかなんとかぶつくさぼやいた。
「早く寝ないと肌に悪いよ。それにほら、また朝ごはんの時間に遅れちゃうんじゃない?」
「うーん……そうなんだけどー……そうなんだけどさぁ……」
 こうやって主がだらだらと語尾を伸ばす時は大抵、言うことを聞く気がない時だ。
 ま、俺もそこまで本気で言ってるわけでもないからいいんだけど。



「――あ、そうだ。喉渇いてるんならこれ飲む?」
 話を逸らすためか本当に思い出してくれたのか、主は側にあったペットボトルを俺に差し出してくれた。私の飲みかけでもよければ、と付け足して。
「いいの? ありがとう」
 俺は主の手からまだ半分以上中身が残っているペットボトルを受け取って、お礼を言った。
「これ紅茶? 主好きだったっけ?」
「んー別に普通。それ、無糖だから喉渇いてる時でもいけるよ。全部飲んでいいし」
「本当? ありがとう」
 もう一度お礼を言って、キャップを回し、俺が今まさに口を付けようとした時。
「――あ、口、嫌だったら拭いて」
 主はまたスマホに視線を落として、こちらを見もせずに言った。
 ……口? ……あっ、口!
「――ごめん! 気付かなかった!」
 俺は慌てて口元からペットボトルを引き剥がした。
 そうだ、これ間接的に主と口付けることになるんだ……なんで気付かなかったんだよ、俺。
 首から上、顔だけが急に熱を持ったのが自分でもよくわかる。顔、絶対赤くなってる。どうしよう、主にばれたら恥ずかしくて俺死んじゃうかも……。
 けれど、主は俺の方なんか見ていなくて、ずっと手元の画面だけを見てくれていた。また何か面白いものでも探しているのか、指だけを忙しく動かしている。ちょっと寂しい気もするけど助かった。
「いや、謝んなくていいけど。清光が気になるようなら拭いてくれていいよって」
「……主は、こういうの気にならない人?」
 おそるおそる聞いてみる。多分言い方からして、主はこういうこと、あまり気にしない方なのかも。もともと面倒くさがりでずぼらでいろいろと適当だし。
「うん、まあそんなに気にしないかな。嫌な人は嫌だけど、身内なら全然。……あ、でも相手が嫌がるかもだから一応聞いたり避けたりはするよ」
 ――やっぱりそっか。もしかしたら、俺だからいいよとか言ってくれるかなぁなんて、ちょっとだけ思ったんだけど、そんなことないか。
 それでも、身内って言ってくれたことが嬉しかった。俺は主が間接的に口付けても嫌じゃない相手だって。
 身内ね……仲間とか、家族、とか?
「……俺も嫌じゃないよ。誰でもってわけじゃないけど。だからこのまま……いただきます」
 思い切ってぐいっと一気にペットボトルを傾けた。甘くない、少しぬるくなった紅茶が喉の奥に流れていく。ガラガラに乾ききっていたところが少しずつ癒される。
 できるだけ口元を意識しないように、そのままぐびぐびと、俺は残っていたお茶をすべて飲み干した。


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