トリハナニイロ/10RT(2)
 
 今日はとことん世間一般でいう正しいデートを行うつもりらしい暁臣くんが、ランチを終えて次に向かったのは、とある劇場だった。
 映画ならぬ観劇! うまいとこつくわー。
 車がそこへ向かっていると気づいたときから期待に目を輝かせていた私を見て、暁臣くんもニコニコだった。目論見大成功ってとこかしら。
 その劇場で掛けられていた演目自体は、あまりメジャーでないもの。
 けれど出演者が知る人ぞ知る、というかマニアな関係者の間では雲の上の人とも神とも言われている役者で、彼が出ている舞台には、機会と時間が許せば通いつめたいくらいなのだ。
 今回、箱が小さいだけに客席も少なく、チケットを確保するのが至難の業だったのよ。
 申し訳ないと思いつつ、私は一緒にいる相手そっちのけでその世界を堪能させてもらいました、しあわせ!
 乗せられているのがわかりきっていても興奮が抑えられなかった。
 良いものを観たあとは、頭の芯が痺れたようになって、魂が肉体よりずれた気分になる。そのくせ、思考が活性化していたりして。
 ふわふわと落ち着かない私を見守りながら、暁臣くんが手を引いて歩みを促す。いくらぼうっとしてるからって、迷わないわよ?
 劇場からの流れで入った画廊で、展示をろくに見ず、飲み込んだものを反芻していた私に、おかしそうに彼が笑った。

「まだご覧になっていなくてよかったです」
「チケット取りそこねてたの! この際、権力でもコネでも大歓迎、ありがとう暁臣くん!」
「もっと褒めてください」
「でかした!」
「えーと……期待していたものと違う気がしますが……喜んでいただけたので良しとしておきます」

 らしくなくスキップしそうなほど浮き足立っている私の手を捕らえながら、暁臣くんがふと呟いた。

「茅乃さんは、どうしてあちらの道へ進まなかったんですか? 充分やっていける才能はおありになったでしょう」
「……そうねぇ、まあ、本気で続けていたら、それなりにはなれたでしょうね」

 ここは「そんなことないわ〜」と謙遜するところかもしれないが、訊いたのは暁臣くんだ。小手先の会話をする相手じゃない。

「私、よくばりなのよ」
「はい?」

 きょとんとしたまなざしに苦笑を返す。
 最初の分岐はいつだっただろう。
 演劇サークルを立ち上げたとき? まだあの頃は、ずっと演劇に関わっていくのだろうと思っていた。
 でも、教育実習に赴いたとき、未知数を秘めた子供たちの手助けをする、この道もおもしろいな、って思ってしまったのよね。

「舞台を人生にして生きていくのも楽しかったと思う。でも教師という職業で、生徒の人生の一端に関わることに興味を覚えてしまったの。それだけじゃなくて、他にもたくさん見たいものや、やりたいことがあったし」

 あれもこれもと、貪欲に手を伸ばして、中途半端と言われればそうかもしれない。
 だけど、私はその中途半端をちっとも後悔していないのだ。

「演者としては未熟だから、演劇人として生きたら、他のことは考える余地がなくなっちゃう。私はそれを惜しんだのね」

 たぶん。
 過去の選択から分かたれた未来予想は、永遠にない『今』だ。
 いくつもの選択を経て、今の私がここにいる。

「女優になっていたら、暁臣くんともこうしていなかったかもしれないわね」

 藤岡くんとは婚約していなくて。
 暁臣くんとの接点もなくて。
 弱味を握られて関係を持つ、なんて展開はきっとなかった。
 女優として成功していたら、どこぞのパーティーで擦れ違う、くらいのことはあっただろうけど。

「そうですか? 女優でも教師でも何でも、茅乃さんが茅乃さんであれば、私は好きになっているでしょうし、貴女の気持ちを得るためにどこまでも追いかけますよ」

 至極当然のように口にした彼を、私は真顔で見上げた。

「……嬉しいわ、って素直に言えない気分だわぁ……」
「えっ」

 自分の発言になんの不思議も感じていなかったらしい。私のうっすらとした拒否に暁臣くんが愕然とする。
 だって、やあよ、地の果てまでストーカー宣言なんて。
 実際に似たようなことをされたあげくのこの関係だから、もしもがもしもではないと確信してしまうじゃないの。
 暁臣くんは、まだ何が駄目だったのだろうと悩んでいる。
 どんなものだって手に入る、そんな彼が、私の他愛のない一言に頭を悩ませる様子が、好きだ。
 蓋を開けてみれば、散々だったあれこれがアプローチの結果だったなんて、小学生男子じゃあるまいし、どうしようもないひと。
 だけど、よくわからないところも、どうしようもないところも、しょうがないなって受け入れてしまったときから、私は彼に負けたのだろう。
 このひとの馬鹿なところを、呆れながらもかわいいとか思っちゃうなんてね。

「……そうねー、無記名で紫のバラ送り続けてくれるなら、いつかほだされるときもくるかもねー」
「茅乃さんが望まれるならいくらでもお贈りしますが」

 紫の薔薇か、育てさせるかな、などと真面目にひとりごちる彼に、私は生暖かいまなざしを送った。界隈では超有名少女漫画のネタは暁臣くんには通じないようだ。うん、彼のキャラからして知っていたとしたらそれはそれで微妙。
 今度は庭師に薔薇を用意させる段取りでも考えているのか、暁臣くんが上の空になる。どこを見てるのか、灰色が遠い。
 自分はよそ見をするくせに、彼の瞳がこっちを向いていないことが気になるって、私もずいぶんだわ。
 だって。
 一緒にいる間、彼の目が私を見ていないことなんて、なかったんだもの。
 繋いだままだった手を強く握り直して、注意を引く。
 思索から覚めてこちらを向いた彼に満足しつつ、命じた。

「やっぱり焦れったいから、一度目でちゃんと恋に落としてちょうだい」
「……がんばります」

 私の自分勝手でわがままな戯言に真面目に頷き答えてくれる彼に、「私もがんばって素直を心掛けてみるわ」と宣誓した。
 心の中で、だけれどね。
 


 了.
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