娘っ子たちを教室に送り出し、一人になった私はようやく書類を取り出して目を通す。
今後の処理に、少しは役立つかと思って。プライバシー侵害のバツの悪さは我慢して。――すぐに後悔した。
そこに書かれていたのは、一年前の藤岡くんと私の関係から、高原さんとの関係、そして、そもそも彼が何故彼女と深い関係になったか、という事情も。
これは私が知るべきことではない。
どうして、理事長も前理事もこれを私に渡すんだ。
用済みならとっとと処分しておきなさいよ!
知った事実の気分の悪さを上のアンポンタン親子に八つ当たりすることでまぎらわせ、書類をシュレッダーに掛けるために立ち上がった。
こんなもん、細切れにしたあとは灰にしてやるわ!
そう勢いよくドアを開けて――走ってくる養護教諭に行き合った。
「楠木先生! よかった、こちらにいらした」
息急き切ってやって来た皆川先生が私の腕を引く。つられて小走りになった私はアタフタ。
「え、え。どうなさったんですか?」
「さっきまで大人しく休んでいた高原さんが、急に、楠木先生を呼んで下さいって――かなり興奮しているんです。落ち着かせてやってくれますか?」
理解した刹那、駆け出した。
廊下は静かに、走るな! といつも私が怒鳴っていることだけど、今は許してほしい。
「先に行きます! すみません皆川先生、藤岡先生を呼んできていただけますかっ」
よほど私を探し回ったのか、肩で息をしていた皆川先生は頷いて、走るのを止めた。
このタイミングで高原さんが私を呼ぶ。タチの悪いモイラもいたものだ。
“それ”を知ってしまった私に、どう動けというのか。
苦い思いで、保健室に飛び込んだ。
「――高原さん?」
真白い空間に、少女の姿が見当たらない。頭を巡らせて、ベッドの脇に膝を抱える彼女を見つけた。
「……せんせい、ごめんなさい、ぜんぶ、わたしがわるいの」
泣き腫らした目がこちらを見て、呟いた。不安定さを感じる音程に、眉をひそめて彼女の側にそっと膝をつく。
「なにも悪くないわよ? みんな、認めてくれたから、藤岡先生も大丈夫よ」
ちがうの、と子どものように首を振る高原さんの頭を、刺激しないように撫でる。
「茅乃せんせいの、て、わかってたのに、藤岡先生、やさしいから……わたしを、みすてられなくて、」
感情が振れすぎて、表情を無くした彼女の瞳から新しい涙がこぼれ落ちる。
ひく、としゃくりあげる苦しげな呼吸に、たまらなくなって、私は高原さんを抱きしめた。
ったくもうあの馬鹿、アンタの守り方ツメが甘いのよ、早く来なさいっての……!
「だめ、せんせい、汚れる……、汚れてるの、わたし、」
――いっぱい、知らないひとに、抱かれてたから――
譫言のようにささやかれた言葉に、唇を噛んだ。
私は、恵まれていたと思う。
それなりにお金に困らない家に生まれて、好きな生き方を許されて。この学園に通う生徒たちから見れば、中の中の家柄ってことになるんだろうけど、少なくとも、高校大学と私立に通って困らないだけの家庭環境だった。
愛情を持って、時に厳しく両親に育てられた。普通に――それが当たり前だと、不思議にも思わず、成長した。
だけど、その普通が当然でない家庭もあるのだ。
親が子を殺し子が親を殺す、哀しい、やりきれないニュースが流れる。
大人が、その文字の通り、“おおきい人”なだけだという出来事が毎日のように起こる。
様々な人がいて、それが世界。残酷な、世界。
親が子を売っても、おかしくない――おかしな世界。
何故、財も位にも困っていない名家と言われる高原家が、そんなことを彼女に強いていたのか、わからない。
愛娘であるはずの存在を、娼婦のように多数の権力者に貸し出して――何を得ていたのかなんて、理解したくもない。
調査書類に書かれていたことと、彼女自身の口から語られる断片に忌々しいものを感じながら、あえて軽く言ってのける。
「誰かに抱かれたのが、汚れるって言うなら、私だってそうよ? 彼だけじゃなくて、関係を持った人は他にもいたわ」
「それは、違います……っ、わたしは、恋人でも、好きなひとでもなく、名前も知らない相手、と、たくさん……!」
それ以上自分の傷を抉るような言葉は聞きたくなくて、彼女の唇に指を当てた。
荒療治かもしれない。
表面を撫でただけで、なにもわかっていない私が訊くのは、更に彼女を追いつめることになるかもしれない。
でも、今しかないと思ったのも、確かで。
全て、吐き出させた方がいい。
「自分が選んで、そうしてたの?」
彼女はゆるりと首を左右に振った。
でも、逆らわなかった……、小さな声が答える。
「別にいいや、って思ってたの?」
今度は激しく頭が振られる。
声が出ないかのように喉元を押さえ、唸り、否定の言葉を紡ぐ。悲鳴がこぼれる。
「……い、や、だった……、いやだったいやだったいやだった……!」
――だからもう、わたしを消してしまおうと思った。
そう思ってたのに。
藤岡先生に、助けられてしまった……、
振り絞るような慟哭に、胸が痛む。
望まぬ行為を、本来は守ってくれる親に命じられ、他人に身体を好きにされる。
それは如何ほどの苦痛と絶望か。
彼女はまだ、男女のこともわからないような時分から、そんな扱いを受けていたのだ。
経緯はわからないけれど、藤岡くんが気づいて、彼女を彼女の家の因習から解放するまで。
「高原さんはねえ、傷つけられたの。暴力を振るわれて、怪我をしたの。見えないところに、ひどい傷を負わされて、それがまだ治ってないんだ。――大丈夫、ちゃんと治るから――藤岡くんが、一緒に、治してくれるから」
静かに近づいてくる気配に、確認するつもりで、そう言って。
気づかない彼女は尚も首を振る。
「……藤岡先生は、わたしに、同情してらっしゃるんです。わたしのことを知ったから、だから、本当は、楠木先生と」
「それはない」
合わせるつもりもないのにハモってしまった。
「同情で職を失う覚悟が出来るかこのバカ」
走ってきたのか、僅かに荒い呼吸を吐きながら、床に座り込んでいた私たちに合わせて、藤岡くんはその場で胡座をかいた。
その厳しいまなざしから逃げるように、高原さんは私の肩に顔を隠す。
いやいやいや。なついてくれるのはいいけど、盾にするなー。
彼女が目を合わさないのが気に入らないのか私になつくのが気に入らないのか(絶対後者だ)、眦も厳しく、藤岡くんは深く息を吐いた。
「ずっと、そう思ってたのか? 俺が、同情でお前と、って」
「でも、……だって、……」
――最後まで、抱いてくれなかった。
消え入りそうな声は、涙に濡れて、二人の間に落ちる。
ていうかまだ手を出してなかったのか。実は頑張ってたんだな、藤岡!
書類によると、彼女は今藤岡くんの身内の預かりになっている。
当たり前だ、いくら血の繋がった家族でも、また利用され搾取されるだろうことを知りながら、置いておけるわけがない。
そして、藤岡くんの実家は高原より権威がある。
嫌がっていた家の力を借りてまで、彼女を守った事実が、彼の気持ちを示しているというのに――どうせ言ってないんだろう。
苦虫を噛み潰した表情の藤岡くんと、視線が交差して。私にしがみついていた高原さんの手を軽く叩いて、腕を抜く。
赤い目が、不安げに見上げてくるのに笑って。
「大事だから、怖くて触れないってこともあるの。藤岡くんヘタレだし尚更ね。――思ってること、全部話して、きちんと聞きなさい」
「……美音」
手を差し伸べて、藤岡くんが彼女を呼ぶ。
まだためらう彼女の背を押して、引き寄せたその腕の中にぴったり納まるのを見届けてから、立ち上がった。
「いまさらソレ返品されても困るんで。高原さんがちゃんと引き取ってちょうだいな」
ごめんなさい、と重ねられる言葉に、立ち止まって振り返る。
瞳を潤ませたまま、キョトンとする彼女の頬を摘まんで。
「言われるなら、ありがとう、の方が、私は好きよ?」
言い聞かせるように区切りながら告げる。
素直に礼の言葉を生む途中でふにゃりと崩れた面に、もう大丈夫だと安堵して、軽く手を振って保健室を出た。
扉の外で様子を窺う皆川先生に、もう少ししたら声をかけるように言付けて、廊下を行き―― 一人になったところで、深いため息をつく。
どうして、今、ここにいないのと、胸の中で彼を詰る。
一人で立ち向かうには、荷が重かった。
会いたい。
会いたい。
もう、最初の始まりなんてどうでもいい。
だって、わかったんだもの、結局最初から――全部赦していた。
無意識下にあった気持ち。
だから、早く――……、
「貴女の払った犠牲も知らず、甘えるのも大概にしろ、とは思わないんですか」
ヒヤリとするような酷薄な声が、私を我に返らせた。
視線をゆっくり上げると、そこにいたのは、――香坂くん。
「なにが、かしら……?」
私の問い掛けには答えず、彼は静かな微笑みを浮かべる。
「楠木先生に、折り入ってお話が。よろしいですか?」
否、と言える雰囲気ではなかった。
ちょうど私の方からも、報道部に頼むことがあったし――と、苦手意識と今日何度目かになる嫌な予感を無理矢理押し退けて、部室に彼を招き入れる。
「藤岡先生の処分は軽くで済んだようですね」
本棚のふちに手を滑らせて、並んでいる書物を眺めていた彼が、まず口火を切った。
「……ええ、事情を考慮されて」
それでね、報道部に――と、続けようとした私の言葉は、「残念だな」と被さった声に遮られる。
「馘になれば良かったのに。また、貴女が庇われたんですか」
吐き捨てるような言い方に驚いて彼を見ると、いつの間にか距離が近づいていた。
知らず、一歩引いて。
そうと意識する前に、壁に両手をついた彼が、私を中に囲い込んだ。
身がすくむ。
「そもそも藤岡教諭のせいで、貴女があの男相手に苦渋を舐めねばならなかったというのに、お人好しもほどほどになさらないと」
彼が発する鋭い空気と、穏やかな声音がアンバランスで、私は身体を強張らせ、動くことができない。
危うい均衡が、身動ぎしたとたん崩れそうで。
そして、香坂くんの言葉が。
私と、理事長の取引を、知っているかのような口振りが、思考を止めた。
「貴女のその心の広さは、あの男や俺のような者に、付け入る隙を与えるばかりだ。こんな風にされても、俺が生徒だから、強く抵抗できないんですよね。――ほら、今もまだ、何かの冗談じゃないかと思っている。冗談なんかじゃ、ありませんよ?」
壁に背中を預け、身動きできずにいる私の首筋に彼が顔を寄せた。チリ、と耳元に痛み。肩が跳ねる。
止まっていた時間が急に動き出したように、身を捩って逃れようとすると、簡単に片手で両の手を掴まれ、強く抱き込まれて。
ぞく、と背筋が粟立った。
あのときも。
子どもといえど、青年になりかけている異性の力には敵わなかったのだ。
一年たった今は、もう、大人の男性と変わらない――
「っ香坂くん……!」
「好きです」
息を飲んだ。
その言葉が、冗談や一時の気の迷いなどではなく、本物の熱を持っていることに、気づいて。
目を見開いて、私を拘束する十も年下の男の子を見つめる。
いつか誰かの目の中にも見た昏い炎が、彼の中にもある。
何も、言えなかった。
「あの男よりずっと先に、貴女を好きになったのは俺なのに」
「……っ、」
「生徒である俺の気持ちは、貴女にとって迷惑にしかならないと、黙っていたのに――あんな男に奪われるなんて」
それも、卑怯な手段で。
静かに憤る声に、血の気が引く思いをした。
知られている。
ひた隠しにしていた秘密は秘密でなくなって。そして、今、もうひとつの秘密も。
「なにを、」
しらばっくれようとした私の声は上擦って、目的を果たせない。香坂くんは、そんな私を見て目を細める。
「藤岡教諭の進退を質にとられ、貴女が古賀理事に肉体関係を強要されていたこと――調べはついています」
ジャーナリスト志望は伊達ではないんですよ? そう言って、彼は小さなUSBメモリを目の前にかざした。
香坂くんの性格と能力から考えて、ハッタリなどではない。
今ここで、それを奪っても、コピーは存在する。きっと。
薄い笑みを浮かべたまま、覆い被さるように見下ろす香坂くんを睨む。
「……何が目的」
「あの男と別れて、俺のものになって下さい」
――逆らえば、しかるべき場所にこの件をまとめた記事を発表しますよ――
それは、まぎれもなく脅迫だった。
立場を盾に取り、職員である女教師を愛人として扱っていた理事。
彼のバックグラウンドもあわせて、それは面白おかしく騒ぎ立てられるだろう。藤岡くんたちの比ではない問題になる。
要職についている理事長には致命的な醜聞。
「彼を卑怯だとなじっておいて、同じことを要求するの……!?」
語気を荒げて叫んだ私に向けられたのは、自嘲まじりの笑みだった。
「――そうでもしなければ、貴女は俺のものにはならないでしょう?」
……どうして。
ここまで執着される心当たりなんてないのに、何故、脅迫してまで、私を。
「先生次第ですよ」
どうします? と。
いつか聞いた問い掛けを、また、違う相手にされることになるとは、思いもしなかった。
あの時と、似て非なる状況。
目の前の少年が、肩に流れた私の髪を梳く。
立ち尽くし、ただ睨みつけるしか出来ない私に、笑んで。指先に絡めた髪に口づけて。
低く、宣告する。
「あの男を破滅させるも救うも、貴女次第だ」
――ぎゅっと目を閉じた。
暗闇に沈んだ部屋に、微かな電子音が響く。緩慢な動作で起き上がって、バッグの中から携帯電話を取り出した。
「――はい」
【……茅乃さん、】
ずっと、聞きたくてしょうがなかった声。
やっと連絡できた、と独り言めいた呟きと吐息。疲れているためか、それは甘く耳に届く。
【そちらの様子はどうですか】
「……うん、なんとか大丈夫そう。暁臣くんのほうこそ、海外からこっちと連絡取り通しだったんでしょう? ちゃんと休んでるの」
いつも通りにツンとした声を出すと、微かな笑い声が聴こえて、胸がいっぱいになる。
――暁臣くん。今すぐここに来て、抱きしめて――
無理とわかっている願いを、口にすることはないまま、ポツリポツリと言葉を交わして。
ふっと空白が出来たあと、向こう側の暁臣くんが、意を決した様子で、告げる。
【もう数日したら、そちらに帰ります。……その時に、お話があるので】
「――ええ。私も、話したいことがあるわ」
彼の気配が残る通話の切れた電話を、しばらく握りしめていた。
選んだのは、私。
ひとしずくだけ涙を流すことを自分に許して、唇を噛んだ。
(初出:'10/12/30,改稿:'11/03/15)
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