(二)
 
「顔色が優れませんが、ご気分でも?」

 ぼうっと考え事をしていた私は、側にそっと立った少年の声に顔を上げる。

「ミネラルウォーターです。どうぞ」

 ボンヤリしたまま渡されたグラスを受け取り、よく冷えた水を一口飲んでから、少年に見覚えがあることに気付きギクリとした。
 ……うちの生徒だ……!
 ドレススーツなんか着てるからわかんなかったけど、報道部の部長香坂くんじゃないの!
 幸いにも私だと気付かれていないようで、単に気分の悪そうな人を見付けたから親切にしているらしい。
 あわわ。バレないうちに離れたほうがいいわよね?
 なるべく目を合わせないようにして、椅子から立ち上がった。

「随分マシになりました、お気遣い有難う」

 軽く会釈して、もう理事長は構わず先に部屋へ戻ることにする。――しかし。

「まだ良くなさそうですよ。休めるところまで案内しましょう」

 その親切心は、先生なら誉めたいところなんだけど、今の私には大きなお世話なのよ〜。

「いえ、上に部屋を取っていますから……」

 結構です、という私の言葉は最後まで言うことが出来なかった。

「ではそちらまでお送りします」

 スッと手を取られて先導される。
 まさかそんな行動に出られるとは思ってなかった私は、虚を突かれて、されるままになってしまった。

「あの、ちょっと……」
「ごめんなさい、席を外す口実になってもらえますか? 父に連れられて来たものの、居場所がなくて困ってたんです」

 コソリと眉を下げて言われた言葉に納得する。その気持ちはよくわかる。
 エレベーターまではいいかと諦めて、会場を出ることにした。
 理事長に何も言わないで戻っちゃうけど、居ないってわかったら連絡してくるわよね。私をほったらかしにした彼も悪いんだから。
 そう、思って。

「古賀さんの婚約者でしょう? 一緒に来られたの見てました」
「あ…えぇ、まぁ……」

 よほど退屈していたのか、道すがら話しかけてくる彼に、私は内心冷や汗をかきまくりだった。
 直接受け持ったことはないけれど、何だかんだで話す機会も多かったし、ついこの間まで報道部には張り込みされてたし。私が楠木茅乃だってわかったら、すごく困ったことになりそうだ。
 適当に相づちを打って、うつ向いていた私はエレベーターホールとは違った方向に歩いていることに気付いていなかった。

「……に、―――ですか?」
「え? ごめんなさい、今何て……」
「本当にあの男でいいのかと聞いたんです」

 は……?
 顔を上げると、香坂くんが恐いくらい真剣な顔で私を見ていた。

「あまり女性関係でよい噂を聞きません。使い捨てのように女性を抱いて、飽きたら捨てるを当たり前にしている男です。貴女もいつ、そうなるかわかりませんよ」

 それは初耳。
 やたらオンナ慣れしてるから不思議じゃないけど。
 そもそも私、婚約者じゃないもんね。最近忘れがちだけど、脅されて関係持ってるだけだし。
 いやそれより何故、香坂くんは初対面の他人の恋人を心配してるの?

「……私は大丈夫です。ええと……噂話で人のこと、判断するのはやめたほうがいいわ。余計なことでしょうけれど」

 ああダメ、教師根性が出ちゃう。生徒だって思うからかしら。
 ん? てゆーかここドコ?
 抑えめの照明でよくわからない。人気のない通路にいつの間にか来ていたことにようやく気がつく。キョロキョロする私に香坂くんは低く、感情を抑えた声で呟いた。

「……そんなにいいんですか。貴女を偽らせた姿で連れ歩くような男なのに……」

 ――え?

「……ぅ! んゃ…ッ、」

 腕を掴まれ壁に押さえ付けられる。唇を塞がれて初めて危険を感じた。
 何か、こんなこと前にもなかった?

「俺のほうがずっと……っ」

 がむしゃらに唇を重ね身体をぶつけてくる彼に、私が感じたのは困惑と、恐れ。
 まだ少年、十も違うとはいえ、私より背も高く力も大人と変わらない強さを持つ相手に、抵抗しようにも出来なくて。
 首筋に熱い痛みが走る。

「――いや……! ゃめっ、理事長……っ!!」

 頭に浮かんだひとに助けを求めて、その無意識に自分が驚く。

「っ、どうしてっ……」

 苦しそうに問掛けられ、私は頭を振った。自分の意思に反して震える身体。逃げなければと思うのに、力が入らなくて座り込んでしまう。
 どうして、なんて私が聞きたい。
 どうして、こんなこと。
 どうして、
 ……どうして私、あの人を呼んだの――?
 自分で自分がわからなくて、今いる場所が揺れる。
 座り込んだ私をじっと見下ろす香坂くんは、生徒として接する時には見たこともない顔をしていた。

「――俺は認めませんから。あんな男に、貴女を奪われるのは我慢ならない……」

 その時の私は、香坂くんが全部知っている素振りだったことも、彼の言った言葉の意味もわからず、ただ混乱した心を抱えて、彼が去った後もその場に凍りついていた。
 
 
「茅乃さん!」

 どのくらい時間が立っていたのか、フラつきながらエレベーターホールに戻った私に、息急いた理事長が駆け寄ってくる。

「姿が見えなくなったから……どこへ行かれたかと」

 ほっとした表情の理事長を見た途端、安堵が広がって、戸惑う。
 最初の最初、力ずくだったのはさっきの香坂くんと一緒なのに、何が違うのか。
 身体を重ねた回数? 立場の違い? それとも――

「茅乃さん? どうされたんですか? 何か……」

 引き寄せられる手に嫌悪は最初からない。今は冷えた身体に、その体温が心地よくて。
 寄りかかりそうになって、ハッと体勢を立て直した。
 どうしちゃったの、私。
 慣れない場所で、らしくない私になって、……あんな事があって、だからおかしくなってるんだ。

「何でもありません、迷ってしまって」

 冷えて痺れたようになっている指先を握り込み、私は笑顔を作る。

「……何でもないようには見えませんよ。これは何です?」

 スッと首元をなぞられ、初めて気付いた。
 吸われた痕。

「私が付けたモノでは……茅乃さん?」

 眉をひそめた理事長は、カタカタ震え出した私に、様子がおかしいと気付いたのか顔を覗き込んでくる。
 強く目を閉じて、首を振った。まるでさっきの出来事を振るい落とすように。
 生徒に襲われかけたなんて言えない。大人なのに情けない。
 まして恐かった、なんて。

「大丈夫……、何でも、」
「ない訳ないでしょう、そんな顔をして」

 苛立たしげに言ったかと思うと、彼は私を抱き寄せた。そのままエレベーターに乗り込んで、勿論向かったのは宿泊予定の部屋。

「――誰に、何をされたんです?」

 ベッドに座らせて、うつ向く私と目線を合わせるように跪いた理事長は、他人が触れた痕をなぞりながら訊いてくる。

「言いたくないって言ったら……?」
「言わせますよ?」

 言外にどんな手を使っても、という意思を含ませた彼にため息を付いて目を反らす。

「……誰か、は知りません。気分が悪くなったので、休もうと思って廊下に出たら絡まれたんです」

 抱きつかれたくらいですから、大丈夫です、ビックリしただけですと言い張って。
 嘘をつく。
 香坂くんが、何故あんなことをしたのか理由がわからないかぎり、理事長に彼の事を言わないほうが良いと、何となく思った。
 沈黙した理事長を、騙せたかはわからない。
 疲労がピークに達していた私は、彼と言葉の攻防をする気力もなく、黙りこんでいた。

「……すみません。私が貴女を一人にしたせいですね」

 守れなくてすみません、とそっと抱きしめてくる腕に、やっぱり安堵しか感じなくて、身体を委ねてしまいそうになった私は焦る。
 こんなふうに、彼に依存するのは良くない。
 その先に生まれるものを恐れて、私は彼の胸を押し返した。軽い拒絶に理事長は目を眇る。

「もう、この扮装取っても良いですよね? お風呂入ってきます」

 胸の中から抜け出して、バスルームに足を向ける。
 だけど、背後から伸ばされた腕に再び抱きしめられて。目を瞬く私に、落とされるささやき。
 ……抵抗しようと思えば出来たけれど。
 
「……ふ……っ、ぁ、ん……」

 濡れた肌に舌が這わされ、ふくらみを舐め吸われる。
 荒くなる息遣いと、肌を舐められるいやらしい音が熱気にこもった浴室に響き、いたたまれない気分になる。
 付けられた痕を辿る唇が、上書きするように強くその部分を食んで、刺激に跳ねる身体を理事長に押さえ付けられた。

「やっと、茅乃さんを抱いてる気がしますね」

 ボウッとした瞳を向けて意味を問うと、化粧を落とした唇にキスをされた。

「ドレスアップした姿も素敵でしたが、どうも、浮気しているような気分になって、しかたなかったんですよ」
「っあ、んぁ……ッハァ、んん………」

 くちづけされながら長い指で内側をえぐられて、身体をよじる。
 グチュグチュと音を立てているのは、わずかな隙間から流れ込む湯水なのか、溢れ出る蜜なのか。
 ゆっくりと入ってくる彼がもどかしくて、焦れったい。

「ん……、ふ、ふぁ、ぁん……」

 湯を張ったバスタブに向かい合せで抱き合ってつかり、すがるように彼の首に腕を回す。
 頭が熱に浮かされたようになっている私は、ワケのわからない感情の高ぶりに支配されて、涙を流していた。
 気付かわしげな顔をした理事長が、何事か尋ねたそうに口を開けるのに首を振って、私はねだる。
 何も考えられなくなる快楽を。
 突き上げられる度バシャパシャと水が撥ねて、嬌声が響く。
 くぐもる吐息も大きく響いて、耳も犯されてるみたいだった。

「んぁ、あ……ッ、っり、じちょ……」
「……暁臣ですよ、茅乃さん」
「っ、ん、ぁき、暁臣……ふ、くぁああっん……ッ!」

 昇りつめた身体をグッタリ彼に預けて、乱れた髪をすく手を心地よく感じて。
 のぼせそうになっているのに、まだ離れたくなかった。
 ――離れたくない、と、思ってしまった。

「……茅乃さん、大丈夫ですか?」

 そっと胎内から彼が抜き出されるのを感じて、自分から呑み込むようにしがみつく。

「っ、茅乃、さん……?」
「や……、まだ……抜いちゃ、ッぁあん!」

 肉壁に締め付けられた彼のものが更に大きくなって、私は高い声を上げた。
 再び動き出した理事長は、さっきより激しく私を揺さぶる。

「……あまり煽らないで下さい……必死で抑えているのに――」

 切なげに眉をひそめる彼に、唇を寄せた。腰を揺らしながら舌を絡めて、抱きつく。
 正気に戻った時にものすごく後悔しそうだけれど、今は何も考えたくなくて。
 余裕がなくなった理事長が、何度も私の名前を呼びながら、その瞬間を迎えるまで。

「は……、茅乃さ……、茅乃……ッ」
 
 その声を甘く受け止めて。気付いてしまった気持ちに蓋をした。
 どうして、なんてわからない。
 いつから、だったのかもわからない。
 
 自ら飛び込んだ鳥籠のなか。
 いつしかその檻に心まで囚われて。

 夢の覚めるその刻を、震え、恐れながら、鍵を掛ける――――


 
(2010/09/22改)
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