T. How came it to be so?
▼ 06. ふりだしに戻る
薄暗い空間に吐き出された吐息が、他人事みたいに思えた。
重ねられる唇が角度と深度を変えては触れて離れるたびに、濡れた音が生まれてこぼれる。
「は、ぁ、んむ……んっ、……っ」
息を奪われる苦しさにもがいても、晶子を捕らえた腕は緩まない。どころか、なにやらあちこちを撫で擦られ揉まれているような。
寝台に横たえられた彼女は、身体の上に覆い被さった宇都木に、くちづけと緩やかな愛撫を与えてられていた。
――どうしてこんなことになっているのだ。
今頃そこに思考が辿り着く。
彼と会うのは今日で二回目。
何故か初対面で婚約が決まり、エンゲージリングとマリッジリングを揃って購入され、考え直せと言う意味で“お互いのこともちゃんと知らないのに”と述べればまたもや何故かこちらの詳細なプロフィールが知られていて――あれ、どうして知っているのか教えてくれるんじゃなかったっけ? 『ちゃんと知り合う必要があるね』って、宇都木さんが言って――着いたところは、彼の家で、理想のキッチンに浮かれていたら――何故、キスをされているのだろう。
ざらりと舌が舌を舐めて、擦り合わされた粘膜により溢れた唾液を啜られ飲み込む。
息をしようとするたび漏れる声が恥ずかしくて、頭が熱くなる。
――どうしてキスなんてされているのだ。
宇都木の行為を受け止めるのに必死な一方で、そう首を傾げている自分がいる。
どうして、宇都木は、自分などにキスをしているのか。
くちづけは、想い合うもの同士がするもので、自分と宇都木はそうではないのだから、間違っている。
好きでもない相手にキスされて、気持ちいいかもしれない、などと思う自分も間違っている――
「……んぁ……っ」
ちゅっ、と音を立てて唇が離れる。荒い息を忙しなく吐いて、訳もわからぬまま施された熱に全身を染め、潤んだ瞳で晶子は宇都木を見上げた。
宇都木に散々と吸われ噛まれ舐められた晶子の唇は、赤く腫れてぽってりと膨らんでいた。
グロスはとうに舐め取られたというのに、更なるくちづけを求めるように濡れて光っている。
薄く開いた口から覗く白い歯と舌先がひどく艶かしい。
自分が、どんな表情をしていて、男にどんな影響を及ぼしているのかなど、晶子にはわからなかった。
自覚なく女の顔を見せる晶子に、目を細めた宇都木は、再び彼女の唇を塞いだ。
晶子はくぐもった声を漏らし、首を振りのし掛かる男の胸を押し返そうとする。
そんな可愛らしい抵抗も、彼の欲を煽るだけ。
無駄な抵抗を続ける彼女を堪能しても良かったが、今は時間がない。宇都木は片手で晶子の両手を掴み、頭上で押さえ込んだ。
「っう、うつぎ、さん……!」
混乱してされるがままだった晶子は、そこで初めて自分の状況に恐れを抱く。
どういうわけか、抱きしめられてもキスをされても、ベッドに押し倒されても、一般的な危機感を持った他には、驚いて困惑して恥ずかしいとは思ったが、彼自身を恐ろしいとは思わなかったのだ。
晶子の瞳に浮かんだ怯えに、宇都木は微笑んで、押さえていた手を離し、指同士を絡めるように握り直した。
額、瞼、こめかみ、鼻先、唇と、子ども相手のような触れるだけのキスを落とし、晶子のこわばりを解いていく。最後に、羞恥に染まった頬に軽く噛みついた。
「んゃっ」
奇妙な声を上げた晶子は、拗ねるように宇都木を睨んだ。
くつくつと喉を震わせて彼は笑い、晶子を引き起こして、膝の上に横抱きにする。
身体に凝(こご)る微熱のようなだるさに気を取られていた晶子は、逃げるという選択肢を思い付かなかった。
ゆるゆる頬を撫でられて、くすぐったさに身を竦める。
酸欠になりそうなくちづけを何度も受けたせいか、頭がぼんやりしていた。
だから。
「僕に、こんなふうに触れられるのは嫌?」
その囁きに、よく考えずに首を振ってしまった。
自分とは違うがっしりした腕も厚みのある胸も、ほんの少し怖いと思うけれど、支えられると安堵する。
寄りかかって大丈夫と思えるような、安心感。
ただ、どうして彼がこんなことをするのかだけ、わからなくて、不安を覚えた。
「ど、して」
嬲られすぎて痺れた舌で、問いかける。
疑問を示すだけの言葉だったが、宇都木は間違うことなくその意味を読み取った。
「知り合おう、と言ったよね?」
悪戯な笑みを含んだ声に、瞬く。
ゆるりと首を動かし、宇都木を見上げた晶子は、キャミソールの裾から入り込んだ手のひらに気づき、息を飲んだ。
「え、あ……やっ、な、」
「結婚するんだから、ちゃんとお互いのことを知っておかないとね――こちらの相性も」
今のところすごく合ってると思うよ、僕たちは。
強弱をつけて素肌をなぞる宇都木の手のひらに意識を奪われた晶子は、彼の言った言葉の意味の、半分も理解できなかった。
気持ちいい、なんて間違っている。
まだ二回しか会っていない、どんな人なのか全然わかっていないのに、身体に触れられて――嫌悪を感じない自分が、ひどく簡単な女に思えた。
宇都木じゃなくてもこうなるのか。
異性に、欲をもって触れられたことなどないけれど。
誰が相手でも、気持ちよく感じてしまう身体は淫乱とか言うのではないか。
初対面に近い、好きでも嫌いでもない男に、キスされて、素肌に触れられている現状に、晶子は自分自身を
詰った。
「やけに大人しくなったね。抵抗しないの?」
笑いを含んだ宇都木の言葉にも反応できない。
彼の片手は晶子の服の内側に潜り、下着の更に中に入り込み、胸の飾りをなぶっていた。
もう両手は解放されている。はね除けようと思えば、はね除けられる。
しかし、やわやわと双丘を揉みしだかれるたびに身体に走る電流のようなものが、抵抗しようとする動きを阻害した。
「――晶子?」
耳の奥から胸まで吹き込むように、名前を呼ばれる。
「素直なのは可愛いけれど――自失している君に触れても楽しくないな」
自分を失ってなんていない。そう思って、宇都木を見上げたが、頭はボウッとして、うまく物を考えているとは言いがたかった。
「……初心者に刺激が強すぎたか」
ひとりごちるように呟いて、宇都木は晶子の肌から手を離した。
子どもの面倒を見るように、彼女の乱れた衣服を直して、ぼうっとされるままになっている晶子の頬を軽くつつく。
パチリパチリ瞬いた晶子の瞳が、視線を合わせた宇都木を認めたことを確かめ、額にキスを落とした。
さっきはもっと深いところに触れようとしていたのに、それだけで肩をはねさせて、晶子は真っ赤になった。
戻ってきたようだ。
「僕の何が知りたい?」
宇都木はとりあえず晶子のペースに合わせることにして、彼女の疑問に応えるための場を作る。
「……、……ぁ、あああのですね、どうして私に、こんなこと」
「さっきも言ったけど、結婚するんだから、触れ合うのはあたりまえだよね?」
「わっ……私、宇都木さんと結婚なんてできませ」
「どうして?」
「すすすすきなひとじゃないからです!」
「僕以外に好きな人がいるの?」
だから――宇都木以外にって――宇都木も好きではないと、言っているのに。二の句が告げず、ぱくぱくと口を開閉する晶子に、宇都木は微笑んで今度は彼女の鼻先にキスを落とした。
「大丈夫、晶子は僕のことを好きになるから」
断言された。
「うっ……宇都木さんだって、私のことを好きな訳じゃないですよね? 結婚は、やっぱり、好きな人とするべきです!」
「好きだよ?」
え。
何を言っているのかな、と困った子を見るように目で、宇都木は晶子を見つめた。
「まあそりゃ、命をかけて愛しているとか君がいなくちゃ夜も明けないなんていうほど、まだ情熱はないけれど、ちゃんと可愛いと思っているし、その辺の女より好ましいと思ってる」
少なくとも結婚しても良いくらいには、気に入ったから話を進めたんだけど?
晶子は困り果てた。宇都木の言っていることが全くわからない。
――好き? 誰を?
――可愛い? 誰が?
――気に入ったって、何をどこをどんな理由で、気に入られる要素など自分にはさっぱりないはずなのだが。
「晶子? 難しく考えないで、ハイかイイエで答えて」
ぐるぐると再び思考の泥沼にはまりかけた晶子を、宇都木が呼び戻す。
眉をハの字にした彼女の情けない顔に、吹き出すのをこらえながら、ゆっくり質問を始める。
「僕が恐い?」
「……イイエ」
「僕のキスは気持ち悪かった?」
「……イイエ」
「他の人にもされたい?」
「……イイエ」
「結婚したくないほど、僕が嫌なの?」
「……イイエ」
「僕のこと、嫌い?」
「……イイエ」
「じゃあ好き」
「ハ……どっちでもないです!」
危ないところだった。
言葉の曖昧さに惑わされて更に晶子はわけがわからなくなる。
クックッ肩を震わせている宇木都を、毛を逆立てた猫のように晶子は睨んだ。
「嫌いじゃないなら好きなんだよ。ね?」
ね? じゃない!
「き、嫌いとか好きとかはっきり言えるほど、宇都木さんのこと知らないから!」
「じゃあひとつひとつ、好きか嫌いか教えてあげる。――式の日まで、ゆっくりとね」
だから、そうじゃなくて――! 晶子の訴えは、再び塞がれた唇に吸い込まれた。
軽く触れるようなくちづけから、食らいつくされるようなくちづけまで、数年分のキスをされている気がする。
晶子は酸欠になりかかってボウッとした頭でそう思った。
自分とキスをして、彼は楽しいのだろうか。
執拗にこちらを舐めてくる舌に、本人も自覚のないまま応えつつ、彼の与える感覚から必死で逃げるために、いらぬことを考える。
それに、確か自分はお断りの言葉を告げたはずなのに、どうしてまたこういうことになっているんだろう。わからない。
わからないといえば、まったくもってさっぱり全然彼がわからない。
初対面で結婚なんて、決められるもの? しかも、いままで誰にも見向きもされなかった娘を進んで選ぶ、なんて。
姉や妹ならわかる。身内の目から見ても彼女たちは魅力的だし、社交的な性格だから、初めて会う人もあっという間に二人に惹かれるから。
でも晶子は、『じっくり付き合えば味のある女の子(勤務先上司談)』だけれど、一目惚れなんてされるタイプではないのだ。
宇都木も簡単に一目惚れするような男に見えない。
なにか目的や理由がない限り、自分など相手にしないのではないだろうか。会ったことはないと言ったが、晶子のことを事細かく知っていたことといい――そうだ、きっとそうに違いない。
閃いた蜘蛛の糸のような希望に、晶子はすがり付いた。
それがなんなのかわからないが、彼の目的や理由が解決すれば、晶子のことなど見向きもしなくなるだろう。
とりあえずこの人の思惑に合わせていれば、すぐに解放されるはずだ。
だから、これ以上は。
「っ……だめ、ですっ」
唇が腫れそうなキスのあと、首筋や鎖骨の辺りをさまよっていた舌に待ったをかける。服を捲り上げて蠢いていた手のひらも掴んで止める。
「……どうして?」
宇都木にとっては晶子との攻防はじゃれ合うようなものだった。楽しげに目を細めながら、訊ねる。
真っ赤になって彼の行為を押し止めていた晶子は、余裕たっぷりな彼の笑みに頭がクラクラする思いで、必死に口を開いた。
「こっ、こういうことをするのは、け、けけ結婚してからでないと駄目なのですっ」
いずれなかったことになる関係なら、これ以上を許すわけにはいかない。単に機会がなかっただけで、処女性を大事にしている訳ではないが、やはり“そういうこと”は、気持ちを通じ合わせた人とするべきものだと思うのだ。
苦し紛れの言い訳に、宇都木が眉を上げる。
一瞬、不興を買ったかと思い、ヒヤリとしたが、ふうん、と呟いた宇都木は唇の端を上げて彼女から身を離した。
(わ、わかってもらえた……?)
ほっと肩の力を抜いた晶子だったが、そううまく事は運ばない。
「バージンロードをバージンで歩きたいなんてロマンチストだね、晶子は」
ちゅっと音を立てて握った手にキスが落ちて。曲解された自らの発言に晶子は固まった。
誰もそんな恥ずかしいことは言っていない、と言い返したいのに言い返せない。
晶子の顔を掬い上げるように見つめた宇都木の笑みに、金縛っていたからだ。
瞳に愉悦の光を浮かべた宇都木は、晶子の頬をスルリと撫でる。
「いいよ。結婚式が済むまで……あるいは、君がいいって言うまで、我慢してあげよう。でも、」
――
下拵えは大事だから、それはしておこうね――
その言葉の意味を深く考えることなく、晶子は一刻も早く解放されたいがためにガクガクと首を縦に振った。
ちょうど時間切れだし、と立ち上がった宇都木の動作に合わせるように、チャイムが鳴る。
そういえば、彼はデリバリーを頼んでいたと思い出した晶子は、注文の電話をかけてからまだ一時間しかたっていないことに気づいて、その場にへたり込んだ。
あの混乱のひとときが本当に一時だったことに絶望にも似た疲労を覚えて。
身が持たない。そのうち胃に穴があきそうな気がする。
早く宇都木が婚約者ごっこに飽きてくれないだろうか。
ただひたすらいずれ訪れるだろうその時を願って、晶子は彼女を呼ぶ声に従い、ノロノロと部屋から出ていった。