T. How came it to be so?
▼ 07. 彼女のピンチ、一歩手前。
【今日は何時まで? 食事ができるようなら、待ち合わせよう】
世の男性はここまでマメマメしいものなんだろうか。
休憩時間中に受信していたメールを見て、晶子は思う。
彼のいる友人たちは、数文字の返信しか寄越さない、無視されたなんてよく怒っていたものだが。
――ああでも、姉や妹は逆にひっきりなしに掛かってくる電話やメールにうんざりしていたっけ――あれは特殊な例か。
【18時までです。終わったら、久坂のコーヒーショップで待っています】
ポチポチと不器用な手つきで返事を入れて、晶子は送信ボタンを押した。
一仕事やり終えた気分で額の汗を拭い、宇都木のメールアドレスが並ぶ受信箱をじっと見つめる。睨みつけるように。
初めて二人で出掛けてから毎日、朝昼夜と欠かさずご機嫌伺いの連絡が入ってきていた。まるで、彼女にベタ惚れな彼氏そのもののように。
晶子はまだこの展開についていけずにいる。
衝撃の宇都木宅訪問を終え、自宅に送り届けてくれた宇都木は、両親にもそつなく愛想のよい笑顔で断りを入れていた。
「早く晶子さんにも親しんで貰いたいので、たびたび連れ出しますが、遅くなっても必ず家に送り届けますので」
たびたび連れ出されるのか、と思って晶子は倒れそうになったが、その分飽きるのも早くなるだろうとグッとこらえた。
果たして、誠実な態度が良かったのかどうか。
両親の宇都木への評価は鰻登りで、物珍しげに顔を出した妹も「あれならまあいいかー」というよくわからないOKを出していた。
意外だったのは、宇都木が瑠璃を見ても、単に婚約者の妹に対する親しさを表しただけで、気を奪われた様子がなかったことだ。
……まあ、宇都木には瑠璃は子どもすぎたのかもしれない。まだ紅美香は帰ってきていないが、実際に彼女に会えば、代打の晶子との話は破談になるだろう。
キスまでした相手が姉の夫になるのは微妙な感じだが、外国では家族でキスもするし、そういうことで納めればいい。
無茶な理論で自分を納得させた晶子は、制服のエプロンを締め直して仕事に戻った。
「廣川さん、このあと早上がりの皆とか休みの奴らとカラオケ行こうって言ってるんだけど、行く?」
着替えてロッカールームを出た晶子に、少し前に上がった同僚の
我妻が声をかけてきた。
晶子より二つ年上の彼は、勤務年数が長い彼女を立ててか、丁寧に接してくるのが常だった。
明るくて友人が多い我妻は、孤立しているわけではないが、社交的ではない晶子を皆の内に入れるためか、よく声をかけてくれる。
店員用の出入り口を出ると、他の仕事仲間が邪魔にならないよう少し離れたところに集まっていた。こちらに気づいて手を振ってくる。
こうして集まりに誘ってもらうのは初めてではない。
晶子の参加率は半々より断るのが少し多めぐらい。いつもは気が向いたら参加。気が向かなければ不参加。約束がなければ、参加の気分だったが、宇都木との待ち合わせがある。
「今日は……」
「おいでよ。最近なんだか悩んでるみたいだし、良ければ話聞くよ?」
約束があるから、と断ろうとした彼女に、被せるように我妻が口を開いた。
ギクリと肩を揺らす。
「え……悩んでいるように見えました?」
「うーん、ときどき、難しい顔してるでしょ。いつもの他愛ない考え事とはちょっと違って」
そんなにわかりやすい顔をしていただろうか、と両手で顔を押さえた。
難しい顔は、たぶん宇津木のことを考えているときで――この際だから、自分にとって話しやすい異性である我妻に、男性の心理を訊いてみるのはどうだろう、と閃く。
「あの、今日は無理なんだけど、」
「晶子」
割り込んだ声に一瞬意識が遠くなる。慌てて見回すと、店の壁に凭れた背の高い見知った人の姿。
「……早く終わったから、迎えに来たよ?」
艶やかに微笑んだ宇都木の瞳に、何故か晶子の背筋に悪寒が走った――
(どどどどうして宇都木さんがここに! って迎えにって言った!? そんなことしなくてもいいのにいいいい!!)
職場には来ないでほしかった。仮にも婚約者にそう思うのは薄情だろうか。
だけど事情を知らない者に、いずれ“なかったこと”になる彼の存在は隠しておきたかったのだ。
なぜならば、
「廣川さん、この人知り合い?」
こう訊ねられることは目に見えていたからだ……!
我妻の問いかけに「うぎゅ」だの、「ふぐぅ」だの意味不明な声をもらして、晶子はうろたえる。なんと説明すればよいのか。
「姉の代わりに出た見合いの相手でなんだか婚約なんてことになってるけどそのうち“なかったこと”になるひと」――と言えれば苦労はない。いくらボンヤリしている晶子でも、それを言ったらおしまいだ、ということはわかっていた。
我妻は不振人物を見る目でを窺い、宇都木は我妻に胡乱なまなざしを向けている。その場に漂う緊迫感に、晶子の体が固まった。
ゴクリと息を飲む音が合図となったのか、ふっと宇都木がよそゆきの微笑みを唇に浮かべ、晶子を側に引き寄せる。
「婚約者の宇都木です。晶子がいつもお世話になっています」
一手を放ったのは宇都木だった。晶子が一番避けたかった方向で。
肩に乗せられた手がやけに重い。
「婚約者?」
我妻の驚きに満ちた声に、こんな私が婚約者でごめんなさいーーー! と土下座したい気分になった。
今まで異性の影も形もなかった晶子だ。不審に思われるのも仕方がない。それも見るからに大人のイイオトコとなれば、我妻も驚こうというものだ。晶子としては、視界のはしにチラチラ映る仕事仲間たちの動向も気になるところなのだが。
「廣川さん、本当?」
「うう、はい、ええと、なんかそんな感じで……」
たぶん数日すればなかったことになると思います――心の中で付け足す。
「そんな感じ、じゃないだろう? まだ職場に報告してなかったの。招待客もそろそろ決め始めなきゃいけないのに」
そんな具体的な話はスルーする方向で行きたかったのです! 声にならない主張を返し、晶子は首筋を撫でてくる宇都木の指先にふるりと身を震わせた。
耳元でささやかれる甘ったるい声にも悪寒がする。
彼がこういう声を出すときは、決まって晶子に恥ずかしい思いをさせる行為が付随していて――こんなところでナニをするとも思えないが。
「ふうん。全然聞いてなかったなあ、廣川さんも水くさい。教えてくれてもいいのに」
それまで険しい顔をしていた我妻が、ガラリと表情を変え、からかうような笑みを晶子に向けた。いつもの我妻だ、とホッとした晶子は慌てて弁明を始めた。
「あの、急な話だったから、改めてそういう話をするのもなんだか変な感じで」
本当はそれも含めて相談したかったのだが。
「そのあたり詳しく聞きたいけど、彼とこれからデートなんだよね? また今度、教えてくれる?」
コクコク頷く晶子に柔らかい笑みを一つ落として、我妻は宇都木に視線を戻す。
「俺は彼女の友人の我妻といいます。廣川さんはうちの店の大事な一員なんで。よろしくお願いしますね、婚約者さん」
「……こちらこそ」
ひとまず一番難しい
説明は越えられたと胸を撫で下ろしていた晶子は、頭上で交わされた挑戦的なやり取りに気づくことはなかった。