T. How came it to be so?
▼ 04. 彼女の墓穴
サイズのお直しとネーム入れに日数がかかるらしく、ひとまず猶予が出来たとホッとした晶子だったが、反面、AtoSなどという刻印を入れられては、返品が利かないことに気づきますます追いつめられる。
早急に、宇都木の真意を聞き出さねば、自分の性格から言って流されるままになりそうだ。
それはいくらなんでも……!
シートベルトを握りしめ、意を決して晶子は彼に顔を向けた。
「結構時間かかっちゃったな。何が食べたい? 晶子さんのリクエストに従うよ」
「いえ、あのですね! 私たち、ちゃんと話し合う必要があると、思うんです!」
「うん、好みもあるからね。僕は基本的に好き嫌いはないよ」
「それは良いことですが料理人にとって一番困る意見ですよ。何作ったらいいかわかんなくなっちゃう……じゃなくてですね!」
今まで曖昧な声しか出していなかった晶子が、はっきり物を言い出した様子を面白そうに眉を上げ、宇都木は彼女に視線を向ける。
本人は必死でそんなことにまで気づかず、次に言うべき言葉を整理するのに一杯一杯。
「私、宇都木さんのこと全くと言っていいほど知らないし、宇都木さんも、私のこと知りませんよね? そんな状態で、結婚の話を進めるのは、どうかと思うんです!」
言った! 頬を紅潮させて、満足げな息を吐き出した晶子に、宇都木は前を向いたまま口を開いた。
「――廣川晶子、二月七日生まれA型既往歴なし、渡里川女子附属小中高卒、大学は外部の喜多見女子短大食品栄養学科に進む、単位取得のために専科へ一年、卒業後は学生時代からアルバイトをしていたカフェに勤務、業務はウェイトレス及び調理、趣味は日向ぼっこ、ガーデニングただし食べられるものに限る。初恋は幼稚園ばら組のワタルくん、高校のときに他校交流で知り合った吉井某とお付き合いらしきものを始めるが、数ヶ月もたたないうちに偶然見かけた三女瑠璃に心変わりされて別れる――まあ手をつなぐ程度の清いお付き合いだったらしいけど。それ以後異性と接したのは職場の同僚・客ぐらいで、経験は全くなし、注目されることに慣れていなくて、出来れば一生その他1で生きていたいと思っている小市民。指輪のサイズは9号、足は23.5、視力は両目とも1.2。上からC65、60、80。身長160、体重……」
「ギャーーーー!! なっなんッ、なななな」
つらつらと宇都木の口から流れた自分の略歴に、最初はあっけに取られていた晶子だったが、途中からどんどん青ざめ、更に私的も私的な内容に至っては、もう涙目だ。
めいいっぱい距離をとるように、車のドアにへばりつき、ハンドルを握る男を恐々として見つめた。
代理で、ピンチヒッターで、間に合わせで、適当な内容の釣書しか渡していないはずなのに、何故ここまで知られているのか――
「ああああの、どこかで、お会いしたことがあるとかッ……」
「ないよ。正真正銘、見合いのときが初対面」
淡々と言葉を紡ぎだしていた宇都木の表情が、晶子の怯えきった顔を見てふっと和む。
「僕がどうして君のことに詳しいか、知りたい?」
頭の中では警鐘が鳴りまくっていたが、気になることは気になる。逡巡の末、晶子は小さく頷いた。
クスリと笑いを漏らした宇都木は、ハンドルを切り、駐車場の中に車を止めた。
晶子の知らぬ間に、どこか建物の中に入っていたらしい。
彼女に向かって彼は少し身を乗り出し、クルリと巻かれ肩に落ちた晶子の髪に指先を遊ばせ、呟く。
「そうだね。ちゃんと知り合う必要が、ありそうだね?」
それはもっともなことだったので、晶子はもう一度頷いた。
――頷いて、しまった。
「あの、宇都木さんっ」
「うん?」
車を降りたと思ったら、手を引かれてエレベーターの中。ずいぶん高くまで上がっている。
こんなに長く上がっているのに、誰も途中で乗り込むことはなく、晶子が戸惑っている間に目的の階まで着いたらしい。
静かにドアが開き、落ち着いた色調のフロアが目の前に広がっていた。
エレベーターホールには観葉植物と思わず座ってしまいたくなるようなソファが置いてある。
まるで質のよいホテルのエントランス――晶子はギクリと身を強張らせた。
まさか、と思う。
そんな、とも。
オドオドビクビクしながら宇都木を見上げる。
「あああの、えっと、……ここどこですか」
「ふふ」
(いや、“ふふ”じゃなくて!)
手を繋いだまま、宇都木は彼女の顔を覗き込むように身を屈めた。
至近距離で見る整った笑顔に、晶子はわずかに顎を引く。
「お腹すいたね。さっきは途中になっちゃったけど、何が食べたい?」
ハタ、と晶子は瞬いた。
そうか、昼食の話をしていたのだ。
なんだかよくわからない方向へ行ってしまったような気がしていたが、そもそもは好き嫌いの話をしていて――そうするともしやここはレストランがあるのだろうか。
余計な心配をしてしまった。
宇都木がわざわざ晶子のような貧相な娘をホテルに連れ込む訳がない。
女には不自由してなさそうな彼が、よりによって自分に不埒なことを仕掛けるなんてありえないだろう。なんて自意識過剰。
(そうだ、うんうん、きっと気のせい気のせい)
晶子はすっかり忘れていた。
自分が、宇都木の婚約者と言う立場になっていることを。つまり、彼となにがあってもそれは結局合意と見なされてしまうだろうことを。
警戒から思案、そして閃き、安堵とくるくる変わる年若い婚約者の表情を宇都木が楽しそうに眺めていることも、気づかなかった。
宇都木に導かれるまま辿り着いたのは、暖かみのある木材を模したドアの前。
未だに成り行きがわからずきょときょとしていた晶子は、ドアの横、丁度目の高さにある四角いプレートを視界に入れた。
【UTSUGI】と金のローマ字で、その下に【宇都木】と漢字で刻印されている。
「えっ?」
「僕の家。そのうち君の家にもなるんだから、早く慣れて」
またしても処理能力が追い付かず、フリーズした晶子を宇都木はテキパキと部屋に招き入れる。
「何を頼もうか。この辺りでは中華の店が一番早いんだけど」
晶子さん中華は好き? と訊ねられ、無意識のまま頷く。
(うち? 家になるって、マイハウス? っていうか無理無理無理こんなツルッピカなところで暮らせない、床に傷とか壁にへこみとか作れないいいい!!)
おっかなびっくりワックスも艶々な床を、スリッパを履いたまま抜き足差し脚で進んでいると、受話器を手にしていた宇都木が振り向く。
「晶子さんはキッチンが気になるかな。君が使うことになるんだから、好きに触っていいよ」
いろいろと反したい言葉もあったが、キッチンという一言で晶子の意識はそちらへ釘付けになった。
自分だけの台所。
晶子が一人暮らしをしようと思っていたのも、それを手に入れたいがためだった。
こんな立派な部屋だ、台所もさぞかし――
何か他に考えなければならないことがあったはずだが、あとでもいいか、と放り投げて晶子はいそいそキッチンへ向かう。
そんな晶子を見つめながら、宇都木は受話器の向こう側に適当に選んだ中華惣菜の名前をいくつか告げた。
「――そうだな、大体今から一時間後に、頼む」
キッチンもピカピカだった。食器も調理器具もきちんと整頓され、調味料も細かく揃っている。
流しの高さもクッキングヒーターの位置も、とても料理がしやすいように設定されている。
恋する乙女のように目を潤ませ、晶子はその空間をウロウロさ迷った。
「気に入った? 僕はあまり料理をしないから、ちゃんと物が揃っているか心配なんだけど」
「何でも作れそうです……! あ、でも材料はないんですね」
そっと冷蔵庫のドアを開けた晶子は、中を覗き込んで、ほんの少しがっかりした。
中に入っていたのはミネラルウォーターと数種の酒、冷蔵の調味料、チーズ。
ほとんど空と言ってよかった。
「そうか、食料品を用意しておけば、晶子さんに料理してもらえたんだな」
密かに両開きドアや背の高さ以上ある冷蔵庫に感動していた晶子は、不意に耳元で響いた声に飛び上がる。
その拍子に背後にいた宇都木に身体がぶつかって――
冷蔵庫のドアを閉めた手が、そのまま晶子を腕の中に閉じ込めた。
「次は、なにか作って欲しいな」
その体勢のまま宇都木が話すと、彼の唇が耳に当たる。、その度に晶子は身体を震わせた。
「あああああのっ、」
「ん?」
(“ん?”じゃなくてー!)
「ち、ち近いですっ」
「んー」
(“んー”でもなくてー!!)
長身の彼の腕の中にすっぽり収まってしまった晶子は、ガチガチに硬直していた。
彼女にとって、経験のあった男女交際は【手を繋ぐ】まで。
ずっと女子高、仕事仲間しか男と接していない晶子に、その密着状態はキツかった。
(なななんか髪がざわざわするー! ひっ、いま首に何か! いやあぁあ息が耳にぃーっ!)
赤くなればいいのか青くなればいいのか、もう晶子にはわからない。
腕の中で臆病な小動物のように震えている娘に宇都木は目線を落として――赤く染まったやわらかな耳朶を、口に含んだ。