*おにはうち?(一)
いつもその視線を感じていた。
常に一定の距離を保ち、お互いが許せる領域ギリギリの場所から。
物心ついたときには、彼はすでにそこにいて。
決して触れ合うことはなく。
ただ、あの金の瞳に自分が写っていることだけを、知っていた――。
降り下ろされた爪を辛うじて避け、地を転がり素早く身を起こす。
セーラー服をかすめた凶器が僅かにスカーフの生地を裂いていた。
サイッアク、と唇の中だけで呟いて、刃を構える。
あたしの目の前にいるのははぐれ鬼。人の心を無くし狂気に堕ち命を失った者のなれの果て。
生前の面影など微塵も見当たらない、節くれ立った四肢に蓬髪、額を裂いて現れた角、裂けた口に牙。
昔話に出てくる鬼そのものの姿。
おとぎ話は馬鹿にならないってことよ。
可憐純情女子中学生のあたしが何故に日の落ちた公園内でこんなものと対峙しているのかは、原稿用紙換算250枚の大作になるから簡単に説明すると。
あたしの一族は、こういう鬼と呼ばれる化物を退治することを生業としている。あたし自身も中学生をやる傍ら、鬼退治をしていた。
武器は両親の形見である脇差し、小刀。
これに霊力をこめて、鬼に引導を渡す。
小学校に上がる前から仕事をしていたあたしは、こう見えても一族の中ではベテランで腕利きなのだ。
鬼祓いに年齢は関係ない。
力があるかないか、それだけ。
普通なら、こんな成り立てのはぐれ鬼に苦戦するあたしじゃないんだけど――、今日は最悪に最悪が重なってしまった。
あたしはさっき一仕事終えてきたばかり。
かなり年期の入った怨鬼を相手にしたせいで、クタクタに疲れきっていて、しかも――二日目なんだよ、もうっ。
薬はちっとも効かないし、寒いしお腹すいたし霊力は底を尽きかけてるしお腹は痛いし眠いしもうもうっ。
なんで帰り道にこんなんがいるのよ!
大振りの攻撃をかわし、深く内側まで入り込んだあたしは鬼の胸に刀を突き込む。
しまったと思ったのは、直後。
やっぱり力が足りない――!
「キャアッ」
身を離すのが間に合わず、傷付き激昂した鬼が振り回した腕に弾かれ、遊具にぶつかった衝撃に意識がとぶ。
その一瞬が命取り。
咆哮を上げた鬼の牙が迫って――逃げられないと悟ったあたしは目を閉じた。
あーあ、死んじゃった。
仕方ないや、意外と早かったけど、力不足と、油断したあたしが悪い。
一足先に逝っちゃった父と母には叱られるだろうけど、自分達だって幼いあたしを残してまんまと死んじゃったんだから、五分五分だもんね。
なるべく早く一族の者にコレが見つかればいいんだけど。
はぐれ鬼を見つけたにも関わらずうっかり負けたせいで、コイツが野放しになったあとに起こる被害を考え、死に行くにもかかわらずあたしは憂鬱になってしまった。
――でも、あれ? 走馬灯、長すぎない?
と、不思議に思い目を開けると――
そこには、あたしを喰い殺そうとしていたはぐれが、何者かによって宙吊りにされている姿。
「なり損ないごときが我のものに手を出そうとは、身の程を知れ」
艶やかに響く何者かの声。
醜く変形したものではなく、白蝶貝のように仄かな光沢のある長い爪が、はぐれの胸部を貫いていた。
黒い血が滴り落ちる。
『彼』が手を引き抜いたとたん、はぐれは絶命の声も上げることなく、その場で形を崩し、肉は溶け骨は砂となり、瞬きのうちに跡形もなく滅した。
美しい輪郭に縁取られた彼の腕から爪に伝った濁った黒血も乾き、わずかな風にサラサラと流れ、そこにヒトならぬものがいた痕跡など何も残らなかった。
あたしはズキズキする背中の打撲も、頬に負った引っ掻き傷の痛みも忘れて呆然と彼を見つめる。
――ずっと、気付けば一定の距離を持ち側にいた鬼の青年が、均衡を破り、触れる近さにいることが信じられなくて。
そう、彼もまた、鬼。
はぐれのようなヒトが変化したものではなく――生粋の。
鬼族(キゾク)、と我々が称する者――。
はぐれなどより余程強い力と肉体を持ち、神通力はあたしたち一族を遥かに上回る、古より密かに人に混じり生きる、高位の種。
はぐれを間に挟み、時には共闘し常には敵対していたという、今は存在すら怪しまれているその鬼族、なのだ。
闇に溶けるような紺色の髪。
乳白色の月のような二つの角。
まるで彫刻めいたひとつの歪みもない整った美貌の中の――冴えざえとした金色の瞳が、あたしを写して蜜のように蕩ける。
「明日香」
身体の奥を響かせる深い声、それを、ずっと聞きたかった。
こちらに伸ばされた手があたしの頬を撫でる。肌を傷つける爪は今は顕現していない。
触れられることに安堵を覚えた自分を不思議に思う。
もう一度、名を呼ばれて。
何故か父母といた頃の懐かしさを感じて――意識は暗闇に閉ざされた。