#3
「果林」
夫の声に物思いが破られ、ハッと顔を上げた。
静かな瞳でこちらを見つめる彼に、また、理由のない焦燥が押し迫ってくる。
「――後悔してないか」
問いかけられた意味がわからなくて、瞬きを繰り返した。
「他に、選べる明日があったと、思わないか」
なにを、言ってるの。
「俺を選ぶ以外に、もっと、幸せになれる相手がいたとは思わないか――?」
「ないよ! ……なんで、そんなこと言うの」
自嘲気味に目を細める彼を、睨む。
どういうこと、今の今まで幸せ家族やってたくせに。
違和感の感じたやさしさは、この布石だったわけ?
そうだ、そうよ、だいたい昔から意地悪ばかり――
ムッとしたまま低く問い直す。
「そういうこと聞くって、ソッチは後悔してるってこと」
「いや。どっちでも、いつどこでも、どんな結果になっても、俺にお前がいない道はない。――だから、選ぶのは果林なんだ」
えら、ぶ?
「果林が、望むようにして、いいんだ」
ズキリと痛む胸。つい近頃、同じように選択を迫られることがあったような気がして――苦しくなる。
「……果林?」
頭を振る。
そんなの。
あたしだって。
――の、いない、明日なんて――
どうして。
あたしはそれを知っている気がするの。
「あたしはっ……後悔なんて、一度も――」
「……でも、もう十五年だ。俺はそれだけで充分だ」
どうして。
どうしてそれを、あんたが言うの。
十五年。
そう、十五年だ――生まれたばかりの小さな娘が、成長してもう高校生に――あの頃のあたしたちにどんどん近づいて――君を追い越してしまうまで、もうすぐ――え?
いま、あたし、なにを考えていた?
違う、実花は八歳で――十五の実花は夢の――夢の中、
どっち、が?
「ときどき、思い出せって言ったけれど――忘れるなとは言わなかったぞ?」
黙り込んで見つめ合うあたしたちの背中に、明るい声がかかる。
「おとーさん、おかーさん、わたし先に行くからー!」
「ああ、迷子にならずに戻れよー」
桜並木を駆けて行く小さな背中が、瞬きの間に一回り、二回り大きくなって――懐かしくも真新しい制服を着た娘が振り返り、手を振って、笑って消える。
――実花?
「制服、俺たちの頃と変わってないんだなぁ」
耳慣れたはずの夫の声が、僅かに若くなる。
――耳慣れた?
耳慣れてなんか、いない。
だって、大人の声が馴染むその前に、彼は、
彼は――
ゆっくりと首を巡らすと、見覚えのある――見覚えのない、大人になった幼なじみの顔。
風が流れる。
掴めそうで掴めない、桜吹雪を背に、微笑んで。
「あのまま、時が流れたら、こんな未来だった」
ヒラリハラリあたしたちの間を舞い落ちる薄紅の花弁。
あの時、
最後の時、
二人の間に落ちたのは風花だった。