長編 | ナノ

 第???夜 歌は過去を導いて



ポツッと、目の前の木の葉から雫が落ちる。それが繰り返されたことによって出来た水たまりに波紋が広がり、そしてそれは円状に歪んだ渓谷を映し出す。
昨日、散々降り続いた雨は止んでおり、程よく湿った空気が谷を包んでいる。
自然によって浄化された空気が肺の中に入り込む感覚は、とても気持ちがいい。


「いつも以上に清々しい朝だ。だからフィーナも朝食を食べられたのかもしれないね」


ティエドール元帥は笑みを浮かべながら言う。
そうなのだ。今日、久しぶりに朝食を摂ることが出来た。胃に何も受け付けないのは身体的な面からくる疲れもあったようで、一晩ベッドでゆっくり休んだら見事に気分もよくなった。
満腹とまではさすがにいかなかったが、まともな量の食事を食べることが出来たので、これからはもう大丈夫だろう。
それは本当に、本当によかったのだが、問題なのが昨日の一件だ。
弥七がいないということを元帥が神田とマリに伝えてくれたようでよかったのだが、それよりも元帥と言い合ったことである。
今の発言からして、元帥本人は全くと言っていいほど気にしていないようであるが。
だがあからさまに態度が出てしまう私はそうもいかない。視線をそらし、コクッと頷くことが精一杯だ。
そんな私にマリは苦い顔、神田は呆れ顔だ。
2人の様子からして、元帥から何か聞かされたのだろうが、その内容が何にしても私が取る態度は変えられない。
――謝りたいんだけどなぁ…
起床時からそう思うこと数時間、未だまともに口も聞けていない私は弥七の言うとおり、素直でないのかもしれない。
それでも反論の一つはしたい。昨日の元帥の言動はあまりに私の屈辱に触れた。
私は先頭を歩く元帥の背を睨む。
確かにいくらこれからの行動に支障が出るとはいえ、アレンのことを話せなかったのは悪かった。だが、私達の関係についてどうこう言われる筋合いなどない。
脆く錆びれた関係?お前に何が分かるというのだ。
あの日、私がどんな思いでアレンを殴り、支部においてきたか、お前に分かるのか。何も伝えずに今、こうして戦場の場にいることの辛さ、お前に分かるのか。
分かるはずがないだろう。誰にだって理解できることではないだろう。
――それなのに何で、他人にどうこう言われなきゃならないんだよ…!


「おい」


そこで神田がわずかに後ろに下がってきて、小声で私に言う。


「殺気」
『………あ』


神田から指摘されて初めて気づく。
元帥を睨んでいた私の瞳があまりに鋭く、凍てついた殺気を放っていたことに。


「気を付けろ。元帥だってああ見えて結構気を張ってんだ」
『…ごめん』


神田は鼻を鳴らすと、先程までのように私の少し前で平然と歩き始めた。
いい加減、殺気ぐらい抑えられないものか。変に高いプライドもあるのだろうが、我ながら面倒くさい性格なものだ。


「出発してもう随分になりますけど…まだまだ港まではかかりそうですね」
「そうだねぇ。すんなり抜けられるとは思ってたんだけどなぁ…取り敢えず港に出てみないことには話にならないからね」


そういえば弥七はこちらに別の改造アクマを送り込む、ということを言っていたが、それはいつのことなのだろう。そもそも私達の現在地をその改造アクマはちゃんと把握してくれているのだろうか。
何にしても送ってくれるならさっさと送って行って欲しいものだ。こちらはただ待っているという手段など取れるはずもなく、地道に日本に一番近い港へ歩き続けるしかないのだから。
こんなことならいつものように汽車での移動の方がまだマシだっただろうか。汽車に乗っている時は乗っている時で暇すぎてやることがないことが嫌なのだが。
どんな移動手段に対してもいちゃもんばかり出てくることに虚しく感じる。
――まぁ1人じゃないだけマシなんだけどね。
私は前を歩く3人を見て思う。
するとその中の1人の背中が停止した。マリだ。
私達も足を止め、少々首をかしげるマリを注視する。


『どうかしたの、マリ?』
「…聞こえないか?」
『何が?』
「ああ、まだ遠いか…。もうすぐ歩けば聞こえるようになると思う。歌が、聞こえるんだ」
「歌…?」


そんなもの、私には聞こえない。恐らくその音が聞こえるのはマリだからこそだろう。
マリと初めて会った日の夜に聞かされたことだが、マリはどうやら盲目らしく、イノセンスはその鋭敏な聴覚を糧に操られる弦だという。
だから私達では聞き取れない音を拾うことが出来るのだ。
渓谷は音が響きやすいから、じき私達にも聞こえるようになるだろう。
私達は周囲への警戒を怠ることなく、マリの案内の下、その歌の方へと進んでいった。
やはり歌声は渓谷から響いているようで、次第に私たちの耳にも聞き取れるようになってきた。


「…何だい、この言葉?」
「中国語…でもなさそうだな」


3人が困惑する中で、私は1人、目を閉じる。


〜♪〜〜♪〜〜〜♪


最初は何を言っているのか、私も分からなかった。
だが断片的な音の欠片が溶け込むように頭の中に入ってくる。やがてそれは言葉となり、歌詞となり、私の頭に響いてくる。


Ich zeige Ihnen den Weg, Ihre Einsamkeit auszuradieren…
孤独を消し去るために、お前に道を教えよう


『…っ!?』


やっと一繋がりの文を認識したとき、私は顔を驚きに歪める。
――…まさか……
私は息をするのも忘れ、その歌に聞き入る。
歌は途切れる事無く、深く険しい渓谷に静かに響き続ける。


Finden Sie einen Schmetterling im Himmel des Sternenlichtes
星明かりの天国で 蝶を見つけなさい
Ich kam beim schweigsamen Hügel an, als ich die Erde fand, der shined vom Licht des vollen Mondes
満月の光に照らされる大地を見つけたら 沈黙の丘にたどり着く
Beten Sie, ohne über alles bei dieser Stelle nachzudenken
その地で何も思わず さあ祈りなさい
Sehen Sie die Zukunft nicht bitte voraus
未来を見据えないで 
Sie fordern nur die gegenwärtige Zeit und beten
今だけを求めて さあ呪(まじな)うのです


透き通るような旋律を奏でるその歌声は、美しい女の声だった。
だが初めて聞くその声から紡がれる歌の歌詞は初めて聞くものではない。
以前、昔、あの時、聞いた。
気づけば私は走り出していた。


「フィーナ…っ!?」
「おい、待て!」


マリと神田が止めようと身を乗り出してくるが、私はその手を全て掻い潜り、突破する。
それから青嵐牙をすばやく取り出し、視線すら向けずに背後に投げる。
やがて背後からはドドドドド!!という爆音が渓谷中に響きわたる。


「ぐ…っ!?」
「地面が…!」


3人は崩れる足元に動揺していることだろう。すぐに追いかけて来られないよう、後ろの地面を崩しておいたのだ。こんなことをするのは流石に申し訳ないが、それでもそうせずにはいられなかったのだ。


『何で…この歌が…っ』

動揺を欠片も隠せていない声と表情で私は言う。
未だ流れ続けているこの歌。この歌を奏で続けるその女に、私は会わなくてはならない。会って、話をしなければならない。
歌が終わってしまう前に。歌の主が何処かへ行ってしまう前に…
私は、はやる気持ちを抑えきれず全力で、確実に近づいている歌声のもとへと進んでいった。



☆★☆



『はぁ…はぁ…』


私は立ち止まり、肩を大きく揺らしながら呼吸をする。
一体どれくらいの距離を走ったのか、全くと言っていいほど分からない。
短かったのか長かったのかさえさっぱりだが、途中で平面だったはずの地面が上へと傾いていることを認識した時はさすがに焦った。よりにもよって坂道を全力で駆け上り、天辺まで登る羽目になったのだ。
立ち止まっている今でさえ、手を着く膝がガクガク震えているのが分かる。
それでも何とか地に足を着き続け、私は伏せていた顔を上げる。
膝から手を離して立てば、渓谷の中にいた時とは違う、大きな風が全身にぶつかってくる。
深く深呼吸すれば、岩と土の混じったものとは違う、自然の澄んだ空気が肺に入ってくる。
呼吸の辛さでずっと閉じられていた瞳を開けば、そこには今まで見た中で誰でもない、1人の女が渓谷の上に立っている。
女は、ずっと歌っている。私の知る歌詞で。私の知る音程で。違うのは声だけで、私の知る歌を渓谷中に響き渡らせて歌っている。
私は再び深呼吸し、その背中に近寄る。


『Das Mädchen hält in einer Hand einen heißen Eiszapfen und kommt auf einem Hügel an…』
「!」


女は驚いたように振り返り、見開かれた目で私を見る。
今まで歌い続けていた声が途切れ、代わりに私の歌が峡谷に響き渡る。
私は女の隣で足を止め、ただ目の前に広がる景色だけを見つめ、歌う。
目を閉じ、過去を手繰り寄せ、思いを巡らせ、もう一度歌う。


『Das Mädchen hält in einer Hand einen heißen Eiszapfen und kommt auf einem Hügel an
――熱い氷柱を携えて、少女は丘の上へと辿り着く
Während das Mädchen die Entfernung weit anstarrte, hörte das Mädchen einem Lied zu
――少女は遥か遠くを見つめ 歌を聴いたのです
Das Mädchen hörte auf dunkles Licht und eine Grenze weißer Dunkelheit ein Lied
――黒い光と白い闇の狭間で少女は歌を聴いたのです
Das Lied des Babys von Gott, der über Einsamkeit trauert…
――孤独を嘆く 神の赤子の歌を』


私は歌った。あの時の歌を。
久々でも歌詞と旋律は鮮明に蘇り、自然に口から歌として紡がれる。
もう二度と口にすることはないと思っていた歌がこうやって今、私によって歌われていることを皮肉と同時にわずかな喜びを感じだ。





第???夜end…



prevnext

back

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -