今日も、来てしまった。
(寒い)
星なんて見えるはずもない、大粒の雨を降らせる空。
(……寒い)
勢いづいた雫が、車道のコンクリートを、公園の遊具を、自身の身体を濡らしていく。
(……、……寒いよ)
膝を抱えていた両腕を、思わず擦り合わせる。
ミクは、市民公園の片隅に置かれているベンチに体育座りをして、傘もささずに空を見上げていた。
タンクトップの白いワンピースは細い身体に張り付き、あわや透けてしまうほどに濡れきっている。
夜であるから見えないものの、すぐ隣にある街灯がスポットのように照らしているせいで、少ない人通りでもまるで映画のワンシーンのように目を引いた。
一度公園を通り過ぎ、出入り口まで行った通りすがりの男が、踵を返してミクに近づく。
「風邪、ひいてしまいますよ」
大きな黒い傘をさした黒髪の男は、既に手遅れだろうまで濡れたミクに、微笑みながら傘を傾けた。
ミクは丸まったまま、ベンチの席を開けるように男からひとり分遠ざかる。それで傘の範囲から、男のパーソナルスペースから抜け出し、安堵したようにミクは息を吐いた。
「ありがとう。でも、大丈夫です。私、アンドロイドですから」
目尻から雨の雫を流し、ミクは男に笑いかけた。その笑顔があまりにも儚げで、男は息を飲んだ。
同時に、暗がりでも分かるほどに頬を赤く染める。頬を染めたのは、正にも負にも心を揺さぶられたからだった。
男は自分が濡れるのも構わずに、もう一度傘を差しだして口を開いた。
「大丈夫って……そんなわけないでしょ。土砂降りの中で、錆びたらどうするんだよ。マスターを待つにしても、こんなところにいつまで居るつもりなんだ?」
ミクも再度からだをずらして、雨よけから出て答えた。
「いつまでも。雨が降っている間は」
「なんだって?」
ぼそりと呟いたミクの言葉を、男が拾い上げる。
「マスターを待ってるんだろ?」
「待って……いるのでしょうか」
「は?」
焦点の合わない返答に、男がいぶかしむ。ミクは視線を空に戻して続けた。
「待ち合わせなんてしていないんです。でも、こういう雨の日は、ここに居ればマスターが迎えに来てくれる気がして」
「約束もしてないのに?」
「してないです」
「それはおかしい話だな」
ミクが、自分の長いツインテールを巻き込んで座り直す。
「私も、そう思います」
「だったら早く帰ればいいだろ」
「……気が向いたら」
男はミクの言葉にかぶりを振った。
「強情なアンドロイドだな。わかったよ。薄情なマスターによろしく、じゃあな」
大きな傘をミクの肩にかけて、男は鞄を頭に乗せて駆け去った。公園の出口で一度だけ振り返ったので、ミクは少しの苛立ちを覚えながらも、控えめに片手を振って答えた。
男が去った後、公園の人通りは途絶えた。終電の電車が遠くで車両すれ違いの笛を鳴らす。
雨は止む気配を見せない。それどころか先程よりもさらに強くなったようにも感じられる。
「傘なんて要らないわ」
ベンチに乗せた足を身体に近づけ、体育座りを固める。空を見上げるが、傘が邪魔して雨雲は見えなかった。
ミクはぞんざいに傘を横へやる。それ以前から濡れて重くなったネクタイを弄った。
「……マスター」
ケンカをしてきたわけではない。ただいつも通りに、彼の作った作品を歌い、指導を受け、完成まで高めていく共同作業を行っていただけだ。
そのうち彼が疲れて眠ってしまったので、そっと抜け出して今に至る。
彼が寝てしまうのはいつものことだ。彼は仕事で忙しく、間を縫ってはミクの為に曲を書く。だから体力が尽きるのも致し方ないことで、モニターの前にうつ伏せるマスターの頭をこっそり撫でることが何度もあった。
そして、ミクはマスターの家から抜け出す。抜け出さないこともあるが、抜け出すのは決まって雨の強い日だった。
しかし、なぜ雨の強い日にだけ抜け出すのか、実はミク自身が理解していなかった。
ふと浮かんだ疑問に、ミクは膝を抱える腕に少し力を入れた。
(寂しかったから? ……ううん、違う。それならマスターがおやすみしたらいつもだもの。なんで……あ)
罪悪感。
ポンと浮かんだ言葉が嫌にしっくりときて、じわりと心中に広がるそれに唇を引いた。
いつも側に居てくれるマスターに、何も返してあげられないから。これに尽きるのだ。
(もし彼が私を起動してくれなくなったら、どうしよう……)
そして、常に持つ危機感が、思い出したようにミクを締め付けた。
(私を抱きしめられるのも、私を満たせるのも彼しかいないのに。彼さえ抱きしめてくれたら、どうなっても構わないのに)
大粒の雨がミクの目を打って、ミクはうつむく。
(寒い)
風が、隣の席を占領していた大傘を地面に転がした。
いっそのこと晴れてくれたら、今のこのぬるい風もおだやかに吹くだろうか? もしそうなら、彼と一緒に散歩をしたい。
(手を繋いで、隣同士で歩いて、彼の目にしか入らないように抱きしめて隠してもらうの。……でも)
それは叶わないんじゃないか。ミクの思考に落ちるのは、やはり光でなく影であった。
「さむい」
雨が容赦なくミクに打ち付ける。
ミクはさらに丸まった。
ふと、ミクはそっと自身の唇に人差し指を這わせる。そしてすぐに、無意識の行動だったことに肌を赤くした。
夢見ているのは、麗らかな日の出来事だけではない。もっと、近くに、ゼロ距離に触れ合うことを、ミクは望んでいる。
(この雨が、キミのキスだったら良いのに)
そう考えて、ミクはハッとした。
雨の日に抜け出す理由に合点がいったのだ。
望んでいることが形になっている。それが雨の日であるだけだった。
焦燥も罪悪感も希望も、何もかもがない交ぜになっているのが、雨の日、特に強く降る雨の日だったのだ。
「なんだぁ……ふふ、あははは」
結局、自分のエゴではないか。わかっていたことでも、理解してしまうと笑えて仕方がなかった。
「あははははははっ……!」
空を仰いで、ミクは笑った。ひとりで、腑に落ちたことがおかしすぎて。
雑然として人気のない公園に、ミクの声が響いた。響いた声を、上から雨が押し込めた。低くなったボリュームがミクに反響して、ミクはさらに笑った。
笑って、雨の雫が目に、頬に、顎に流れて、しばらく笑い続けたミクはやがて口を閉じた。
自嘲の笑みを浮かべ、体育座りをきつくして、またコロコロと転がっていく傘を見やり、それからぽつんと呟いた。
「……暖めて、受け入れて。お願いよ、ねぇ……マスター」
うずくまるミクの後ろから、ビニール傘を差し出す影があった。
雨が頭上で止まり、見上げても空が見え、そして驚きと共にミクが振り返るまで、あと三秒。
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あとがき
すてるふPの初音ミクオリジナル曲『キミのキスに打たれ熱くなる』に歌詞を書かせていただいたのですが、小説も書きたくなり投稿いたしました。
世界観が少しでも深まれば幸いです。