銀の箱のオルゴール
 ウミネコの鳴き交わす声は、断続的に内郭を軋ませる。
 日よけに打ち付けられた板きれの下、はめられていたのだろうガラスが、黄ばんで床に散っていた。おぼつかない霧笛が強い風に乗って小屋を揺らす。ーー小屋は、ぱらぱらと埃を降らせながら、なんとか形を保たせていた。
 廃屋は、自らに近づく急いた足音を聞く。やがて、ノッカーの外れた扉を体当たりで飛ばし、一人の男が転がり込んだ。扉は壁にバウンドし、勢いのまま、さも男を牢獄にぶち込んだ看守の如くひとりでに閉まった。
「ありがたい……」
 切れぎれの息の間に男がもらす。朽ちた屋根の隙間からわずかにしか入らない光を頼りに、屋内で足を引きずった。飛び出て錆びた釘に三度ほど服の裾をちぎられながらも、なんとか背の低いソファーに辿り着く。くずおれるよう倒れ込むと、カビと混じり一層濃くなった埃の匂いが鼻腔を犯した。
 しかし男には、そのような些細なことを気に留める余裕などなかった。横向きになりながら震える手でマッチをこすり、サックから取り出したろうそくの先に火を灯すと、低くうめく。ポケットの中で、寂しげに煙草の箱がひしゃげている。足下に転がったマッチ棒を横着に踏みにじって消すのは、もはや習慣だった。
 男の脇腹から流れ出る命の代名詞は、ろうそくに照らされてセピアに浮かび上がった寒色系のソファを紅色に染め上げようとする。掬うように傷口に手を当てるが、こぼれ落ちる砂のように、指の隙間からすり抜けていった。
 色の抜けていく唇が、わずかに弧を描いた。荒い息と息の間に、嘲笑が混じっている。ずる、ともう一段体をずり上げて、腕置きに頭を預けて男は仰向けになった。寒い。視線でほのかな明かりを追うと、すきま風で火が揺らいでいた。長旅の間にすすけた紐が短い。月並みな言葉の意味が、男には理解できた気がした。
「誰も、いないのか」
 もう一度こぼし、男は小さく笑った。体格に合わない細い銀チェーンが、男の首まわりで音を立てる。ペンダントヘッドのロケットが男の懐で暖をとっていた。取り出して開く余力も無い。目を閉じて、ロケットの中の写真を、それよりも鮮明に過去の幸せを思い出そうとして、心中でかぶりを振った。
 薄くまぶたを開くと、ぼんやりと目の前が揺れていた。かすんでいる。いよいよ体の芯まで寒くなり、暗闇の世界に引きずり込まれようとしていた。浅い息使いは耳にも届かない。
 おぼつかない視界を少しでも覚えておきたくて、男が目をすがめる。すると、かろうじて梁が見えた。虫に食われたのか、腐食して欠け崩れたのか、むき出しの木の繊維がどこか荒削りの、狂気的な笑みを浮かべる彫刻の様でーー男の瞳孔は、何気なく滑らせた視界のある一点に留まり、萎縮した。
 暗がりに紛れるようにして、少女が梁に腰掛けて男を見下ろしていた。白く浮き出た幼い顔。くす、と喉を鳴らす音もどこか遠く感じ、男はただでさえ引いている血の気を極限まで冷まされたように感じた。
「起き上がらなくていいわ」
 絵に描いたような可憐な笑みで、少女がフローリングに飛び降りる。底が抜けるか、細枝の脚が折れるかのどちらかと思われたが、マグを机に置く程度の物音だけがした。ふわりと広がった漆黒のドレスの裾がしぼんでいく。ろうそくのわずかな橙色の光に浮かび上がる、少女の華奢な線の体。墓場の守主であるカラスと同色のフリルが至る所にちりばめられたドレスは、異様なほどに似合っていた。
 繊細に編み込まれ肩の前に落ちた黒髪に、ヴェルヴェットのリボンが結ばれている。前髪に半分隠された、磁器と遜色の無いだろう白い顔を、少女は男に向けた。暗闇に一つだけ、ガーネットの瞳が妖しく輝いている。
 男の前に、先ほど諦めた記憶がいびつな現実となって現れていた。
「……サラ?」
「苦しいのよね。楽になりたい?」
 掠れた声では届かなかったのだろうか。少女は透明な水に似た細い声で歌うように言って、小首をかしげた。
 声が出ない。力が抜けて、唇もほとんど動かなくなっている。自分の意思ではどうにもならなくなった体に男ができたのはせいぜい、悪態の代わりに舌打ちをすることだけだった。
「楽になる資格なんて無い、って?」
 少女の問いかけに、男の緩く微睡み始めた頭がうろたえた。
「“何もかも捨てて、置き去りにしてきたから、俺には似合いの末路だ”。……なるほど、それで此処に来たのね。いいのよ、此処には、貴方を赦す(ゆるす)音があるわ」
 男の思案を少女が拾い、話していた。男の考え得ない奇妙な言葉を交えて、ではあるが。
「お腹の凶弾は報いだと思っているのね。神さまは貴方を赦さなかったから、仕方ないわ。でも此処には、貴方を赦す音がある。神さまにだって、此処を見通すことはできないわ。安心してゆだねなさい。貴方の苦悩は、私を通して伝わるから……これに」
 何とか少女の顔からそらし、視線をさまよわせる。やっと映った次の対象は、少女の両手に乗った、小さな箱だった。歴史に名を残す職人ですら創造できないのではないかというほど、細部に至るまでルーンが彫り込まれた銀細工の箱。所々にはめられた黒と紅の宝玉が、華美でなく、どこか妖艶に芸術品を仕立て上げている。美しい箱を前に、男の頬はほころばず、反対に引きつるような怖気を現した。
「この箱を開ければ、貴方は永遠の苦しみから解放される。貴方にとっての赦しと幸福が得られるわ。でも、開けないこともできる。開けなければ、貴方は孤独と苦悩に苛まれながら肉体の死を迎え、魂は永劫の時をさまようこととなる」
 一歩、また一歩と、少女が静かに近づく。男は身を引こうとして、失血のせいだけではない体の硬直に焦燥を覚えた。もしや尋常では無い空間に、いや、この世のものではない何某かに遭遇してしまったのではなかろうか。朦朧とするどころか、本能的危機感に追い立てられるように、意識のみが覚醒していった。
 誰だ、おまえは。男のおののくスモーキーアイが少女に問う。
 少女はチラと男の目を流し見てから、身動きひとつ取れない男の顎を人差し指でなぞり、すくった。男の視界が、少女の顔で満たされる。
「私は、幸せになってほしいわ、パパ」
 男が哀願してでも手にしたかった、たった一言。それを魔性の響きが、何度も脳内で反復させた。じわじわと浸食され、ずくんと重くなる思考回路。次の瞬間、男の中で何かが爆ぜたような気がした。
 少女の顔が、かつて愛した記憶に重なる。焦燥は憧憬に変わり、記憶は現実にシフトする。ざわざわと、失われたはずの血潮がうずくように体内に広がり、焼き尽くすほどの熱量を感じた。
 最後に背筋を駆け抜けた衝動が力をもたらしたのか、男は拘束を解かれたかのように、しかし幽鬼のように、ひとつうなずいた。
 男の反応に少女は優しい色を瞳に宿して、にこっと笑う。
「ありがとう」
 少女は目を男から手元の箱に移し、もう一つ笑顔を浮かべた。氷細工のような手が箱を撫でる。銀の箱は、その動作に呼応するようにスッと開いた。
 箱はひとりでに、どこかに備わっているネジをキリキリと巻き始め、硬質な巻き止めの音のあと、やはりひとりでに音を奏でだした。長い時を経たのだろう、すり減った金属が鳴らすのは角の立たないオルゴールの音だった。
 音色は男と朽ちた空間を、穏やかな潮騒のように包む。今まで肌にまとわりついていた緊張や腹をえぐる痛みが、淡い光の粒子となって体を離れ、オルゴールに共鳴するようにまたたいた。心もとない板きれで囲まれた廃屋の中心で、光と音はありえない残響を生み出す。鼓膜を優しげに震わせる、癒やしの響き。少なくとも男には、そのように感じられた。
 ーーだが、壊れたメロディだった。出口のない迷宮をさまようような、無限の螺旋階段を下り続けるような、漂流物だけが頼りの冷えきった海原のような、曲というにはあまりにも体を為していない物だった。転がるような激しさとは無縁の、いつ止まってもおかしくないメロディ。常人であれば自ら鼓膜を割ってでも耳を閉じるほどの禍々しき音の連鎖でありながら、男は、はらはらと涙を流してそれを聴いていた。
「召しませ、御魂の深淵へ。召しませ、奔流に沈む記憶へ」
 甘みを帯びた少女の呟きが、オルゴールに乗る。
「我らの道しるべに従いて、召しませ、我らを統べる尊き方の御許へ」
 男の意識は、星屑のきらめきをすり抜け、白銀の月光に導かれ、全ての物体が線と見えるほどの速さであらゆる場所を移り変わった。色素が無くなり、光と影の概念のみが残ったモノクロの世界。ノイズ混じりの映像がうつろい、あるワンシーンに到達すると、男がぼうっと眺めていた景色は留まった。
 日溜まりのこぼれる台所。果実の皮をそぐ女性と、女性を背後から見上げる小さな、栗毛を巻いた幼子がいた。幼子は男を振り返り、不思議そうな顔をする。
「ただいま、サラ」
 しばしの時を置いて、喉の奥からやっとのことで絞り出した声は、年端もいかない子の大きな瞳を輝かせるに充分だった。ひまわりのように明るい笑みを浮かべーー瞬時に、それら全ての温かな光景を巨大な闇が飲み込み、男の意識は、意識という存在すらなかったかのように宙に溶けて消えた。
 コト、と、男のろうそくが机に転がった。残り火はくたびれた羊皮紙に移り、ろうそくが消えると同時に強く燃え上がった。あっという間に机を巻き込み、男のたった一つの持ち物を巻き込み、男とソファーを巻き込み、朽ちて穴のあいた板の間を巻き込み、かろうじて屋根を支える柱を伝い、屋根を巻き込み、少しもしないうちに、ひとつの巨大な炎へと育った。
「これでまた、ひとつの罪が赦された。我らが尊きあの方の復活も近い……今回の彼は、あまりお役に立てなかったようだけれど」
 大事そうにオルゴールを閉じた少女は、涼しげに言った。
「そういえば。今日の彼は、私が何を言い、何を想ったのだと錯覚(かん)じたのかしら、ふむ……。今となっては、どうにも関係のないことね」
 少女は、相も変わらず唇を開かぬまま口角を上げ、猛炎の先へ踵を返す。ひるがえった漆黒のドレスが影を残し、炭と化した廃屋は潰えた。



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 あとがき
 途中で飽きて難産となってしまった、計画性皆無のSSでした。
 描写だらけのゴシックホラーテイスト? いいえ、ただの好きな物詰めです。
 中二病ばんざい!


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