映るもの
 Yシャツにジーンズという簡素な出で立ちの青年は、ふと足下の水たまりを覗き込んだ。
 石畳の欠けたところに溜まった水は、隅にこっそりと針葉樹を切り取っている。そして青年の背後に、つい数刻前まで猛威を振るっていた嵐が不純物を根こそぎ持ち去ったのだろう、最高彩度の青空を見せていた。
 青年は、絵画のようなそれの側にしゃがみ、じっと自分の目に視線を合わせた。ろくに手入れもせず寝癖が残る黒髪は外に追いやられ、好きではない垂れたまなじりには目もくれず、髪と同色の瞳が自分を見つめ返している。
 水たまりの中の青年は、まばたきのあと戸惑うようにした。
「そんなに見られちゃ困る。ぼくを観察しようっていったって、ぼくはキミなのだろう? ぼくのことは、キミがよく知っているじゃないか」
 どこからともなくそう聞こえたような気がして、しゃがんだ青年は口元に手を当てた。驚いたのではなく、真剣に、馬鹿正直に自分に対して返答しようとしたからだ。
「君が僕にどこから話しかけてるかなんて、そもそも考えないことにするけれど。君の言ったことは半分は合ってて半分は間違ってる。確かに僕は君だろうけど、僕は僕のことをそれほどよく知らないから」
「なんで?」
「なんでって、それは……なんで、だろうね」
 すらっと回答が出てきたわりには、理由が不明瞭だ。そういえば、なんで僕は自分をよく知らないんだろう。疑問は渦を巻き、水たまりの映像もぐるぐると歪んでいくように、青年には見えた。
 目の前の景色が回るように、青年も脳内を巡らせる。すぐさま、模範解答が思い浮かんだ。
「うーん、ほら、よく言うじゃないか。人を知ることは簡単でも、自分を知るのは難しい、って。興味のない自分より、好みの女の子や好きな小説とその著者のことのほうが知りたいから、自分なんて二の次なんだよ、きっと」
「なんで?」
「なんでって言われても、それが人間ってもんじゃないのか?」
「そこじゃないよ。なんで自分に興味がないのさ」
「えぇ、そこ訊くの? 君は僕なのに、ずいぶんと僕に対して興味があるみたいだね」
 青年の口元が不機嫌に引かれる。水たまりの中の彼も当然同じように動いたが、青年と彼ではその意味が違うように思われた。
「当たり前じゃないか。ぼくはキミなのに、キミのことをよく知らないんだから」
「さっきと言ってることが違くないかい?」
「キミはキミ、つまりぼくのことをよく知ってると思ったけど、そうじゃないということがわかったから、今度はぼくがキミを観察してるのさ」
 静かに、青年の目元が細まった。
「……よく、わからないな」
「なんで?」
 ジーパンの裾に泥水が飛びかかった。波打つ水面から青年の顔も並木も青空も消え、リアルな革靴が立ち上がった青年の足下、水たまりの横で黒光りしている。
「おまえっ、なんでなんでってさっきから。少しは自分で考えようとは思わないのか?」
「それはキミも同じじゃないか」
 どこからともなく声が聞こえる。
「だって、ぼくはキミなのだろう?」
「うるさい!」
 喉から出た唸るような声に、青年は今度こそハッとした。自分は、誰を相手に、何を言っているのだろう。驚きの次は羞恥と憤りだ。たまらなく逃げ出したい。誰から、何から? わからない自分が恥ずかしくて苛々する。衆目など無いのに見られているようで、自分が変質者のように感じられる。
「矛盾したこと言いやがって……っ」
 ぼくは君、ぼくはきみ、ボクハキミ……追い詰めようとする声が何度も反響している。逃げ出したい。それでも青年の足は、数ミリでも動かなかった。踏みしめた石畳は人類史上類を見ないほど強力な磁石かなにかなのだろうか。力が入りすぎて感覚がないのか、それとも脳から体のコントロールが切り離されて、全くただの棒きれになってしまっているのだろうか。
「そうだね、君にこれは似合わない」
 青年の顔色が悪い方向に変わる頃、追迫する声は、瞬間、ピタリと止まった。
「わかった。こういうふうにしよう」
 花の香りがする風が、ふわりと頬を、水たまりを撫で去る。
 青年はよろめいた。血液が急に足元まで届き、頭から抜けたような気がした。体中の緊張という緊張がとれて、思わず止まっていた息を吐き出すほどに、いつの間にか青年はこわばっていたのだった。
「ほら、もう一度ぼくを見てよ。最初君がぼくを見てくれたのと同じように」
 半ば思考の止まっている青年が、言われるがままに黒曜の瞳を覗く。青年は、二、三とまたたいた。自分の意識は、自然と細く研ぎ澄まされ、糸のようになり、針穴に通り、もっとよりあわせられて勢いを増し、今や黒の泉と錯覚するほどの瞳に飛び込んでいった。
 泉に映る青年の目、に映る青年の目、に映る青年の目。合わせ鏡式に幾重にもなったレイヤーをくぐり抜けていったあるポイントで、青年は見た。黒の世界の枝に、青い小鳥が一羽、とまっていた。可愛らしく小首をかしげ、戻し、チチッと一度鳴く。奥の階層へとさらにさらに行く最中である青年が振り返った先、沈む分だけ鳥は離れていく。
「待って!」
 青、いや、白い点のようになってしまいそうな小鳥がはばたき飛んだ。なぜか泣きそうな声と共に手を伸ばしたその瞬間ーーバネの原理が働いて、青年は急速に水たまりを覗き込む自分へと帰還した。
 瑠璃色の鳥が飛び出した方を探す。抜けるほどの青空に擬態したような青い点が、ちらっと認められた気がした。革靴が鳴る。底が濡れたショルダーバッグを横腹に担いで、青年は走り出した。
 無我夢中であるはずの青年は、待って待ってと急く自分を感じながら、どこか冷静な自分も気になった。不思議体験真っ最中の自分は今まで何をしていたんだろう。今までとはさっきのことから過去すべてのことだ。おい鳥ちょっと待て! 人生でこれほど焦ったことはあるか、いや無い。だあぁカバン邪魔、ポイ! あれを逃してしまったら、もう未来なんてあってないようなものだ。あれ見失ったか、いや大丈夫だいたっ。なんでそう思うんだろう、これは直感だそれ以外の何物でもない、本能的な焦りだぞ、いきなり隕石が落ちてきてこの世が終わりますってよりも焦ってる絶対!
「うべしっ?!」
 そのように焦っているのなら、雨上がりの道は凶器でしかない。石畳の溝につまづいた上に濡れた足場にスリップした青年は、ものの見事に顔面から床にダイブした。
 見失いたくない鳥のために、筋トレかくや背筋総動員、泥まみれの顔を上げる。視界に広がったのは、青いミニスカート。目が行ったのは、影に隠れる青と白のしましま紐パンだった。
 時が止まった青年の代わりに、ロマンの詰まる屋根を着た少女が、一歩だけ、横へとずれる。高いところで結んだ長い白金の房を揺らして、瑠璃色の鳥の住まう双眸が、じっと青年の瞳を見つめた。アクシデントであっても痴漢めいた行為をされた少女は、驚きもせず、助けを呼ぶこともせず、ただただ青年のことをまじまじと眺めている。
 消費期限が近かったブルージーンズの膝は見事に破け、Yシャツはクリーニングでも手遅れな上にいくつかボタンが飛んだ状態で、完全に変質者の類と見分けが付かない様子になってしまった青年。丸い頬を持つ、西洋人形さながらの少女に見つめられた当人は、本当に時が止まったかのように、何も考えられなく、また、何も考えていなかった。ただ、そのまっさらな空間にひとつだけ浮かんできた、黒い活字体のフレーズを、あろうことか陶酔の色濃い声色で叫んだのだった。
「もしかして君は、僕じゃないですか?!」



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 あとがき
 自分を知るには恋をしろ。な文でした。
 カオス成分多め。一人二役だからショウガナイネ。


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