ss | ナノ
「何度見てもいいざまだな、標本みたいだぞ上級天使」
「……また来たのか、なまえ」
見物料を取ろうか、と珍しく冗談めかした口調で言ってみせる彼の腹部は、感覚球の鋭い棘と同化するようにして貫かれ、宙に浮いている。その背には、大熱波の際に偽装翼ではなく本物となった、漂白されたかのように真っ白な翼。見る度に痛みはないのだろうかと疑問に思うなまえだが、上級天使の顔に苦痛の色はない。あるいは彼ならば苦痛などは表に出さないのかもしれないけれど。
「彼、頑張ってるみたいだよ」
「そうだな。天使銃は使いこなしているようだ」
上級天使が感覚球で意識を飛ばし、ある少年に何度も託す特殊な銃。少年は何度も殺され何度も死に、稀に最下層へと辿り着くこともあった。
その度に、上級天使の解放は近付いている、のだろうか。なまえには詳しいことはわからない。まだ彼女は下級の天使、小さな偽装翼しか背負えない。
それなのに、何故か彼女は大熱波の影響を何一つ受けていない。この世界で、ほとんどいない普通の人間の姿をしていた。
「早く自由になりたい?」
どこからか現れた天使虫――リトル――と戯れながらなまえは笑う。それはもしかすると、上級天使の今の状態を嘲笑っているのかもしれない。だが、そこに悪意を感じることはなかった。短く「そうだな」と答える上級天使は、なまえを憎たらしいとは思わない。
「自由になったら、なまえ。お前を私のものにしたい」
「寝言は死んでからあの世で言えばいいのに」
天使虫に同意を求めても「おわぁ」という鳴き声しか返ってこないのを知っているにも関わらず、敢えて首をかしげてみせるなまえ。上級天使が予測したとおり天使虫は「おわぁ」と一声鳴くだけで、飛び去って行った。
残念そうに肩を竦めるなまえの背で、小さな偽装翼が揺れる。
「詰まらない。退屈だ……早くお前が解放されてくれれば私の遊び相手が確保できるのに」
「……私はマルクト教団の指導者なんだが」
「そんなもの知るか」
「お前が何故教団に入団したのかが甚だ疑問だ」
「退屈凌ぎ」
一言で言ってのけるなまえを横目で確認すると、悪びれもしていない。ふてぶてしいといえばふてぶてしいが、この世界でバロック―――歪んだ妄想に囚われずに生きている人間はかなり貴重だ。だが上級天使に言わせれば、何ものにも捕らわれぬ自由な心、それは逆説的に考えると何よりも歪んでいるように思う。バロックとは違う、もっと別の歪み。
「……お、あの子が久し振りにここへ来るみたいだ」
何かを感じ取ったのか、なまえは振り向いて呟く。立ち上がって服の埃を軽く払い、起き抜けの猫のような欠伸をした。
「じゃあな上級天使。下っ端の私はそろそろお暇させてもらうよ」
今までのが上司に対する口の利き方か、と軽く説教をしたい気分もあったが、上級天使はそれを抑え背を向けていたなまえの名を呼び引き止めた。
「なにさ?」
彼女は立ち止まり、体ごと振り向く。
上級天使は自由の利く首を動かし、真っ直ぐになまえと目を合わせる。
「また、ここにこい」
上司命令だと言わんばかりに威厳を含んだ声で言い切る上級天使。しかしその躰は痛々しい拘束を受けていて、どこかちぐはぐで滑稽だ。思わず自嘲してしまうが、彼の赤い瞳に映ったのはなまえの笑みだった。少し驚き、目を見開く上級天使に再び歩み寄り、なまえは恭しく彼の手を取って跪いた。
「君が望むなら、って言いたいところだけど、気が向いたらね」
そう言って、手の甲に唇を落とした。初めて感じる彼女の唇は柔らかく、そして温かかった。
今度こそ去っていくなまえの背に、男は何の声をかけることも出来ずにいる。何故なら、今振り向かれたら血色の悪いその頬に、朱が上っていることを気付かれてしまうだろうから。
「………、覚えていろ」
もしかしたらなまえは、それすらも感づいていたのかもしれないけれど。
歪んだ恋の始まりは、ここからだ。
バロックハート
自由になったら取りあえず、その柔らかい唇を独占してまおうか。
終
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