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「好きだ」


そう言って左胸に触れてくる手を拒めないのは、男に下心がないのだと錯覚してしまうから。実際その手は静かに左胸に置かれたまま、動かない。ただその鼓動をてのひらに感じているだけ。見上げれば、いつもとなんら変わらないさわやかな笑顔がそこにある。爽やかな、それでいてどこか胡散臭い、中身がないように感じる笑顔。
この笑顔のまま毒を吐かれると精神的ダメージが計り知れない。


「ねぇ、好きだよなまえ」

「私は何と返せばいいんだ」

「うーん、好きだって言ってくれると嬉しいかな」


赤い装束に身を包み、腰には大振りな剣を携えて。まさに騎士といった表現が相応しいエースという男は、たまにその笑顔のまま爆弾発言を投下することがある。


「……なまえ、直に胸に触ってもいい?」

「死んで出直せ」


このように。
なまえはエースによく似た胡散臭い笑顔を浮かべ、平手打ち、などと可愛らしいものではなく右拳を繰り出そうとする。しかし、エースは騎士なだけあって少女の拳など余裕で止める。利き手ではない左手で、彼女の手首を拘束した。いつの間にか両手首を捕えられているのだから、本当にこの男は計り知れない。
そのようなことも普段から多々あるもので、なまえは仕方なしにため息を吐く。沈黙を肯定ととったらしいエースは、服の間から手を滑りこませ直に胸に触れた。彼の手は温かいのだが、胸に触れると冷たく感じる。
エースのてのひらには、心臓の鼓動が伝わっているのだろうか。


「動いてる」

「そりゃ、止まったら死ぬから」

「温かい」

「……エースだって温かい」


なまえは両手の拘束を解いてもらい、目の前にあるエースの胸に触れた。伝わるのは心音ではなく、かちこちという機械的な時計の秒針の音。彼女が初めてこの国の住人の胸には心臓ではなく時計が存在していると知った時には、酷く驚いた。こんなにも自分の変わらないのに、そんな決定的な違いがあったなんて。まぁ倫理感やその他概念などの違いは少なくないのだが。


「好きだって言ってくれないのか?」

「気が向いたらね」

「今がいいんだ」


エースは強請るように熱っぽい視線でなまえを見詰める。赤い瞳が細められる。少女は真っ直ぐと見返した。笑っているのに笑っていないと感じるのは、どうしてだろう。たまに彼は無表情だったりもする。それが本当の"エース"、"ハートの騎士"の素顔だったのだとしたら。
―――ああ、そうか。エースは何よりも純粋なんだ。だから自らの役割から逃れたい。まっさらな心を、笑顔で取り繕っている。それこそが本当の仮面なんだ。


「…俺といるのに、考え事?」

「断っておくがエース、お前のことを考えてるんだ」


以前同じような話題で誤解を招き、酷い目に遭ったことを忘れているわけではないので間髪入れず断りを入れておく。エースはまたあははと笑う。真意を読み取れないのはこの笑顔の所為というのが大きい。本当に下心がないように見えるのがこの男の質の悪いところだ。





「なまえ、好きって言ってよ」


そう言いながら口付けてくるエース。段々と深くなっていく口付けの最中に好きだと言えるほどなまえは器用ではない。舌を差しこまれ、歯列をなぞられ粘着質な音がいやに響く。唇を啄まれるように甘噛みされるといよいよ意味を持つ発声が難しくなってくる。甘い声しか発せなくなっていく自分の声帯が憎らしい。それよりも、今回のキスは普段より長い。段々と苦しくなっていくが、エースの方はまだまだ余裕そうだ。肺活量があるからなのか、それともただ単にキスが上手いのか。


「キスで窒息死ってロマンチックじゃない?」


いきなり何を言い始めるかと思えばこいつは。そんな死に方をした暁には惨め過ぎてあの世で胸を張れないだろう。惨め過ぎるにも程がある。死んでからもう一度自殺したい気分になると思う。


「私は謹んで遠慮したいんだけど」

「え、それは困ったなぁ。俺は君の全てが欲しいのに」

「命も?」

「そう、命も」


ずっと左胸に置かれていた手に少しだけ力がこもる。なまえは唇を噛んで声を押し殺した。


「なまえを斬ったらどうなるんだろうって、いつも考えてるんだ」

「ちょ、っと待てエース。お前いつも爽やかな顔してそんなおっかないこと考えてたのか」

「あはは」


笑いは肯定。頭が痛くなる。エースは天然で、黒い。今の発言だって実行しかねない。
どうしてこんなある意味最悪な男を好いてしまったのかは一生のうち一番の疑問に残ると思われる。なまえは苦笑した。エースはきょとんと首を傾げた。そうしていると黒い部分なんて皆無なのに。


「まぁ、いい。そんなお前を好きになってしまった私が悪い」

「うわ、何だよそれ、酷いなぁ。俺を好きになったからには後悔させないよ?」


既にその笑顔が怖い。
ふと、彼は何かを思いついたように表情を変える。稀に見せる、無表情。ぞっとするような冷たさを感じるも、どこか寂しそうにも見えた。
エースは指でなまえの輪郭をなぞりながらゆっくりと口を開く。


「もしも俺が死んだらさ。……なまえは俺の時計を持って逃げてくれる?」


彼は至って真面目に、真摯に、静かな声でそう問う。
おかしいとは思う。エースは『元』"ハートの騎士"で、今は"時計屋"ユリウス=モンレーの仕事を手伝っている。友人の時計、恋人の時計を持って逃げたりした者から時計を回収する仕事。抵抗されれば殺す。時計の回収を拒むのは罪。いつか帽子屋の三月ウサギが友人の時計を壊すという大罪を犯したらしいが、その時の彼も今のエースと同じ気持ちだったのだろうか。
いや、逆か。自分は時計を預ける側なのだから。


「……考えたくないよ」

「真剣に考えて。俺は、もし君が俺を残して死んでしまったら、君の心臓を持って逃げるよ?」

「いや、それもどうだ」


わざわざ体から心臓を抉り出すというのか、と律儀に指摘するなまえ。それも嫌だね、とエース。脈絡も糞もない会話には既に慣れた。


「とにかく、私はエースが死ぬなんてごめんだ。そんな話をするなら余所でどうぞ」

「あ、そうだ。だったらこうすればいいんだよね」


エースの笑みに艶が交じる。唇をなまえの耳元へ寄せ、甘く酔わせるような声音で囁いた。


「俺たちが一緒に死ねば、問題なんて何もない」


彼がそういうなら、本当にそうするつもりなのだろう。きっとその時は、いつも彼が持ち歩いているあの大振りな剣で。この胸と自らの胸を共に貫く。その光景は考えたくもないものなのに何故か容易に想像することができた。

ただ虚しいことに、後に残るのは、なまえの亡骸と、エースだった時計、それだけ。
抱き合って死ぬことすらも許されないなんて皮肉な運命。それすらも受け入れた上で、エースはなまえを抱き締めている。無性に泣きたくなったなまえは、未だ左胸に置かれた大きな手に縋るように包み込んだ。ほんの少し悲しそうに笑ったエースは、さらにその上からなまえを抱き締めた。
願わくば、彼女の命を閉じるのがこの手でありますように。そしてどうか、ずっと共に在りますように。
役から逃れたい男が願うのは、何よりも純粋な恋慕の情。叶わないと知らないわけではないのに願ってしまうのは、彼が"ハートの騎士"だからではない。

知らなくてもいい音を知り、それを愛してしまったから。





赤い音





なんて、皮肉なんだろう

知らなければ、役なんて勝手に受け継がれていくのに
知ってしまったから、この役のまま存在を維持していかなければなくなってしまった



終幕



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