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ブラッドはカツカツと靴音を立てながら歩く。普段通り億劫そうにだるそうに、それでいてその歩みにはどこか焦りが含まれているようにも感じ、段々と早足になっていく。珍しく、奇妙と言わざるを得ない帽子を被ることも忘れて部屋から出てきたらしい。その頭上には何も乗っていなかった。やがて一つの部屋の前で立ち止まると、ゆっくりとした手つきで扉を開く。鍵はかかっておらず、軽い音がして扉が動いた。

ブラッドは部屋に入り、周囲を見回す。人影は、ない。


「なまえ」


人影もなければ返事もない。
焦燥に駆られたように、彼らしくもなく語気を荒げてもう一度その名前を呼ぶ。


「なまえ…!」


またしても返事がない。ブラッドの顔に絶望とも取れる、それに近い表情が浮かんだ。普段の彼を知っている者がそれを目にすれば、何か悪いものでも食べたのではないかと疑いたくなってしまうことだろう。それほどまでに、ブラッドの表情は絶望に塗り込められていた。
膝が笑うのか、数歩下がり、壁に背を預ける。片手で顔を覆って、視界を闇に染めた。そして小さく、ぽつりと呟く。「帰ってしまったのか」、と。認めたくないのだが、自ら口にしてしまうと必然的に認めたということになる。面倒臭いことが大嫌いな自分がこうもなまえに執着していたのか、そう考えると笑えてくる。だが、何故かその唇の間からは深い溜息が漏れた。
暫くその状態のまま瞑目し、少しばかり混乱していた自分自身を落ち着ける。彼女はもう帰ってしまった、ここにはいないのだ、そう言い聞かせ、手を退け目を開くと、

そこにはなまえがいた。


「あのさ、ブラッド。あんたは人の部屋で何してるの?…そりゃここはあんたの屋敷だけどさ……」


ブラッドは言葉を失う。壁に背を預けたままの自分の間近に、帰ってしまったのだとばかり思っていたなまえがいる。間近どころか、覗き込んでいるため非常に近い。それこそ、唇と唇とが触れそうなくらいに。
動揺を悟られぬよう極力努めながらもう一度溜息をつくブラッド。だが、安堵の表情を隠し切れていないのは事実だ。


「まったく……おまえは、いるならいるで返事くらいしたらどうだ」

「ごめんごめん。私って読書に夢中になると周囲が見えぬ聞こえぬな状態になっちゃうんだ」


それくらいはブラッドも知っていた。その程度のことを知り合うほどには、長い時間を共に過ごしてきた。それでも、不安になったのは何故か。起因は、彼の睡眠が関係している。


「で、あんたはノックも無しに何の用?」


ノックはした、と言いかけるブラッドだが、咄嗟に口を噤む。確かに、ノックをしていなかった気がしないでもない。事実、手に持っていた本を机に置いている彼女に何も言えずにいる。
マフィアである帽子屋ファミリーのボス、ブラッド=デュプレが情けないものだと、自嘲した。


「いや、特に用はない。一緒に紅茶でもどうかと思ったが読書の邪魔をしてしまったな。すまないまた今度にするとしよう」


早口でまくし立て、踵を返し部屋を後にしようとするブラッド。だが、それは敵わなかった。


「おい、嘘はよくないぞ帽子屋」


なまえに腕を掴まれ、引き留められていたから。





「嘘、だと?……どうしてそう思うんだ」


ブラッドはすぅっと目を細める。大抵の人間はこれで引き下がるのだが、なまえという少女はいい意味でも悪い意味でも肝が据わっている少女だった。


「だって、ブラッドが帽子被り忘れて出歩くなんておかしい。というか、まず、あんたが昼の時間帯に部屋から出歩いてるのがおかしい」


軽く失礼な発言だが、間違ってもいないのであからさまに否定することができない。帽子屋は眉間に皺を寄せ不機嫌さを露わにした。
だが、言動とは裏腹に心の底から心配そうな表情をしているなまえを邪険にすることもできず、諦念の溜息を吐いて罰が悪そうに(見る人によってはだるそうに)頭を掻いた。


「……お前が、いなくなってしまったかと思った」


帰ってしまったと思ったら、酷く不安になった。ブラッドが言う。
少し目を見開き驚いた様子のなまえは、緩みそうになる口元を慌てて引き締める。しかしその語調は若干震えていて、笑いを堪えているのが明瞭だ。


「ああ……つまり、そういう夢を見た、と」

「な、なんだと?」


今度はブラッドが驚く番だった。別に今まで寝ていたとは一言も口にしていないのに、例えこの時間帯に活動していることが多くないことを知られているにしても、夢を見ただなんてことは間違っても言っていない。


「だってブラッドってわかりやすい。すぐ顔に出る。今もかなり不安そうな顔してたし、微妙に自信家のあんたがそんなこと考えるなんて、夢見が悪かったとしか思えないよ」

「……ふ、おまえは私のことをよく理解しているな」

「それに、ブラッドがあんな大きな声出すのも珍しい。というか、初めて?」

「っ、な……!」


聞いていたのか、と続ける気力も失せ、彼はぐったりと肩を落とす。「聞いていたというか聞こえてた」、そう言ってのけるなまえが憎らしい。あらゆる意味で。自分が何故このような女に執着しているのかと疑問に感じながら顔を上げたとき、やはりなまえは笑っていた。ただ、嘲笑ではなく、優しく笑っていた。普段は帽子屋と同じというか、近しい感じで、不敵に、或いは嫌味たらしく笑うことが多い彼女が、今は優しげな慈母のように微笑んでいる。ブラッドは面食らった。驚きとほぼ同時に、頭を抱き寄せられる。何か言うよりも先に、なまえが口を開く。


「大丈夫だよ、ブラッド。私はあんたを置いて帰ったりしない」

「………絶対か?」

「絶対だ」

「本当に絶対か?」

「本当に絶対だ」


子供のような押し問答に、呆れよりも愛しさを感じはじめるなまえ。むしろこれって普通はポジションが逆であるべきなんじゃないかと思うのだが、それもどうでもよくなってくる。脳内麻薬全開だ。何よりそんな自分に呆れを感じるのだが、愛しいものはしょうがない。言い訳染みたというよりも実際言い訳の愛だか恋。ブラッドはそれを面倒だと言い、なまえはどうでもいいと言う。何とも面倒臭がりな男女だが、ある意味統一感があると言ってしまえば無いことも無い。淡い恋愛とは到底称せないものだが。


「あー、あと、自分が犬だと言い切るウサギさんと、サボり癖が板についてる青い子、守銭奴が半端ない赤い子の双子も放っておけない」

「……なまえ、おまえは私のことだけを考えていればいい」

「なんだよそれ。まぁ、常にだるそうでやる気なさそうな帽子屋さんが何よりも放っておけないけどさ」


ムッとして拗ねたようなブラッドが、おかしくてぷっと吹き出してしまう。最初はなまえが彼を抱き締めていたはずなのだが、いつの間にか逆になっていた。ブラッドが、なまえを抱き締めている。いつの間にか。


「私の傍にいろ。いや、傍にいないと駄目なようにしてやる。どんなに許しを請われようと解放してやらない」

「あらら、私もおっかない男に惚れられたものだ」

「マフィアだからな。…ああそれと、決してこの思いは一方通行ではないのだろう?」

「言わせる気か」

「聞きたいんだ」


すっかり調子を取り戻したブラッドはだるそうに言うも、その視線では急かしてくる。仕方がなく男の耳元に唇を寄せ囁いてやれば、満足そうに口元で弧を描く。抱き締め、なまえの胸に耳をあてた。心臓の音がする。酷く落ち着く音がする。彼には、ブラッドには、どんなことをしても決して真似出来ない音なのだ。その音に惹かれるのは、必然なのか。


「ブラッドって可愛いところもあるよね」

「うるさい。もう少しこのままでいろ」

「はいはい」


ぴしゃりと切り捨てるように言うも、腕の力は強まり、胸に耳を当てると言うより押し付けているようだ。普通なら焦るが、何故かそんなことはない。男にそうされて焦らないのもどうかと思うが、既に慣れきっている。
ブラッドの黒い髪を指で梳き、自ら抱き寄せる。なまえにとって自然な心臓の音と不自然な時計の音。ブラッドにとって自然な時計の音と不自然な心臓の音。重なると、まるでひとつの時計みたいだ。





刻む秒針





神様、もしも願いが叶うなら

どうかどうか、僕の時計を止めるのが君でありますように


終幕


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