ツイてる乙女と極悪ヒーロー【44】


 追い掛けて来ないなら、さっさと教室に戻ればいいだけ。
 頭では分かっていても、足はそうすることを拒否しているようで、一歩がいつもよりずっと狭い。

 もしかして……すでに後ろにいないとか!?

 それならいいと、確認するために振り返ろうとして、少しだけ動かしてしまった頭を慌てて止めた。

 もし、まだいたら?

 振り返った私を見て、勝ち誇った顔をする彼の顔が頭に浮かんだ。
 ダメ、絶対にダメ!
 そんな屈辱的な負け方だけはしたくない!
 想像して思わずブルブル頭を振った。

 なんだろ……気が付けば昨日からずっと、私の頭の中は彼のことでいっぱいだ。

 早くここから逃げ出したいはずなのに、声も掛けない追っても来ない彼が気になって仕方ない。
 矛盾する気持ちで叫び出したくなった時だった。

「――――ッ!?」

 突然だった。
 気配もなかった、音もなかった。
 後ろへ身体が引っ張られ、トンと肩が何かにぶつかった。

「どこへ行くつもりだ。前をよく見てみろ」

 後ろから聞こえる彼の声。
 離れているわけじゃなく、近く……それも頭の上から聞こえる。

 肩の触れている場所がどこかを確認するより早く、顔の下だけど胸よりも上、後ろから伸ばされた白いシャツに覆われた腕が、私の肩を抱いていることに気付いた。

 なに、これ……何が起きてるの??

 身体の前に回された腕、肩が触れているのは程よく硬い何か、そして……まるで密着しているかのように近くから聞こえる彼の声。
 密着……。

 私、もしかしなくても、彼に抱きしめられていませんか??
 冷静に状況を確認した後、私の身体はボッと一瞬で火が点いたように熱くなった。

「あ、あのっ!! な、ななな……にににに……して……」

 一度はされてみたい"後ろからギュッ"を片手だけとはいえ、された私は頭の中が真っ白だった。

「前を見ろ、と言わなかったか?」
「前?」

 憎らしいほど感情のない声にムッとしつつ、言われるままに視線を前に向けた。

「うわっ!」

 目の前が緑一色で思わず仰け反ったけれど、後ろには彼がいてそれ以上は下がれなかった。

 後ろばかり気にして歩いていたせいで、いつの間にか変な方向を向いていたらしい。
 あのまま進んでいたら、間違いなく植え込みに頭から突っ込んでいた。
 
 助けてくれた。
 たったそれだけのことで、胸の奥がキュゥッと音を立てた。

「あの……あり、がと」

 自分でも信じられないほど、素直に出たお礼の言葉。

 自分じゃないみたい。
 鼓動がバカみたいに早いせいかもしれない。
 でも、このドキドキは嫌じゃない。
 前にも経験したことがある、ドキドキして苦しいのにムズムズして恥ずかしい。

 そんなはずはない。
 アレのはずがない。

「礼を言うなら、人の顔を見て言うのが、礼儀だよな」

 言い終わるより早く、彼の腕の中で身体の向きを変えられた。

 ――――近いッ!

 向き合って改めて、二人の距離がゼロだということを思い知った。
 身長が違うせいか視界には彼の顔ではなく、開いた襟元から鎖骨が見える。
 男子の鎖骨を見てドキドキしたのは初めてかもしれない。
 目のやり場に困って、キョロキョロしていると、不意に視界が変わる。

「やり直しだ」

 また、だ。
 彼の指が顎を持ち上げ、上を向かされた私の顔が、彼の瞳に映っている。

「どうした。遠慮なく言えよ。嵐様、下僕を助けて下さってありがとうございます、って」
「あんたねぇ、何様よっ! 人のことを下僕、下僕って!」
「だから、嵐様だろ。特別に名前を呼ばせてやる。泣いて喜べ」
「ばっか、じゃないの!? ってゆーか、離してくれません?」

 慣れって怖い。
 こんな状況なのに強く出られる自分がいた。
 身動きを取れなくしている彼の腕を指差すと、彼は腕に力を入れたのか、私の身体がさらに彼に密着する。

「ちょっ……何、す……る」

 怒鳴るため、顔を上げたのは失敗だった。
 唇が触れそうなほど近い。
 ほんの少しでも動いたら、彼の唇に触れてしまいそうな距離に、思わず息を呑んだ。

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