ツイてる乙女と極悪ヒーロー【32】


「い、行かないでーーーっ」

 歩いて行ってしまう彼の背中に向かって叫ぶ。
 もちろん先生に気付かれないように小声だったけれど、ちゃんと彼には届いたらしい。
 立ち止まった彼がゆっくりと振り向いた。

「まだ、何か用か?」

 不機嫌な声に、私は愛想笑いを浮かべた。

「何ていうか、今のは勘違い?」
「勘違い?」
「そう、勘違い! 気が動転してて! あなたが先生と同じなんてありないですよー」

 自分でも分かるほど白々しい演技、こんなことで彼の機嫌が直るとは思わなかったけれど、彼は戻って来た。
 もう一度、私の横に立った彼は、静かにこう聞いた。

「助けて欲しいか?」
「もちろんです!」

 彼の言葉にようやく「ああ、良かったぁ」と安堵した。

 一時は本当にもうダメかと思った、彼が先生とグルだと本気で疑ったことは、絶対に彼にバレないようにしなくてはいけない。
 とにかく今はこの紐を解いてもらって、ここから逃げ出す前に、あの変態に一発蹴りを入れよう。
 縛られていたからされるがままになっていたけれど、手足が自由になれば何となく勝てるような気がする。

 準備運動のため、手首と足首をグルグル回す。

 頭の中で私にボコボコにされて、泣いて足元にひれ伏す姿を想像すると、楽しくなってしまう。
 笑い声を上げることだけは堪えたけれど、口元の緩みは我慢できなかった。
 今の私の顔は、きっと時代劇の悪代官のように悪い顔、それでも構わない、私は正義のヒーロー、ううんヒロインになるんだから!

 頭の中で景気の良いファンファーレが鳴った。

「助けて下さい、だろ」

 自分の世界に酔っていたせいで、彼が何か言ったけれど聞き取れなかった。

「え、なに?」

 どうでもいいけど、早く解いて欲しいと言いたい気持ちを堪えて笑顔で聞き返すと、今度はハッキリと聞こえた。

「助けて下さい、だろ?」
「はい?」

 耳が悪くなったのかな?

 さっきまで自分が悪代官のように思っていたけれど、本当の悪代官がここにいる。

 私の知っている正義のヒーローは、どこからかふらりと現れて、頼んでもいないのに首を突っ込んで、余計なお世話だけれど勝手に力を貸してくれて、どんな危機的な状況でも印籠一つで万事解決、そしてまたふらりとどこかへ行く。

 そんな家族中が認める正義のヒーローが、偉そうに「助けて欲しいのか、なら助けて下さいと言え」なんて口にするはずがない。

 ヒールがいてこそのヒーローなのに、ここに悪代官が二人いたら話は進まないじゃない!
 そうよ、私は間違っていないはず。

 自信を持って彼の顔を見上げたけれど、彼はハッキリと口元に笑みを浮かべた。

「どうか可哀相な下僕を助けて下さい、そう言うなら、お前が俺をあの変態と同じだと思ったことはチャラにしてやる」

「ええっ!? バレてる!? って、違う! そうじゃなくて!! 下僕ってなに! っていうか、あんたキャラが違うじゃない!」

「シッ! 大声を出すなって言っただろう。そろそろ横倉が戻ってくる。時間はないぜ、どうする?」

 いったい、どうして、こうなった。

 呆然としている暇は無い、彼の言うとおり先生が戻って来るのは時間の問題。
 でも、つい聞いてしまう。

「ふざけて、ます?」

 こんな時に冗談なんて悪ふざけだと思うけれど、もしかしたら場を和ますための冗談がただスベっただけかもしれない。
 笑わないと失礼だったかもしれない、と慌てて「アハハー」と付け足してみたけれど、彼は淡々と言った。

「いや、真面目に言ってるが?」

 そして、続けた。

「どうか、この可哀相な下僕をお助け下さい、ご主人様」

「じょ、冗談! 何よ下僕って! 別に助けて貰わなくたっていいわよ!」

 何やら聞き捨てならない言葉が増えていたけれど、カッとなった私はつい啖呵を切ってしまった。

 しまったぁ……。

 後悔しても遅い、唯一見えている彼の口元が意地悪に吊り上がる。

「そうだな。別に殺されるわけでもないし、折角だからお前も楽しむんだな。初めての男が少女趣味の変態というだけだ。大した問題じゃない」

 アッサリ、バッサリ、切り捨てられたところで、準備室の扉が開く音がした。

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