『姫の王子様』One step P4
「行って来なさい」
泣き声しか聞こえないしんみりしたリビングでその声は唐突にした。
それぞれ違う理由でうな垂れていた三人はその言葉にハッとして顔を上げた。
「行きたいなら、行って来なさい」
今まで一言も発しなかった父の浩二が突き放すわけでもなく、ニコニコ笑いながらおっとりした口調で繰り返した。
珠子は涙で濡れた顔を嬉しそうに輝かせたが、それとは反対に半泣きの拓朗は父に噛みつきそうな勢いで詰め寄った。
「父さんっ!」
「だってどうしても行きたいんだろう? お金を出せば行けるわけじゃないならこの機会を逃がしたらいつ行けるか分からないって言うじゃないかー」
一人掛けのソファにゆったり腰掛ける姿は、さすがこの家の長と呼ぶに相応しく堂々としている。
(風向きが変わったな)
普段は滅多に口出しをしない浩二が口を挟むということは、たとえ珠子のことに関してでもその瞬間から決定権はすべて浩二が握るということだ。
拓朗も父親には勝てず大人しく引いてきたが、さすがに今回ばかりは引けないと正面から父親を睨みつけた。
「そんないい加減なっ! 何かあったらどうするんだ!」
「拓朗の気持ちもよく分かるよー。
でも珠子も高校生だしそろそろ一人で何かすることを経験してもいいんじゃないかなー。 拓朗だって高校生の時、一人旅がしたいって言ってある日突然家を出て行ったことあったなー」
(あぁ……そう言えばそんなことも……)
確か高二の夏休み「旅に出ます」と書き置きを残して自転車と共に消えた拓朗、その頃は自転車で一人旅するのが流行っていたのかテレビで見たのを真似したくなったらしい。
けれど三日もしないうちに帰って来て、今となってはいつも酒の肴にされるいいネタになっただけだった。
そんな恥ずかしい過去を持ち出されて拓朗は悔しそうに唇を噛んだが、このままでは引き下がれないとばかりにキッと顔を上げた。
「珠子は女の子! 一人で行って変な男にでも引っ掛ったりでもしたら……」
「うん、だからね。庸介くん、頼めるかな?」
「はい?」
ことの成り行きを見守っていた庸介は急に自分の名前が出て来たことに驚き、返事はしたのものの見事に裏返った声になってしまった。
(これって……もしかしなくても……)
どうやら新しく吹いた風は自分にとっても追い風になったらしい。
庸介と珠子は思わず顔を見合わせた。
「父さんっ! 何を言ってるか分かってんのか!」
「分かってるよー。庸介くんなら東京のことも詳しいし、珠子のことをお願いするには適任だよね」
「そういう意味じゃなくて! だ、だってコイツらは……」
そこまで言って拓朗は口籠った。
皆まで言わなくてもそこにいる誰もがその後の言葉を分かっていて、敢えて口にするまでもなく浩二も二度三度と頷いてから口を開いた。
「庸介くんも大人だしね、そこは言わなくてもねー?」
おっとりとした優しい口調の中に、逆らえない何かを感じ取った庸介は無言で首を縦に振った。
(タクならまだしも……浩二さんに言われたら何も出来ねぇっつーの!)
元々そんなつもりはないけれど、いざそういう事を匂わされると自分が邪念の塊のような気さえした。
(いや……それに関しては否定も肯定も出来ないが)
あくまで珠子が18になるまでは待つという当初の約束事を違えるつもりはない、けれど一人の男としてみたら好きな女の子に手を出したい気持ちが常にあるのも事実。
本能と理性は日々仁義なき戦いを繰り返しているわけで……。
「で、でもっ……」
何とかこの状況を打破しようと懸命に言葉を探す拓朗だが何も見つからず悔しそうに拳を握り締める。
「行けることになって良かったな」
「庸ちゃん……お仕事大丈夫?」
珠子が心配そうに眉を下げて見上げてきた。
いくら父親がオッケーを出してもまだ心配なのか、チラチラと拓朗の顔を窺っている。
庸介が真っ赤になった珠子の鼻の頭を指で弾いて「心配すんな」と笑うと、珠子もようやく笑顔になって嬉しそうに頷いた。
「そんな……」
結局の所一番貧乏くじを引いた拓朗だけがガックリうな垂れるというやっぱり毎度お馴染みの結果になった。
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