『-one-』
3days P34
なぜか分からないけれど麻衣一人だけが冷静だった。
聞くに耐えない汚い言葉も自分に向けられているはずなのに、なぜかそれが現実のものだと思えなくて仕方がなかった。
(こういう時ってどうしたらいいんだろう)
この状況をどうしたらいいのか自分はどうするべきなのか、当然ながらそんな経験は一度としてなかった麻衣は美咲ならどうするんだろうとボンヤリと考えた。
それでも今まで見てきたドラマのシーンを頭に思い浮かべる。
(開き直って自分が恋人だと彼女と対峙する)
(メソメソと泣いて彼女に許しを乞う)
(目の前の男をどういうことだと詰る)
自分は一体どうしたいんだろうと考えているうちに答えは強引に決められてしまった。
――ビシャッ!
冷たいと思ったのはその音を聞いた数秒後だった、ポタポタと冷たい雫が顎を伝って下ろしたてのスカートを濡らし溶けかけた氷が音もなく握っていた手の上に滑り落ちた。
(水を掛けられた?)
そう認識した麻衣の耳に再び彼女の金切り声が届いた。
「何とか言いなさいよ! この泥棒猫!!」
(本当にそうやって言うんだ……)
変なことに感心していると第二波が顔面を直撃した。
「淫乱! アバズレ!!」
(なんで私がそんなこと……)
彼女がいるなんて知らなかったなんて言い訳をするつもりもなかった、ただ目の前で水を掛けられても何もしてくれない智親にだけ腹が立った。
麻衣は立ち上がるとテーブルに手を付いて思いっきり智親の左頬を張り倒した。
周りから小さなどよめきが起きたことにも驚いて口をあんぐり開けている彼女にも目もくれず麻衣は走って店を飛び出した。
どこをどう走ったか分からないほど夢中で走って息苦しさで立ち止まると今度は嗚咽が止まらなくなった。
そこがどこかも分からずに歩道にうずくまり、子供のように声を上げて泣いた。
こんなに泣いたら一生分の涙を流して二度と泣けないんじゃないかと思うほど泣いて、真っ赤になった目と鼻をグシャグシャになったハンカチで拭きながら麻衣は携帯を取り出した。
頼れるのは一人しか居なかった。
どんなことを言われても仕方がないと覚悟した電話を掛けると美咲はすぐに駆けつけてくれた。
それから一晩中黙って麻衣の話を聞いて部屋のティッシュが足りなくなるとタオルで麻衣の鼻水を拭いて、それでも泣き止むことが出来ずにいる麻衣を抱きしめた。
外が明るくなった頃ようやく落ち着いた麻衣に美咲は一言だけ声を掛けた。
「次はいい恋しようね」
その言葉に頷くことしか出来なかった。
(ダメだ……今思い出しても泣けてくる)
麻衣は当時のことを悔しさと情けなさと美咲の優しさを思い出して鼻の奥がツンとするのを感じた。
でも絶対に智親の前では泣きたくないと涙が瞳に溜まることも雫となって頬を伝うこともさせなかった。
(どんなに思い出したって説明しようとする雰囲気はなかったじゃない!)
ただ自分は関わり合いたくないという顔をしていたことだけを覚えている、それなのに今さら自分の話を聞かないのが悪いと責められる理由が分からなかった。
「今さら昔のこと話しても仕方がないから」
どうせ押し問答にしかならないだろうし、今さらそんな昔の話を蒸し返してもこの状況が変わるとは思えなかった。
智親もそう思ったのか麻衣の言葉に素直に頷いた。
「それじゃあ、これからの話をしよう」
まるでこの時を待っていたと言わんばかりに智親は口を開いた。
けれど麻衣は何を言われても答えは一つしかないと思っていて、智親がどんなことを言って来てもすぐさま返事をしようと身構えた。
「彼氏、いくつ?」
こんな質問は想像していなかっただけに反応が遅れてしまう。
そしてすぐに返事が出来ない麻衣に次の質問が投げつけられた。
「年下なのは間違いないよね。それも一つや二つじゃない感じがする」
意外な所から攻めてきた智親に麻衣はこの後の話の展開がまるで予想出来なかった。
(どうしていきなり年なんか……)
麻衣と智親は同い年だったが付き合っている時に恋人にするなら同い年がいいとか年上がいいとかそんな話をした覚えはまったくなかった。
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